5 古文書 仏の道 迷悟
竹流が仕事を始めてからどのくらい時間がたったのか、真は出掛けることもなく側に座り込んでいた。時々、本堂の内陣の奥を見ると、細いながらも筋肉質なご本尊の腕の上で、光が落ち着く場所を替えている。やがて住職がやってきて、竹流の手元を見ながら感心したように頷いた。それから、真の方を見て問いかけた。
「退屈されておられるなら、私の仕事を手伝って頂けますかな」
真は一瞬竹流の方を見たが、すぐに住職に向き直り頷いた。
「力仕事くらいしかできませんが」
「大いに結構」
住職は竹流に向き直った。
「では、お連れさんをお借りしますぞ」
「十分こき使ってやって下さい」
竹流は微笑むようにそう言うと、またすぐに手元に視線を戻した。
住職は真を連れて冷えた長い廊下を奥へ進み、一旦建物を出ると、細長い中庭を通って二階建てほどの高さの古い蔵へ誘った。袖口から時代劇に出てきそうな古びた鍵を取り出し、蔵の重い扉を開ける。
中から、渇いた重い空気と上方から落ちてくる煙った光が流れ出した。
一瞬、色々なものが真の五感に触れていった。
「虫干しではありませんがな、時折こうやって開けてやらんと、古い気が籠って、どうなるものやら知れません。それに、私も年をとりましての、あの上に上るのはなかなか骨の折れることになりましての」
住職は長い木の梯の上方を指した。さして大きくない蔵の中では、階段らしいものはなく、上方の棚へ手を延ばすには細い梯のみしか手段がなかった。棚、と言うよりもメゾネット式の中二階がさらに中三階まであるような造りだった。
「近々、近くの庵で茶会がありましてな、さて、どこに豊臣家から拝領の茶碗をしまったやら。忘れっぽくなって困りますな」
真は、住職の不安げな記憶に従って、茶碗、茶杓、茶入、水指はもとより、香合や蓋置き、掛軸といったものを上方の棚から探した。しかし、住職の記憶は曖昧どころか、恐ろしいほど正確だった。
「お茶は嗜まれますかの?」
「祖母が、師範なので」
それを聞いて、住職が茶碗の木箱を開けてくれた。
豊臣家から拝領と言うので、さぞ派手やかな黄金の茶碗かと思いきや、漆黒の楽茶碗だった。持たせてもらうと、思ったよりも重く、しっくりと手に納まった。もったりとした土の質感が伝わるような茶碗で、濡れているわけではないのに湿度が感じられ、そのしっとりとした湿り気のためか手肌から離れてくれない。じっと見つめていると、蔵の高いところにある小さな明り取りの窓から差し込む光で、漆黒のはずの茶碗に仄かに桜色の光が浮き立った。
「せっかく久しぶりに出してやりましたからの、後で一服差し上げましょう」
一通り必要なものを出し終えると、住職は真に言った。
「虫干しには随分早いですが、この機会に一度、掛軸と書物の棚を改めましょうかな」
住職はそう言って、蔵の奥に真を誘った。真は言われるままに、書物の入った重い木箱をいくつか床へ降ろした。
住職がその箱を開けると、重い空気とともに様々な想いが迸りでた。真は一瞬、一歩後ろへ下がった。何か抗しがたい畏敬の念が湧き起こり、そうせざるを得なかったのだ。
ふと気が付くと、住職が小さな目で真を見つめていた。
「あなたは、何やら思い悩んでおられるようですな」
そう言いながら、住職は木箱へ視線を戻し、中の書物を確認しつつ、木の台の上へ出していった。真は穏やかな小さな姿を見つめていた。
「あなたはお若い。これまでの自分、つまり自分に責任のない出自も含めた来し方ゆえに、行く末も決まってしまうように思ってらっしゃいますな。上手くいかないのは、自分の中の何かが悪いのだと思っておられる。起こったことに対して、自分の中に悪い理由を捜して、それに怯えてしまっている」
真は住職の手元を見ていた。住職の手は大人のものとは思えないほど小さく、刻まれた皺は別の生き物のようにさえ見えた。その手が滑るように動き、書物を分別している。
「しかし、若いものも年老いたものも同じですがの、人間はこれから自分がなっていくものにしかなれんのです。それは、あなただけが決めることができる。自分の信じた通りに行きなされ。本当に間違った道ならば、逃げ道はありませんでしてな。だが、その時は自ずと分かるものでございますよ。それに、大概の場合、よく見れば仏は逃げ道を残しておいてくれております」
住職の言葉は読経のように淡々と続いた。意味がよく分からない者にもニュアンスだけは汲み取れるほどのゆったりとした言葉は、真にも何かを届けるような気はしたが、理解はできなかった。
「何もかも上手くいかなかったのに、ある場所にはまり込んだ途端に、色々なことが歯車が噛み合ったように動き出すことがございます。仏の世界では、理解できないことは捨て置くことも修行でしてな、意味など自ずと湧き上がってくるまで考えんことです。人の人生というものは、その時その時が点で存在しているものではございません。生まれたときからの流れ、線がございましての、それをきちんと眺めてみれば、ないと思っていた道がちゃんとある。自然に浮き上がるように見えてくるのでございますよ。さて、そこからは歩く勇気が必要でございますがの。何しろ、見えた道が平坦とは限りませんでしてな」
住職は真に語っているのか、それとも独り言を言っているのか、はっきりしないほどの穏やかな調子で続けた。
「あなたは優しいお人ですな。優しいお人にしか、あのものたちは見えませんでしてな、いや、あなたという人がわかって、あのものたちは姿を現したのでしょう」
真はようやく息をすることを思い出したような気がした。
「僕は」
何かが言葉になりかけて喉で閊えてしまった。
「自分の心が、恐怖や悲しみや猜疑心が、形になって現れているだけではないかと思います。精神科医のところに通っていたこともあるし、つまり僕は思い込みの激しい人間で、木の中に顔が見えると言われれば、本当に見えてしまう」
住職はほっほっと柔らかく笑った。
「猜疑心や恐怖では、あの子どもの姿はみえませんな」
真は住職が何を言っているのか、結局よくわからなかった。
住職は話しながらも、いくつかの書物と巻物を分けていっているように見えた。
「さて、全て目を通したわけではありませんでしてな、あの方が龍の話をなすったので、思い出しましたが、何やらそれにまつわる書物が色々とあったような」
住職が選びだしたかなりの数の書物や巻物を、別の木の箱に移して、真はそれを広間まで運んだ。と言っても、この文書はどう見てもかなり古い書物で、この住職は外国人の彼がこんな古文書を読めると思っているのだろうかと、不思議に思った。
だけど、あいつなら読むんだろう。
床の間の掛軸もすらすら読んでいたし、実際、職業ゆえとは言え、竹流の言語や形態認識の才能は半端ではなかった。
それは彼が真に勉強を教えてくれるときにも発揮されていた。文字を覚えることに幾らか困難があった真の前に、竹流はすらすらと見たこともない国の文字を幾つも、魔法の呪文のように書き並べて言った。
文字だと思うと苦しければ、模様だと思えばいい。お前はものを覚えるときに写真を撮るように景色を頭に入れるという才能がある。だから文字を景色にしていまえばいい。意味など後から湧き出してくる。全ての言葉には意味がある。書き言葉と話し言葉の違いはあるが、お前が幼い頃聞いていたアイヌの言葉と同じだ。言葉を学ぶことは思考を学ぶことだ、そして思考を学ぶことで人は形が作られていく。良い言葉を学ぶことは、いつかきっとお前を助けてくれる。
学校で教えられた言葉は全く意味をなさなかったのに、竹流が勉強を教えてくれるようになって、ルービックキューブの色が縦に横に並び始め、やがて面が出来上がった。だから今では、彼との会話には不自由を感じることはない。真にとっていいことも悪いことも、彼の言葉ならちゃんと理解できるし、真の方からも言葉を返すことができた。それが、他の人が相手だと、突然に意味が分からなくなることがある。
昼ご飯の準備ができました、と若い僧が住職と真に声を掛けた。住職に言われて、真は竹流を呼びに行った。
竹流は本堂の脇廊の畳の上で、まだ同じ姿勢で胡座をかいて座っていた。その側にはいくらか手直しの済んだものたちが置かれていて、彼がかなりのスピードで仕事をこなしていることがうかがわれた。その手の中に黄金に光る仏具があり、窓の障子から零れる淡い光を跳ね返し、真の目にまた錯覚を映した。
住職の説明によると、ここの本尊は金剛界大日如来で、大きな像ではないが、周囲に五智如来の他の四如来を配し、智拳印を結ぶ手、頭に抱いた宝冠、薄い衣にも、古い時代の黄金の名残があった。江戸時代の作とのことで、その時代、すでに仏像製作は絶頂期を越えてはいたというが、それでもこの大日如来は、光明を宇宙全体にあまねく照らし出すようだった。
その向こうに、竹流の姿が光に照らされて浮かび上がっていた。黄金の仏具に触れる指にはそのまま金が跳ね返り、光にけぶる金の髪、俯いた横顔の輪郭までも光の中に溶け込んで、まるで彼自身の身体から光明が発せられているように見えた。
これは手の届かないものだと、そう思った。確かなものを握っている手も、正しい言葉を語る唇も、この世界の遍くものを映し出す光を宿した瞳も。
「飯だって」
声は自分自身の喉を通ってきたものかどうか分からないほどに、耳の外側から響いてきた。
竹流は一瞬の間を置いて真を見た。それから、手に持っていた黄金の仏具を、滑らかな手の動きで畳の上に広げられた布の上に置き、思いきり伸びをした。
「あー、身体が固まってしまったな」
のめり込んでしまって、同じ姿勢のまま根が生えるような状態だったのだろう。
「何、手伝ってたんだ?」
竹流は言いながら立ち上がろうとして、一瞬足が痺れていたのも気がつかなかったのか、多少バランスを崩した。真は思わず手を差し出して、彼の腕を摑んだ。
「大丈夫だ。根を詰めすぎたな」
言いながら、竹流は真の腕に軽く触れ、そっと逃れた。
「和尚さんが、あんたに見せたいものがあるって」
広間で食事をしながら、真は住職が出してきた書物の話をした。
「読めるか?」
「多分な。わからなかったら和尚さんに聞こう」
暫く黙って箸を動かしていたが、そのうち竹流がふと手を止めた。
「ちょっとは落ち着いたか?」
真は竹流を見た。竹流がまだ怒っているのかどうか、よく分からなかった。
「落ちついたって?」
「気分がだよ」
真は何とも返事をしなかった。
午後からも、竹流は目一杯時間を使って修理修復作業に勤しんでいた。
真は住職に奨められて、午後のお勤めに同席した。本堂の中で、住職の朗々たる読経の声だけが響いた。小さな体とは思えないほどに、彼の声はよく響く。時々、脇廊にいる竹流が手を止めて住職の姿を見つめているのが、真の視界の隅に入った。
真は目を閉じた。
緩やかに流れ去るように、本堂も京都も日本も地球も薄れて消えてゆき、宇宙空間に漂った。住職の読経の声と共に、突然に宇宙嵐のような大いなるものの意識の風が身体を吹き抜け、真の意識をはるか彼方へ翔ぶように運んだ。その有機の壮大なる空間の中に身体も意識も溶け出すと、DNAは物凄い勢いで螺旋を駆け戻り、真は自分が、宇宙の中でまだ小さなひとつの細胞だった時に戻るような感覚を覚えた。
小さなただ一つの細胞が、太古の原始の海で漂っている。一人で孤独を暖めるように、そしてもう一つの小さな細胞を探している。
あぁ、同じだ、と思った。
思ったが、それが何と同じなのかよく思い出せなかった。ただ、読経の中に住職の言葉が蘇るようだった。
人の人生というものは、その時その時が点で存在しているものではございません。生まれたときからの流れ、線がございましての、それをきちんと眺めてみれば、ないと思っていた道がちゃんとある。
自分の遺伝子の中に残されている単細胞の時代からの記憶。それは途切れることなく、線として今の自分の位置にまで繋がっていることは、自然に了解できた。ただ、その先の道はまだ浮き上がってこない。真は目を閉じて、ただ心を空っぽにするように努めた。
午後遅めの時間になって、蔵から出した茶道具を清め終え、炭を熾して湯を沸かし、住職がお茶を点ててくれた。
身体の小さな住職は、炉の向こうにすっぽりと納まって見えた。
しかし、お手前は優雅で、まるで神の舞を見るかのように、流れるような手で、大きく穏やかな気配に充ちていた。二帖ほどしかない茶室では、住職が茶を練り始めると、その匂いが立ち篭めるように薫った。
今朝蔵から出されたばかりの茶碗は、どのような歴史を見つめてきたのだろう。歴史の渦に呑み込まれるような時代、茶室の中では様々な権力や欲望のやり取りが交されていたのだろう。そういうものを全て呑み込んで、茶はこの小さな空間で、今と変わらない震えるほどに心地よい薫りを放っていたのだろうか。
竹流と並んで濃茶を頂き、服み終えた茶碗を拝見すると、黒地に茶の緑が染み入るような沈んだ耀きを見せる。茶碗を戻し、水指の蓋が閉まると、竹流が拝見を乞うた。三つ鳥居の蓋置きがすっと住職の手に吸い込まれるように片づけられ、茶入が清められて定めの位置に出され、続いて茶杓と仕覆も並んだ。
茶入は美しい古瀬戸の文彬で、流れる釉薬の灰がかった茶が黒い面に優雅な文様を示していた。仕覆は古いもので、見たところ何かの宝尽くしのようだった。古渡という古い時代の舶載物で、釣石畳金襴と教えられた。
茶杓は、恥ずかしながら、と住職が説明した。
「若いころ、私が自ら削りましての、その竹はまぁ、見事に美しい竹でございましたが、嵐で倒れましての、どうしても遺したくて削らせて頂きましたのじゃ。今見ても、あの時のしなやかに天に向かって立つ美しい姿が、蘇るようでございますよ」
「では、どのような銘を?」
竹流が尋ねると、住職が答えた。
「迷悟、と」
真は、少しの間漢字が思い浮かばずに、考えていた。
「この世にあるものは全て消えゆく定めにございます。その美しい姿を遺したいと思ったのは、やはり迷いの心でございましょう」
竹流は茶杓を手に取り、しばらく何も言わずに見つめていた。真は、丁寧に茶杓を扱う竹流の手を見つめていた。優雅で綺麗な手は、修復作業を始めると職人の手になる。その手は古いものたちの匂いを沁みこませ、降り積もった年月の残骸は、幾日かは洗っても取れなくなる。
真は竹流の左薬指に指輪がないことに気が付いた。修復の仕事の時以外は決して外すことのない指輪だ。茶室で指輪を外すという作法を、この異国人はちゃんと知っている。
代わって薄茶が点てられた。濃茶を口にしたときは、茶の香りばかりが脳髄の奥まで浸み込むようだったが、今度はふと水の味が気になった。何と美味しい茶だろうかと思ったのだ。
「この水は?」
真が尋ねると、名水点てではございませんが、と言って住職が別の茶碗を持ちだして、水指から水を汲んでくれた。
口に含むと、身体に染み込み充たされるような霊水だった。
真が尋ねるように住職を見ると、住職は微笑んだようだった。
「意外ではございましょうがの、広間の脇の水盤の底の水でしてな、朝一番に汲み置きますと、このように香り立つような水でございますのじゃ」
真は両手に包み込むように持っている茶碗の中の水を、しばらく何とも言わずに見つめていた。