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3 美沙子 指輪 月の宴

 退学届を書いている時に、電話が鳴った。

 妹が出るかと思って放っていたが、よく考えたら妹は今日から演奏会のための合宿に行っていて、家にはいなかった。真は煙草を揉み消し、一身上の都合という文字を見つめたまま、立ち上がった。

 電話で人と話すことが苦手だったこともあって、時々電話に出ないことがあった。さすがにバイトとは言え仕事をするようになって、社会常識的にはかかってきた電話にはちゃんと応対しなくてはならないということに気がついたのだが、何よりもこの電話が妹からかもしれないと思い至って、真は階段を駆け降りた。

 妹は自分が出かけるときは、真がちゃんと夕飯を食べているかどうか、必ず確認の電話をかけてきていた。この電話に出ないと、心配した妹にまた朝から叩き起こされる破目になる。そう思ったが、受話器を取り上げようと手を伸ばした途端に、呼び出し音は切れてしまった。

 真は息を吐き、そのままリビングのソファに腰を落とした。

 電話の音が消えてしまうと、自分以外に誰もいない家が突然、無意味にだだっ広く感じられ、世界から取り残されたように思える。

 大学を辞めてどうするという計画があるわけではなかった。ただ続けていくことは無理だと思った。とりあえず、調査事務所のバイトだけは続けながら、少し考えようと思っていた。無気力で何となく辞めるというのではなく、正当な理由があると思いたかったが、自分でもよくわからない。

 バイト先の唐沢調査事務所の唐沢所長は、真が大学を辞めると知ると、待ってましたとばかりに、社員にすると宣言した。もっとも、バイトと社員の違いは全く分からなかった。そもそもボーナスがあるわけでもないし、社会保障だの年金だの保険などもちゃんとなっているのかどうか、怪しい限りだ。ただ、いつものようによれよれのブルゾンを着た五十は過ぎているはずの唐沢が、酒臭い息を吐きかけながら、やはりいつものように二日酔いで剃り損なった無精髭の顔を真の肩越しに近づけて、よし、今日から社員だ、と言っただけだった。

 ただ、時にもよるが、給料は決して貧弱なものではなかった。基本給は大したものではないかもしれないが、出来高と言いながら上乗せしてくる額は、もしかして唐沢のギャンブルの結果に左右されるのかもしれないが、時にはボーナス並みの迫力のある金額だった。しかも、唐沢は時々真に上等のスーツを買ってくれることがある。仕事で必要と言えばそうなのだが、そういう時唐沢は奇妙に機嫌がよくて、真のほうは唐沢の愛人にでもなったような、変な気分になった。事務所の経営が赤字なのか黒字なのか、真には全く分からないし、事務をしている女の子も金銭管理はしていないようで、所長に任せておけばいいんじゃないのぉ、と呑気なものだった。しかし、古いビルとは言え、一応六本木の駅からの徒歩圏内で、家賃も安くはないと思える。唐沢と事務所の財布は、もともと薄い真の金銭感覚を狂わせていた。真の金銭感覚が薄いのは消費活動能力が低いからだが、唐沢の方はどう見ても派手な使い振りで、一方では驚くほどセコいこともある。

 妹が留守なのをいいことに、リビングのテーブルに放り出したままの煙草に手を伸ばし、一本引き抜いて銜えた。火をつけて深く吸い込む。

 調査事務所でバイトをするようになってから煙草が増えた。妹だけではなく、恋人からも嫌な顔をされていることは分かっていた。二人とも真のことを心配しているというが、妹はともかく、恋人の篁美沙子は、煙草を吸うという行為の後ろにある何かに気が付いていて、それが気に入らないのだろう。

 少し前までは、大学に残って研究を続け、いずれ日本国内の宇宙開発事業に携わるか、あるいは教授の口寄せで留学してさらに大きな世界に出ていくか、そういう選択肢があったはずだった。そもそも教授によればNASAにも話がついていたというのだが、美沙子がそういう輝かしい未来のある恋人を誇りに思っていることは、言葉の端々から何となく感じていた。もっとも、真は、自分にそんなチャンスが回ってくる裏事情を勘ぐらずにはおれなかったし、たとえそれが根拠のない思い込みであったのだとしても、退学届を書く理由になっていることは確かだった。だが、もしもこの届を出さなかったら、あるいは調査事務所でのバイトをしていなかったら、美沙子にもとりあえずはエリートの恋人、そしていずれは妻という立場を与えてやることができるのかもしれない。

 いや、すでに留学を断った時点で、教授とまともに話ができなくなっていた。今更、輝かしい未来へ続く道が残されているとは思えない。

 忙しいという言い訳を、美沙子が大学の事情だと思ってくれているのかどうか、少なくとも、大学での研究生活が忙しいということと、煙草が増えていることの間には、何ら因果関係がないことには気が付いているだろう。真が嵌まり込んでいる煙草臭い環境が大学とはまったく別の場所にあるということは、彼女も気が付いている。美沙子は真が説明するのを待っていたのか、あるいはもう諦めて最後の言葉を言い出す機会を待っていただけなのか、結果的には後者だったのだろう。

 高校生の時から付き合い始めたが、お互いの理解のために交わした会話は驚くほど少なかった。これだけ長く付き合っているのだから、それなりに何となくわかっているはずだと考えていた。

 だから、一年ほど前に美沙子が初めてコンドームをつけてと言ったとき、真は、彼女の不安や不満をちゃんと聞きだす努力をしなかった。もちろん、妊娠ということに無頓着で無知識だったわけではなかったし、セックスの最中は確かに夢中だったが、高校生の時にはそれなりに避妊には気を使っていたはずだった。大学生になってからは、以前ほどコンドームを使わなくなった。ゴムをつけている間に冷めてしまうのが怖かったし、愛情かどうかはともかく、そのままで彼女と繋がっていたかった。美沙子は自分のほうから避妊の話はしなかった。女性から言い出すことに抵抗があったのか、それとももしもそうなれば二人で、あるいは三人でやっていこうと考えていたのかもしれない。彼女のほうから避妊を言い出したころから、真は漠然とした距離を感じ始めていた。

 その時、もう一度電話が鳴った。真は咥えていた煙草を灰皿に落とした。

 受話器を取り上げると、相川くん? と、思ったよりも近いところから篁美沙子の声が聞こえた。距離を作ってきたのは、自分のほうだったのだとわかっていた。避妊についても、つまり二人の将来についても、ちゃんと話し合えばよかったはずだった。

「次の日曜日、会える?」

「バイト、行かないと」

 そう、と答えて、美沙子は暫く黙っていた。

 高校生のときは毎日のように顔を合わせた相手も、大学に進むと別々の時間軸を辿るようになり、お互いが何をしているのか見えづらくなった。もっとも、高校生の時もクラスメートとして教室で顔を合わせていた時間のほうが長く、恋人同士として共有していた時間が十分だったかどうかは疑わしい。

 真はちらっとカレンダーを見て、それから言った。

「来週木曜日、会えないか」

 美沙子は少し躊躇していた。今考えてみれば、その時点で気が付いてもよかったはずだったのだ。

「ゼミがあるから、遅くなるの」

「いいよ。家に迎えに行く」

 灰皿の横には小さな赤いケースがあった。前の週、真と同じように調査事務所でバイトをしている女の子に引きずられるように連れていかれ、最近開店したというジュエリーショップで買ったものだった。調査事務所に勤めているからなのか、単なる性格なのか、真の事情を根掘り葉掘り聞きだすのを得意にしているサクラという女の子だ。と言っても、真よりも幾つか年上のはずで、原宿の喫茶店でもバイトをしているという。真が自分の事をほとんど話さないのに、サクラはいつの間にか真についての情報を最も多く握っているひとりになっていた。

 五年も経つといわゆる倦怠期よねぇ。結婚するつもりがあるのぉ? あるんなら自分の『つもり』ってのをちゃんと示しとかないとぉ、女の子は愛想尽かしちゃうわよぉ。指輪とかプレゼントしたことは? えーっ、ないのぉ? ありえなぁい。彼女の誕生日は? それって、再来週じゃなぁい。

 サクラは一人で散々喋った挙句、ニヤニヤしている唐沢に向かって言った。

 所長、ちょっとこの人連れて買物に行ってもいいですかぁ?

 サクラは、天井に上がるような間延びした語尾で話す。

 おぅ、ホテルでもどこでも行って来い。ただし、こいつにはおっかない彼氏もいるからな、修羅場になっても知らねぇぞ。

 例の如く、唐沢は真をからかったが、サクラのほうはあっさりとしたものだった。

 知ってますよぉ。そんなの、平安時代からあるんだから、珍しくないでしょ。でも結婚できない男の末路って、所長みたいなわけでしょお。それは拙いと思いまぁす。

 何が平安時代からあるのか、しかも何か根拠があるのかもわからないが、あの勢いに引きずられなかったら、指輪を贈るなどという発想は湧いてもこなかったし、何より買いに行く、という勇気も持てなかっただろう。

 結婚という言葉を聞いて、今までは具体的に考えもしなかったことだが、美沙子といずれは結婚するのだろうと漠然と思っている自分自身に行き当たった。だが、サクラに言わせると、そんな『ぼんやり』とした決意は優柔不断と親戚で、『しない』とは親子のようなものだ、ということらしい。

 だが、木曜日、すなわち美沙子の誕生日に、店を予約して家に迎えに行くと、彼女は部屋着のままで、出かける用意もしていなかった。あがって、と落ち着いた声で美沙子は言った。

「もう、おしまいにしたいの」

 始め、何を言われているのか分からなかった。

「大学、行ってないんでしょ。変なバイトして、どうかしちゃったの」

 そのことは君には関係ないと、喉まで出掛かった。

「いつだって私に事情を説明してくれたことなんてなかったけど、やっぱりあなたのこと、よくわからない。悩んでいても何も教えてくれない。あんな始まり方だったから仕方ないとも思ってたけど、でも、あなたが何に向かっていっているのか、私には本当に分からないの」

 紆余曲折があったにせよ、五年も付き合っていたのだ。よく分からない、などと言われること自体がよくわからなかった。

 美沙子は大学生になって化粧をするようになってから、少し顔の感じが変わった。もともとあまり輪郭のはっきりしないタイプの顔だったので、高校生の頃は人混みで見るとまぎれてしまいそうだった。どこにいても否応なしに人目を引いていた真とは対照的で、当時はつき合っていることを知っている同級生は少なかった。優等生の副級長と、ほとんど口もきかない異端者では、不釣合いだから想定外だったのだろう。

 だが、美沙子は大学生になると、どちらかというとぽっちゃりしていた体の線が変わり、少しダイエットしたためか、顔のラインもすっきりして、化粧を覚えると性格も明るくなったようだった。研究室に閉じ籠るようになった真とは対照的に、ニューヨークで育ったという履歴も含めて友人の輪の中に上手く納まるようになっていった。美沙子が真以外の人間たちとの付き合いを広げていったのも当然だった。

 高校生のとき、帰国子女だった美沙子はぽっちゃりとした容姿でコンプレックスを抱いていたようで、他の女の子から少し距離を置いて、一人でものを考えているような風情があった。それが真を安心させたのかもしれないが、彼女と付き合い始めた理由はそういうことではなかった。

 高校二年のとき、成り行きでセックスをした。

 成り行きという言い方は、もしかすると格好をつけただけかもしれない。実際はまとわりついてくる自称『親友』が時々疎ましかったからだった。友人、という存在の扱い方が分からない真は、相手との距離が上手く取れず、近付いてこられると自然に逃げ腰になった。自称『相川真の親友』の富山享志は貿易業を営む会社社長の御曹司で、勉強もできればバスケットも上手く、何より誰からも頼りにされる天性の明るいムードを持っていた。クラスの級長でもあった彼は、どうしても回りに溶け込めない、というよりも溶け込む努力をしない真に随分お節介を焼いてくれていた。時々享志と一緒にいるときに、美沙子の視線にぶつかった。美沙子が享志を好きだと気が付いていたのは多分真だけだっただろう。その享志は真の妹と付き合っていた。

 何となく気に入らなかった。もちろん、お節介な享志の人徳は十分理解しているし、ありがたいとも思っていたが、時々分からなくなった。大事な妹の恋人だと認めてやるのも、少しばかり癪に障る部分もあった。絡まった糸のような感情は、享志に暖かい視線を向けている美沙子への興味になった。

「あなたが留学するって聞いたから、いつかその話をしてくれるんだと思ってた。私も一緒に行けたらいいとも思ってた。でも、いつの間にか大学に行かなくなったって」

 漠然とした不安や不満は、初めて、美沙子の口から言葉になって真の前に突き出されていた。退学届は月曜日に出したところだった。

「ねぇ、相川くん、私の言ってることわかる? あなたは私に何の興味もないんだと思うの。だから、私に大事なことを話しても仕方がないと思ってる。あなたのことに、あなたの将来に、私は関係ないって思ってる。留学がどうとか言ってるんじゃないの。これからどうしようかって不安なときも、決心できない時も、私にもあるし、あなたにだってあるはずよね。でも、会ってもセックスをするだけで、ろくに会話もしない時だってある。話したくても、聞きたくても、きっかけがつかめない。あなたと私には共有する未来がないの」

 ポケットの中で、小箱の中の指輪がカタカタ鳴っていた。

 何を言われているのか分からなかった。彼女が描いていたはずのエリートの妻という未来を砕いたことが問題なのではないと、彼女は言っているのか。どうして話してくれなかったの、彼女はそう言っているのか。彼女とは一度も、二人の将来について意味のある会話をしてこなかったからなのか、理解する頭は働かなかった。

 ただ、一瞬に拒否の感情が噴き出し、そのまま美沙子を押し倒して、悲鳴を上げた彼女を押さえつけ下着の中に手を入れた。彼女が濡れてもいないことが腹立たしく、下着だけを引き下げて、半分は混乱した怒りで昂ぶった自分自身を無理やり彼女の中にねじ込んだ。

 考えてみれば、あの日真がしたことは強姦だったのだ。

 泣きながら、美沙子は言った。

「あなたを好きになりたくないの。あなたはいつだって、どこか、私には分からないところを見てる。私じゃない人の手を捜してる。あなたが北海道で崖から落ちたとき、意識が戻らなくてもう駄目だって聞かされて、混乱して目の前が真っ暗になった。でも、あなたと私は付き合ってるのかどうか、よく分からなかった。会いに行っていいのかどうか、よく分からなかったの。だって、あなたは家族を一度も私に紹介してくれたことはないし、好きだって言ってくれたこともなかった。でも、やっぱり側にいたかった。勇気を出して帯広の病院に行ったら、意識は戻ったけど記憶も混乱していて、周りの人間をよく分かっていないって聞かされた。……ただひとりの人を除いて。病室であなたは何かに怯えてパニックになっていて、あの人があなたを抱き締めていた。親鳥が雛を庇うみたいに」

 今でも、真はあの時美沙子が何を言っていたのか、理解できていなかった。



 だから、あなたが捜している手は、私の手じゃないの。

 ほんの耳元で、誰かが泣いている気がした。

 ぼんやりとした意識が実体を持ち始めると、眼瞼の内が明るく熱くなっている。まだ夢と現実の間くらいを彷徨っていた。どこか遠くのほうで、祭囃子のような賑やかな振動が伝わってくる。

 意識のスイッチがパチンと入ったような気がして、真はふと目を開けた。夢の続きなのか、それとも。

 ちょっとばかり嫌な予感がしたので、布団の奥に潜り込んだ。それでも一度目が覚めてしまうと、どうやらもう眠れそうになかった。仕方なく布団から顔を出すと、月明かりの漏れ来る縁側の方の障子に、何やら動き回る影のようなものが見えていた。

 狸かな、とぼんやりと思った。

 起き上がって竹流の方を窺ったが、よく眠っているようだった。

 というより、これは現実ではないかもと思った。外は妙に明るかったし、月明かりだけでその明るさなのだとしたら、満月でもない限りここまで明るくはないだろう。まだ月はようやく半月から丸みを帯び始めたところだったはずだ。

 真は起き上がって隣の広間に続く襖の前まで行き、一息ついて覚悟を決めると、一気に襖を開けた。その瞬間。

 ざっと、『彼ら』が真の方を見た。

 覚悟はしていたので、思っていたほど驚かなかった。

 比較的人間に近い形のもの(ただし一つ目だったり二つ口だったりしたが)、蛙のようなもの、妖精のように綺麗なお姉さん(でも、顔はなかったりする)、お椀のようなもの、行灯のようなもの、木のようなもの、芒のようなもの、大根のようなもの、人間と牛のあいのこのようなもの、どこかで見たことのある楽器のようなもの。

 それからあの子ども。

 おぅおぅ、まあ飲めや

 何やら誘い込まれるように彼らの輪の中に座った。白い薄衣を身に付けた顔のない綺麗なお姉さんが、さっき住職が出してくれたかわらけを真の手に持たせて、やはりさっき住職が持ってきてくれた酒壜から注いでくれた。

 さっき、空になっていたはずだけど。

 酒はなみなみと出てきた。

 丸い頭のぼんぼりのようなものが、真に飲むように促した。まぁ、これは現実ではないかも知れないし、酔わないんだろう。そう思ってとにかく飲んだ。綺麗なお姉さんは空いた土器に直ぐに酒を充たしてくれた。

 それでも数杯飲むと気分がよく、何だか楽しいような気持ちになってきた。何か悩んでいたような気がしたが、別の次元に滑り込んだ感じで、それはそれと放置した。

 それで、あんさんがたは、この子の珠を探しにきてくださっただか

 物知り顔の杖のようなもの(あるいは笛)が言った。もっとも顔がなかったので、どうして物知り顔と思ったのかは自分でもよくわからなかった。綺麗なお姉さんも、どうして綺麗と思ったのかよくわからなかった。もう一度顔を確かめようとお姉さんを見たら、酒の催促と思われたのか、お姉さんは微笑んで(微笑んだような気がした)かわらけに酒を注いでくれた。飲みながら、頭の中で物知り顔の杖の言葉を反芻した。

 たま?

 珠を落としてしまったんじゃよ

 もう一人(?)の物知り顔の、やはり顔のない行灯が言った。

 水晶の珠じゃ

 真は少し離れたところに座っている子どもの方を見た。着ているものから推測すると、男の子のようだ。

 水晶の珠? 君の?

 昼間に垣間見た子どもは、よく見ると顔がなかった。いや、顔がないわけでなく、薄いのかもしれなかった。まるで消えていきそうに見えた。子どもは無表情で、消えかかりそうな気配からは心は読み取れなかった。

 空の上から落としてしまったんじゃ

 龍に乗って、空から落としてしまったんじゃよ

 どこに?

 この下に飛び上がったときじゃ

 みんなが、うんうんと頷いた。

 下に飛び上がる? 

 妙な言葉遣いに引っ掛かって聞き返したが、彼らはそれを無視した。

 あれがないと困るんじゃ

 どうして?

 龍が空に翔べないんじゃよ

 龍が、翔ぶ?

 この子のお父さんの龍じゃ

 真は広間の天井に描かれた龍を見上げた。

 龍が、翔べない? お父さんの龍?

 真はぼんやりと言葉を頭の中で反芻した。

 水晶の珠がないと、龍が翔べない? 龍が翔ぶのには水晶が必要なのか? 確かに、絵の中や作り物の龍は、よく珠を足(もしかすると手なのか)に摑んでいるけど、あれは翔ぶために要るわけじゃないだろう。

 いずれにしても、この子は水晶の珠がないと困るのは間違いなさそうだ。

 なんだかちょっと消えそうに儚い子どもが、可哀想になってきた。


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