4 竹流 空の酒壜 弥勒菩薩
縁側の障子から明るすぎるほどの光が様々な影を伴って、閉じたままのまぶたの上で踊っていた。身体がまるで動かないが、金縛りのような嫌な感覚ではなく、ふわふわと気分は良かった。
まだ夜中なのか、あるいはもう夜が明けようとしているのか、幻の中にいるのか、現実なのか、まるで分らなかった。
目を閉じたままなのだから見ているはずはないのだが、瞼の上で光の揺れを感じる。襖が開いたようだった。
真の身体の上に影が落ちる。
その瞬間、真を取り囲んでいた光が大きく揺らぎ、走った。波が引くように、天井の隅へ、障子の隙間へ、床の間の柱の陰に、そして天井の龍へ、吸い込まれていく。
影は何かを躊躇い、揺れながら真の上で大きくなる。畳に触れている皮膚から、囁くような軋みが伝わってきた。
月の光はまだ真の身体に残っているのか、ぼんやりと温かい。肩に誰かの手が触れた。
その時、真の身体に、血のように何かが流れ込んできた。
これは何だろう。誰かの想いなのか、あるいは願いなのか、触れた温度は全てを伝えるようにも思え、満たされない何かを隠しているようにも思える。ずっと誰かを待っていたような気がしていた、その誰かが今、襖を開けて真のそばに歩み寄り、肩に手を触れている。その姿を見つめ心を見たいと願うが、流れ込んでくる感情はただ穏やかで優しく、躊躇うような気配がある。
耳元でとぷん、と音がした。温かい影が酒壜を振っている。小さな溜息と、穏やかな呼吸、そして不意に身体が浮き上がった。鼓膜に心臓の音が震えている。鼻をくすぐるのは、よく知っている白檀のような香木の香りだ。その香りはしばらくの間、真の身体を包み込んでいた。
これも脳が作り出した幻覚なのだろう。
十一で東京に出てきてから何年間か、しばしば満員電車や学校でパニックになるというので、真は精神科医のところに通っていた。功の友人の精神科医は幸い辛抱強い人で、もちろんそれが精神科医というものかもしれないが、真が何も話さずに座っていても、急かしたり問い詰めたりはしなかった。学校はどう、とか、友達はいるの、とか、聞かれたくないようなことは聞かなかった。たまに絵を描いてみるか、と勧められたりもしたが、そもそも真は絵が苦手だったので、実のなる木の絵とか、家の絵とか、人の絵などは描けなかった。たまに気が向いた時だけ、馬の絵や星雲の絵を描いた。それが心理検査であることは何となく知っていたが、何の意味があるのかはよく分からなかった。
功が何とか真の障害を理解しようとして、色々と努力をしてくれたことは分かっていた。精神科医のところに通うのは頭のおかしい人間だけだと思っていたが、功が科学的に分析できることならきちんと確認して、一緒に乗り越えていこうとしてくれていたのが分かっていたので、嫌だとは言えなかった。解離性障害や転換性障害という難しい言葉を丁寧に説明してもくれた。ただ、自分の症状が、そのような病気だとは確信が持てなかった。
もっとも嫌だったばかりではなく、時には自分のほうから進んで診察を受けに行ったこともあった。このまま社会と折り合っていけないのは拙いということが、何となく分かっていたからで、妹と二人きりになってからは尚更、上手くパニックにならないで生きていく必要性を感じていたからだった。
だが、竹流は功とは違う考えだった。理屈をきちんと説明しないと気が済まないという共通点はあったが、撫でるように隠すように真に優しくしようとする功や周りの大人たちのやり方に対しては、竹流はいつも辛辣な批判をしていた。お前は可哀想で特別な子どもではない、一人の人間として強くあれと真を叱りつけ、生きるための言葉や意志を与えてくれた。正直なところ逃げ出したくなるくらいのスパルタだったが、身体を鍛え、苦手な分野の勉強を克服し、そして好きな世界を広げる手伝いをしてくれた。
愛情などではなかっただろう。ただ弱さを逃げ道にしている真に腹を立てていたのに違いない。だが結果的には、功は竹流を信頼し、息子の教育の一切を彼に委ねるまでになっていた。
お前が妙なものが見えるというのは、大きな括りでは『錯覚』というものだ。怖いと思えば、暗闇ではシーツも幽霊に見える。お前は現実の人間が怖いと言って、頭の中に錯覚の住処を与えてしまっている。現実の世界と折り合えないことに逃げ道を探して安心しようとする。だから競争の中に放り込まれると、すぐに逃げ出そうとしてしまう。時には他人を出し抜いてでも前に出ようとする気概がない。他人への思いやりが深い、というだけではない。ただ傷つくのが怖いからだ。だが、努力もせず、傷つくこともなく、何かを手に入れたり、誰かを守ったりすることはできない。
いちいち尤もなことを言われるので、時には腹が立つこともあったが、彼のもとから逃げ出し何もできないと思われ続けるのは悔しいと思っていた。見返したい気持ちや、認めてもらいたい気持ちがあったし、それに、真に本当のことを突き付けてくる大人は、彼の他にはいなかったのだ。
そしていつのころからか、時々竹流は怖いくらいに優しい顔を見せるようになった。ただ相手を威嚇して牙を剥くことしかできない気の弱い野生の生き物のようだった真に、教育を施し、それが実っているという満足もあったのだろう。実際、真のほうも自分が彼のよき教え子であることを自覚していた。
だが、乗り越えたと思った今でも時々、満員電車の中で冷や汗が出てくることがある。何かきっかけがあるわけでもないが、吐き戻しそうになる。
一度、一緒に乗った満員電車の中で、手を握りしめられたことがあった。手掌に冷たい汗をかいているのは自分でも分かっていた。電車の窓からは西日が射していて、見上げた竹流の顔に橙の影を作っていた。
まだ怖いか、と聞かれた。
時々、と答えた。
お前は、生きているものがひとつひとつ、とてつもなく重い感情を持っていることを肌身で知っている。だから、それがかたまって沢山いるという状態の中に放り込まれると、それが重い感情のつまった箱の中のように感じる。感情は重いのに、風船のように簡単に破裂する。耳元や遠くで破裂する音が、お前には自分の身体の中で起こっていることと区別がつかないのだろう。
真にとっては意外な言葉だった。ずっと高いところから真を教え諭してきた相手が、真の傍に降りてきて、そして困惑しているのは彼自身のほうだとでもいうような言葉を投げかけてくる。優しく、不安な温かさが、その握りしめた指から伝わってきていた。
縋ろうとして指に力を入れた途端、確かだと思っていた手が、すり抜けて行った。竹流の手だったのか、美沙子の手だったのか、あるいは真が手に入れるはずだった未来なのか。
幻を消すように、ふわりと肩に掛布団が、まさに羽のように落ちてくる。
真はまたいつものように布団に潜り込んで、胎児のように体を丸めた。
翌朝、真が目を覚ましたとき、竹流の姿は布団の中にはなかった。真は手を延ばして羽織を取ると、浴衣の上にはおって縁側に出た。
すでに若者たちが掃き清めた後なのか、庭の枯山水の川は綺麗な白い流線を描いている。
右手の臼状の水盤が東からの光を受けて、鏡のように反射して広間の方へ丸い光を投げ掛けていた。木々の緑はまだ芽吹くことを躊躇っているようで、重なる枝の隙から、幾重にも光を滑り込ませている。
縁側にはもう酒壜もかわらけもなかった。内緒で持ってきたのだから、住職が早々に片づけたのだろう。
広間の障子は開け放たれていた。竹流が濡縁のすぐ傍に立ち、庭からの光を微妙に取り込んでいる広間の天井を見上げていた。真も天井を覗き込んだ。
もちろん、龍は消えてなどいなかった。どう考えても、そう簡単に消えるような儚い気配はないのだ。
竹流が真に気が付き、おはよう、と言った。
「よく眠れたか?」
「あんたは?」
竹流が少しばかり不思議そうに真を見つめ、穏やかな声で答えた。
「夢を見ていたな」
「夢?」
「お前が広間で誰かと酒を飲んでて、俺が見に行ったらお前は飲み過ぎて眠っていて、こっちの部屋に連れてきた、それだけの夢だったけど」
真は幾分混乱して竹流を見た。
「それ、冗談?」
「どういう意味だ?」竹流はしばらく考えているような顔をした。「本当に飲んでいたのか?」
「いや、多分夢だと思う」
ちょっと気持ち悪いが、夢が重なるということはないわけではない。あるいは、寝る前に飲んだ酒が、幻覚を引き起こしたのかもしれない。
あれが夢でも、ひどく切ない想いだけが、胸の真ん中あたりに残っていた。この想いにはどこにも行きつく先がないのだとして、それが辛いのか悲しいのか、それとももう願うことさえ無駄なのか、それどころか自分が何を求めているのか、よく分からなくなっていた。
美沙子と付き合い結婚する、大学を続けて留学し宇宙に飛ぶという夢を叶える、そういう確かな未来と幸福という足枷を無くした途端、自由がかなり居心地の悪いものだと知ったようなものだ。誰の目にも羨ましいと映るような輝かしい未来は自分に似合わない、などと格好のいいことを考えているつもりでもない。だが、気が付くと、ただ自分自身の感情に振り回されているばかりだった。
若者の一人に洗面所に案内してもらい、顔を洗った。水は冷たくて、整理できない頭の中を覚ますようだった。それから、また別の若者が朝食を運んできた。朝食を終えると住職が現れて、竹流と真を本堂へ案内した。竹流は住職の説明を聞きながら、修理しなければならない小さな仏像や仏具を確認していた。
竹流は本堂の脇廊になっている畳の上で、いくつかの道具を広げて仕事に取り掛かった。真は側に突っ立っていたが、結局することもなくて、竹流の側に座った。
「お前、暇だったら散歩でもしてきたらどうだ? 少し下れば曼殊院や詩仙堂、それからちょっと歩かないとならないが銀閣寺もある」
「うん」
返事は一応したものの、真は動かなかった。
竹流は小さな木の仏像から丁寧に背板を外し、中の朽ち具合を確認し始めた。
「それ、どうなるんだ?」
何か話しかけていないと気まずい気がした。もしも夜中に見た光景が夢ではなかったのなら、本当に彼の手が触れ、この身体を抱き上げられたのだとしたら、あの時流れ込んできた記憶の断片は、竹流自身の記憶なのだろうか。あの西日の中に浮かび上がった姿が、怖いほどに美しく思い起こされる。
「これは一木造りの仏像だからな、ひび割れを防ぐためにこうやって背面から内部をかき取ってある。そこに蓋をするのに背板という板を嵌め込んであるんだ。和尚の話では、建物のどこかを補修改築したときに出てきたらしい。下になっていた部分がだいぶ腐ったようになっているので、そこを腐食止めして、あとは像の前面にまで及んだ腐食をどうするかだな」
仏像を確かめる指先、そこにつながる関節の優雅な屈曲に、真は震えた。
「十世紀から十二世紀になるとほとんどが寄木造りになるから、これは平安時代前期くらいまでの作品なんだろう。作風からは奈良というより平安のものだな。一木造りは、ひとつの木から一気に失敗なく彫り上げないといけないから、その鑿の運びに気迫があって、こうしていても気圧されそうなときがある。こんなに朽ちていてもな」
「弥勒菩薩?」
声が上ずっているようではしたないと思ったが、竹流は気が付かなかったようだった。
「よくわかったな」
「灯妙寺のとよく似ている」
北海道から孫のために出てきた真の祖父母が、今東京の白山にある灯妙寺に住んでいる。寺の住職は、真の祖父の剣道仲間で、彼らはそこの離れを借りていた。
「灯妙寺の弥勒菩薩も禅定印を結んでいたな。奈良時代までは半跏思惟像が主流だったが、その後はむしろ立像や座像が多い。もったいないな。この瞑想に耽る尊顔は、この世の物とは思えない。保存状態がよければ国宝級の出来栄えだ」
竹流は背板の裏を確かめる。真も一緒に覗き込んだ。木そのものがかなり痛んでいるので分かりづらいが、何か文字が書かれている。
「何?」
「年号だな。室町時代のものだ」
竹流は目を細めるようにして背板の文字を確認しながら、先を続けた。
「だが、日本人というのは、何故かこういう朽ちたムードを好むからな。そういうムードを残しながら、如何に修復するかが問題だ。まぁ、修復という言葉の意味合いも、それに対する世の中の期待も、時代とともに変わっている。だが、西洋の聖堂にしても宮殿にしても、やはり東洋の寺院だって、建てられた当初は金銀極彩色の絢爛たる姿だった。それは財力や権力を示すためだけではなくて、天国や極楽というのは類稀なる美しさである、という人間の憧憬の気持ちから出ている。本当はキラキラにしてやりたいんだけどな」
竹流は背板の裏の文字を目で追い続けていた。後半は独り言のようだった。