13 雨乞いの聖地 水の源 鳴神
真は竹流に連れられて寺を出た。白川通りに出ると、すぐにタクシーはつかまった。タクシーに乗りかけて、真は後ろを振り返った。
長い手が追いかけてくる気配はなかった。
車は今出川通を西に向かい、その後堀川通を南下し、二条城の近くまで来た。そして、二条城の南の東西の通りで彼らを降ろした。
「ここは?」
小さな門の前で、神泉苑と書かれていた。右手に平屋の住まいがあって、砂利道の右に暖簾のかかった食事処が、左手には木々に取り囲まれるように池があった。その池と料理屋らしい建物のわずかのすき間のような道を南に下がると、右手にお堂が、左手に池に架かる小さな橋があった。
彼らが入った北側の入り口は、裏にあたるようだった。
「源義経が白拍子の静御前を見初めた場所らしい。彼女は雨乞いの舞を踊っていたというが」
彼らは池の橋の前に立った。橋は緩やかな弧を描いて、向こうの、小さな舞台付の社がある島に繋がっていた。橋の袂には、願い事をしながら橋を渡るとそれが叶う、ただしひとつだけ、と書かれていた。三つ叶えてくれるというランプの精よりも気前がよくない、と思った。
「せっかくだから、何か願い事をしながら渡ったほうがいいぞ」
「中学生や高校生の女の子じゃあるまいし」
「願うのはタダだからな」
そう言いながら竹流は橋を渡り始めた。弧の天辺で彼は立ち止まり、池の方を見つめた。池はそんなに大きなものでもなく、彼らの立っている橋の南側にも続いていたが、すぐに途切れて石の鳥居があり、その南には車が行き交う通りがもうそこに見えていた。
「考えごとをするには、あんまり適した場所に思えないけど」
すぐ北隣には、江戸幕府が京都所司代を置いていた二条城があり、ここはその真南になった。神泉苑自体はその南北を比較的広い二車線の道路に挟まれているが、大した奥行もなく、どちらからも車の音が聞こえていた。
「それもそうだ」
彼らは橋を渡りきり、法成就池の南の善女龍王社にお参りをした。この小さく区切られた聖域では、躑躅も他の常緑樹もようやく厳しい冬を越えて、葉の色合いを重々しい緑から色鮮やかなものに変えようとしていた。楓も、新しい芽吹きを拓き始め、桜は小さな蕾をピンク色に変える準備を始めている。
竹流が社に向かって当たり前に二礼二拍手一礼のお参りをするので、真もそれに習った。竹流の国は敬虔なカソリックの国で、彼自身が熱心なクリスチャンとは思わなかったが、それでも竹流が何の抵抗もなく神社仏閣に手を合わせるのは、多少不思議な感じがした。
それから、社の前の小さな錆びたベンチに腰掛けて、しばらく時間を過ごした。
「隣の二条城は、江戸時代に徳川将軍家によって整備されて今の形になった。その時に、この池は北の部分のほとんどを削られて、水は二条城の堀に利用された。もともと池泉は、この十倍、二十倍の大きさはあったらしい。平安京が造られたとき、ここは大内裏の南で、自然の池や沼、森を利用して造られた禁苑で、貴族の遊宴の場になっていたということだ。その後、弘法大師が雨乞いの法を行って善女龍王を呼び寄せてから、雨乞いの霊地になった。そもそも神泉苑という名前は、常に清き水の湧き出す神泉がある、ということからついた名前だそうだ」
そう説明してから、竹流は真に聞いた。
「何か願い事、したか?」
真は、一瞬心を見透かされたようでどきっとした。
ランプの精にお願いするとしたら、願い事はひとつだけだった。何日か前、そんなことを考えていたことを思い出していたが、実際に願うのは憚られる気がして、今日は何も考えずに橋を渡った。
「あんたは?」
「不動明王が見つかりますように、と一応言っておいた。だが、心の中の本当の願いは」
竹流は、一瞬言葉を続けることを躊躇ったようだった。
「実際に言葉に出さなくても、たとえ心の中であっても、唱えられないこともある。その願いに、どこかに他人の不幸が含まれていたり、その内容が重すぎる時には、な」
そう言いながら、彼はもう立ち上がっていた。
「行こうか」
「戻るのか?」
「いや、龍と水の事を考えていたら、ここを見たくなった。ここに来たら、やっぱり水の源を見たくなった」
「水の源?」
「とにかく行こう」
京都の碁盤の目の中を流れる鴨川は、さかのぼると大原や鞍馬にまで至る高野川、上賀茂神社の方へさかのぼる賀茂川が合流したものだ。この賀茂川は、更にさかのぼって地図の上では再び鴨川と名前を変え、さらに中津川、祖父谷川、雲ケ畑岩屋川といった源流に至る。鴨川の名前(尤も、鴨川か賀茂川かは、単なる地図上の便宜に過ぎない)に戻る辺りでは、もうすっかり町ではなく山の景色になって、山岳信仰の霊地の様相を現す。
道はそれでもバスが通るらしく、時々バス停を見かけたが、一日に五台ほどしかないバスを見かける事はなかった。
雲ケ畑という集落はこの山の中にしては比較的大きな集落で、小学校もあった。道に面して切りそろえられた杉の木が積まれている。
平城京からこの京都へ遷都された際に、種々の技術集団が天皇家に従って来たという。そのうち御所を始めとする建造物の木材を伐採する一団が、この雲ケ畑に土地を得た。彼らは年貢使役を免除された代わりに、材木を納めていて、大変誇り高い集団であったと伝えられていた。
二条城で捕まえたタクシーの運転手は話好きで、市街から遥かに外れた山奥までのドライブの間、そのような地理と歴史を真と竹流に話して聞かせてくれた。
バス停がついに終点を示した後、常にタクシーの通る道を並走していた川に架かる短い石の橋を渡って、そこからは道の舗装の様相も変わった。両脇はうっそうと繁る杉林で、タクシーは最後の細い山道を登りきった。
橋も注連縄と同じで、結界の入口と言われている。実際、その短い橋を渡ってから、怪奇に充ちた霊気が漂い始めていた。
タクシーは急な階段の前に開けた広場のような駐車場に止まった。他に車が一台止まっているきりで、人の気配を感じるのはそれだけだった。竹流は運転手にしばらく待っていてくれるように交渉していた。
真はタクシーを降り、高い杉の木の間に開けた白い空を見上げた。空気が町の中とは全く異なっている。
岩屋山志明院。
案内の冊子によると、ここは六百五十年、役行者によって創設された霊峰であるという。その後、八百二十九年に弘法大師が、淳和天皇の御叡願により再興したと伝えられる。本尊は弘法大師の直作と伝えられる不動明王で、この地がその後皇室御崇敬を賜ったのは、ここが鴨川の水源地のひとつであり、京の清浄なる水を産み出す霊地であったからだった。
その空気を一息吸ったときから、真には、形にならないまでも魑魅魍魎の気配がまとわりついた。もっとも、ここにある魑魅魍魎は真にとって悪意のあるものではなかった。霊気はそこにある全てのものをそのままの形で受け入れて、無垢清浄の気配に充ちていた。
それでも、生物のひとつとしての人間をも含めた圧倒的な自然の尊厳に、真は自分の足下を見失いそうになった。感情の纏まりがほころびたまま竹流を見ると、彼はそれを分かっていたのか、真の肩を抱くようにしてくれた。鳥の声も水の音も吸い込まれるような空気だった。
急な自然石の階段を登ると右手に本坊があり、寺の奥さんらしい小柄な女性が、車の音を聞いたのか、出てきてくれていた。
思い立ったにしては準備のいいことに、竹流は上着の内側から、綺麗な越前和紙に包んだ志納金を彼女に手渡し、案内を乞うた。女性は、この外国人が流暢な日本語を話すのにほんの少しほっとしたような顔をして、案内の冊子に描かれた見取り図を指して、何かを彼に説明していた。
真は少し彼らから離れて、参籠所の脇の椿の大木の横から、すぐ下の細い川を覗き込んだ。
多くはなかったが、水が自然の地形のまま流れ落ちていた。向かいはすぐに山の斜面で、木々のすき間から光がこぼれだすようだった。
「樹齢四百年の椿だそうだ」
真は改めて椿を見上げた。とても椿とも思えない大きな木だった。
「今年の冬の雪で、そこの割と大きな枝が折れてしまって、可哀想なことになりましたけど」
奥さんが彼らに話しかけた。確かに、枝が折れた痕が残っていた。
「私が可哀想だ申しますと、うちの人は、四百年の間には、もっと色んな事があったはずだ、そういう出来事全て含めて四百年だと、そう申しまして」
真は、奥さんの小さな体と瞳を見つめ、それから改めて椿を見た。
住職は修行だとしても、奥さんはこの山の奥で、もう何十年か、どう考えても不自由な暮らしをしてきているのだろう。大体一見しただけでも、水は湧き出しているとしても電気やガスはどうか、買い物はどうするのか、心配になるような場所だった。
だが、そういうものを全て飲み込んで、奥さんは今ここに立っているのだろう。住職の言うとおり、善くもあり悪くもある運命の中で。
椿の幹に触れてみた。この椿は、四百年、何を見て何を感じてきただろう。それでも、奥さんの時間も椿の時間も、この山全体にとってはほんの一瞬のような時間だ。
椿のさらに山門側には、石楠花の大きな木が並んでいた。この寺は石楠花で有名で、奥さんは、その花の時期以外には誰も来ないことで有名なお寺だと言った。確かに、彼らと奥さん以外の誰の気配もなかった。
二人は奥さんに会釈をして、山門の方に向かった。
少し階段を登ると、岩屋山の文字の入った小野道風筆の額を掲げた山門で、門を潜ると、本堂まで多少長めの石の階段が続いた。周囲の背の高い木々が両脇から締め付けてくるように思える。
「青山峨々とそびえ、白雲峰嶺を隠し、冷泉の流れ清うして、邪見の心魂まさに和らぐと、世尊も既に説きたまう。微妙の心耳を澄まし、常住満の栄花より、はるかにまさるこの山岳。はて、絶景の霊地じゃよなぁ」
「鳴神?」
「よく知ってるな」
よく知っているのはそっちのほうだと思った。もっとも、真も歌舞伎の台詞を覚えているわけではなかった。その響きと、言葉の持つ力が、どこか頭の隅に残っていただけだった。
「ついこの間、おじいちゃんが風邪で行けなくなったからって、おばあちゃんに新春歌舞伎につき合わされたんだ」
「話の内容、わかったか?」
「鳴神上人が、約束を守ってくれない帝に腹を立てて、世界中の龍神をどっかに閉じこめて雨が降らないようにしていたけど、帝に遣わされた美女の色香に迷って、ついに龍神たちを開放する秘密をしゃべってしまうって話だろ」
「そうそう、何とも不可思議な、ある意味ユーモラスな話だろう? 美女の名前は雲の絶間姫、いかにも雨が降りそうな名前だしな。上人に秘密をしゃべらせるのに、夫が死んだとか言って、その夫との艶っぽい想い出を悩殺パフォーマンスで語り、揚げ句、癪を起こして倒れた姫を上人が介抱する下りでは、上人は生まれて初めて女の肌に触れてのぼせ上がってしまう。結果、とち狂って祝言をあげることになり、酒で酔っぱらって秘密を語ってしまうわけだ。姫が滝つぼの注連縄を切って龍神が開放されると、雷鳴轟いて雨が降り、使命を果たした姫は都に逃げ帰る。騙されたと知った上人は、怒りのあまり悪鬼に変わって、姫を追っかけていく。如何に立派なお坊さんも、女の色香に迷うってわけだ。生まれて初めて女の懐中に手を入れてみれば、あじなものが手に触った、こりゃ何じゃ、ってな」
「あんたが言うと、どうも妙に生臭くって、よくない」
「極めてリアルな話さ。それに、鳴神上人ってのは純粋な男だと思わないか? 滑稽でちょっとばかり悲哀を感じるけど、男の純情の物語だ。彼を騙した朝廷も、色仕掛けでたらし込んだ姫も悪人に思えるくらいだ」
そういう解釈もあるのか、と真は思ったが、この話の脈絡がつかめなかった。
「で、それが何の関係があるんだ?」
「まさにここが、その歌舞伎十八番の一の舞台だ」
「ここ?」
歌舞伎の舞台からは、もう少し平坦な土地を想像していたが、ここは完全に山の斜面だった。
彼らは重く古い木で作られた大きくはない本堂にお参りをし、それからその脇の道を回って水子地蔵の前を通り、本堂の横手にある小さな滝の前に立った。
「飛龍大権現。弘法大師が一顆の玉を授けると、忽ち龍に化けて、滝壷に飛び込んだという話が伝わっているらしい」
玉を捧げると龍に化けるのか。龍と玉はやはり切っても切れない関係のようだ。
洞穴を持った岩の上に小さな祠があり、その下から突き出した苔むした石の水路から水が放流され、岩場の脇からも山中から染み出す清水が集められ、小さな滝となって流れ落ちていた。途中の岩の上には、青銅の龍が蝋燭のような棒状のものに巻き付いていた。
竹流は、そこからかろうじて見える上の方の、暗い岩場を指した。
「あれがそうだな」
彼らは本堂の裏手の粗い階段をさらに登って、護摩洞窟までたどり着いた。
「鳴神上人が龍を封じ込めていた洞窟だ」
洞窟の奥は、大きな岩と岩の隙間が細くなっていき、その先は吸い込まれるような闇だった。ここに立って、聞こえるはずのないものの音や声を聞いたという人は、数多いるらしいが、洞窟に反響するただの風の音なのか、本当にこの向こうに続く異界からの声なのか、定かではなかった。
「何を見に来たんだ? 歌舞伎の話をしに来たんじゃないんだろう?」
それには竹流は答えなかった。しばらく洞窟を、そしてこの志明院のある岩屋山の地面を見つめていた。
真は一緒になって洞窟を見つめていたが、ついにぞくっときた。気を失っている間に見たあの洞窟を思い出したのだ。
洞窟というのは、異界への入口だと信じられている。この山にあれば、全てが魔物の棲む異界に通じているように思えてしまうが、恐ろしくなって身体が震えたのではなかった。何やら尊い畏怖の念に覆い尽くされるような、そんな気がした。
真が自分の身体をふと抱くようにしたのに竹流は気がついてくれたようだった。真の頭に、いつものように慰めるように大きな手を置き、さらに険しい石段へと促した。
「この山は名前通り、巨石や巨岩でできている。つまり全体がごつごつした山で、あちこちに洞窟がある。古代、京都盆地は大阪湾に繋がっていて、そもそも断層で陥没した巨大な湖だったそうだ。その古代地図では、湖の北の端は丁度この山の麓あたり、東の端は俺たちが泊まっているお寺の辺りだ。そういう古代の地形を思うと、自分たちが今立っている足場が本来はどういうものだったのか、不思議な感じもするな」
真は、粗い造りの石の階段の上の舞台作りの堂を見上げた。堂は岩から湧き出すような形に作られ、錆びた鉄の、人一人がようやく通ることができる階段を登ると舞台の上に出るようになっていた。
真は暫く竹流の言葉の意味を考えていたが、やがて隣の男の顔を見た。
「その、つまり、あの岩盤を掘ってもいいかどうか、考えてるのか?」
「というよりも、どこかに入口がないかと考えている」
「入口? 洞窟の?」




