1 古い寺 龍の天井 幽霊の掛軸
・この物語には同性の恋愛感情(というよりも正確には疑似親子の情愛)が絡みます。なお、この『清明の雪』には話の流れとしての性的な場面の回想(男女)がわずかにありますが、具体的な描写はなく、18禁の要素はありません。
不動明王を捜しに行こう。
昨夜、新宿の歓楽街の一角にあるラブホテルのはす向かいで、いきなり腕を摑まれてそう言われた。いつものことだが、言葉の内容は優しい誘いなのに、語る調子は完全な強制だった。
何故そんな意味不明の探索に付き合わなければならないんだろう。そう考えるのは、少なくとも十度目になる。緩やかな石段の途中で、真は早くも足が重くなり始めるのを感じた。
その足元へぽつん、と秋の名残が落ちてきた。
真の次の一歩を奪った小さな眠れる生命の欠片は、人がやっとすれ違うのに必要十分な幅しかない滑らかな石段の真ん中に落ちた。左右から覆い被さる木々のために薄暗いトンネルになっている石段は、十メートルほど続いていて、一段の長さは上手く人の歩幅に合わせてある。
真は頭の上を振り仰いだ。
ここ何日か、春の訪れを告げる嵐のような雨が断続的に降り続き、刺すような空気の中にも穏やかな温度が混じり、開き始めた蕾の匂いが感じられるようになっていた。それでも、頭のずっと上で空を遮って重なる細かな枝の天井には、まだ緑は見えない。
編まれた枝の隙間から窺われる遥か彼方の天幕には、暮れ始めの曖昧な時間の霞が澱んでいる。
真はもう一度足元を見た。季節外れの木の実は、精一杯この瞬間まで木にしがみついていたのか、たまたま枝のどこかに捕らわれていたものだろうか。あるいは妖の悪戯なのか。
かすかに名残の雨の匂いがする。
「真」
真をここに連れてきた男は、ずっと先、石段が途切れて直角に曲がる辺りで待っていた。ただ一言、名前を呼びかけるだけでも強制力のある声に、真は意識のうちでは屈んで拾い上げかけていた木の実を諦めた。
その時、何か頼るものを探すようにジャケットのポケットの中に突っ込んだ左手は、出掛けに無意識に摑んだ小さなケースの存在を脳の片隅に伝えた。ケースに指が触れた瞬間、冷えた手の血管が更に縮まり、指先から急速に温度が失われていくのが分かる。
慌てて左手をポケットから出して、真は男の大きな背中を追いかけた。
京都駅に着いてからタクシーに乗って、半時間ばかりかかってここに着いた。町中の道は混雑していたが、四車線の大通りを東へ入ると、車の音は直ぐに山の壁に吸い込まれていった。
彼らを降ろしたタクシーが走り去った後は、いっそうの静寂が辺りを包み込み、空を横切る枯葉の音までも聞こえてくるようだった。もうこれより先には舗装されていない細い坂を残すばかりとなった道は、畳み掛ける木々のために明るさを奪い取られ、突然に時間の感覚を失わせる。
車一台が精一杯の坂道は、舗装された道が途切れる辺りに回転地を持ち、その奥に古い家の塀が見えていたが、やはり人の気配はなかった。
回転地のはす向かいが、今真が登っている石段だった。両脇から天幕まで覆いつくすような木は、落ちてきた実からすると、樫の類なのだろう。大きな木の隙間を埋めるように、立派な枝振りの椿が続いている。日に何度も掃き清められるのか、石段の上には落ちた花のひとつとてない。
白から始まった椿のトンネルは、赤、ピンクに変わる。やがて、もう一度白に戻った辺りで角になり、突然トンネルが途切れた。
曇った空が開ける。
先を歩いていた男は、真が角に辿り着いた時には、背を向けて傾斜の急な残りの五段ほどを登り始めていた。真は、頭の上に開けた白い空が、藍とも橙とも見える霞に染められようとしているのを見上げ、それから木の小さな門を屈んでくぐっていく男の後姿に目を向けた。
その男の身長から考えると門は随分と小さく、外界からの侵入者を拒むようにも見えたが、男は吸い込まれるように滑らかに門を潜っていった。純和風の木の潜戸は異国人である彼には不釣合いのはずだが、真が感心するのは、この男が、浮き立つように目立つ外観の割には、どういう場所でも溶け込むのも早いという離れ業を持っていることだった。銀に近いくすんだ金の髪が、門の脇に植えられた寒桜のうす桃色の花弁と、輪郭を分け合った。
男は左手に大きな銀色のアタッシュケースを持っていた。新幹線の棚に上げずに足元に置いていた様子からも、相当重そうだ。
真が続いて木の潜戸を通り抜けると、水を含んだ踏石が左手に並び、その先に薄暗い入口が見えた。
どこか、遥かとも思える先から、鹿威しの音が高く響いた。
男は足元にアタッシュケースを置き、グレイの綿のコートを脱いで、ごめんください、と中に呼びかけた。
直ぐに、頭を丸め作務衣を着た、二十歳になるかならないかの男が現れた。大きな体には似合わない丸い童顔で、目はまっすぐにこちらを見ようとはせず、男と真との間でさまよっていた。
「大和さんでしょうか」
作務衣を着た若者は真の前に立つ異国人に確認し、彼が頷くと、視線を足元に落としたままで先を続けた。
「お待ちしておりました。どうぞ」
覚えたてのような丁寧な言葉を、丸め込むような京都のイントネーションと、真に何かを伝えるような振動とが包んだ。
僅かな音の震えの中に、不安と不満と怯え、何にも屈したくないという強い抵抗を感じる。誰にも分かるものかという誇り、誰にも分かってもらいたくないという自尊心、誰かにわかってもらいたいという寂寥感、その全てが中途半端な分量で混じり合い、苦すぎて飲めない茶のようにただ強く香り立つ。このところ真が仕事の上で最も敏感に感じ取っている気配が、その若者からも伝わってきた。
ふと若者の視線を感じたが、真が目を上げた瞬間に、彼は真の視線を避けた。
かすかに白檀らしい線香の匂いと、古い木の匂い、畳に降り積もった年月の匂いが、雨後の空気の中に香った。
不動明王を捜す、という暗号のような目的以外、どこへ行くのか何の説明も受けていないが、ここが寺であることだけは間違いがないようだ。それに、風貌とは明らかに違和感のある名前を口にして躊躇いがないことからも、この寺の人間はこの異国人がどういう人間であるかを知っていて、待っていたことが窺われた。
玄関口は二畳ほどの土間になっていて、明かりを灯すほどの時間でもなかったが、足元はいささか不安な暗さだった。作務衣姿の若い男に言われるままに靴を脱ぐと、お履物はそのままで、と言われた。
ふと顔を上げると、いつの間にか、三畳ほどの玄関の上がり口に小柄な老人が立っていた。姿格好からも明らかに僧侶の風情だ。この老人はここの住職で、若い男は寺の修行僧なのだろう。
住職は黒い着物に紫の袈裟を身につけていて、目は細く、白くなった眉毛が随分と伸びていて、ほとんどその目を隠してしまうほどだった。背が曲がっているわけではないので、もともと小柄な人なのだろう。
真は思わず幼い頃の幻の友人を思い出した。
「お待ちしておりました。どうぞ奥へ」
「すみません、予定外に連れがいます」
「どうぞどうぞ」
予定外の連れという紹介に、真は多少引っ掛かった。
いつものことだが真の意見など問わないまま、この男は真を仕事場から連れ出したのだ。もっとも、立場を思えば致し方ないという面もある。
男は真と妹の保護者だった。
真には実の両親ではなかったが、中学生の時に父親が失踪し、高校生の時には長く精神疾患で入院していた母親が亡くなった後では、法律上の立場はともかく、現実の生活の上で頼りになる大人はこの男しかいなかった。しかしもう真は二十一になった。今でもこの男に保護者然とされるのは、どこかで納得がいかない部分もあった。だが、自分が、年齢はともかく頼りない人間であることが、この男をいつまでも保護者気分でいさせているのだろう。そう考えると些か情けない気分になる。
それに、口数がいつもより少ないことから、今日はこの男が怒っている気配を感じる。その理由には真もしっかりと思い当たる節があったが、新幹線の中でもお互いに核心に触れるような話を避けていた。
薄暗い上がり口から一旦濡縁に出て、回り廊下をゆっくりと歩くと、板が軋んだ。その板の軋みを身体に感じた途端、真は足元から震えが上ってくるのを感じた。
今、自分は世間的に褒められた仕事をしているわけではない。他人の最も敏感な部分に踏み込むような仕事は真の神経を磨り減らしていたし、何より雇い主は人遣いが異常に荒い。開始と終了がはっきりしない労働時間は肉体的に楽とは言いかねた。生活の軋みは容易に精神的な軋みに繋がった。そうなると、身体のあらゆる感覚器細胞に不用意な突起が幾つも現れ、現実だろうと幻だろうとお構いなしに情報として受け取り、その刺激を脳に伝達するようになる。決してこれを超能力だとは思わない。ただ現実と幻の区別がつかなくなってしまうのだ。
目の前の保護者の大きな背中は、真のこの特殊な、あるいは特殊ではなくただ過剰であるのかもしれないが、いずれにしても真自身には処理しきれない感性を時に包み込み、時には完全に拒否をする。真は保護者に知られないように、もう一度自分を落ち着かせようと小さく息をついた。
さっきからずっと、天井の板の隙間、襖の陰、廊下の隅の暗いところから自分たち、新しい侵入者を窺う気配を感じていた。脳と体中の神経細胞の働きが敏感になってしまった時に、古い歴史のある場所や特別な自然の景観の中に立つと、いつもそうなってしまう。それは良いものなのか悪いものなのか、いつでも真には区別がつかない。今も、現実には鹿威しの音しか聞こえていないはずなのに、喧しいくらいの話し声、走り回るような音、何かの羽音らしいものが、上下四方から真の頭の中に入り込んできていた。
真は保護者の背中をもう一度確認した。どう言われどう扱われても、この背中を見ると安心するのも確かだった。この男の背中と言葉だけが、真と現実とをやっと繋ぎとめている。ただ、それを認めることを、どこかで辛く悔しく感じていた。
縁側となった回り廊下を奥へ進むと、先は開けていて随分明るかった。入口は小さく感じたが、敷地自体はこの先がどこまでという境界が全くつかめないほど広いようだ。
住職は奥の広間に客人を誘った。広間は、大人一人が何とか真っ直ぐ歩けるかどうかという、周囲の建具の大きさとは不釣合いなほど幅の狭い縁側に面している。縁側の向こうの枯山水の庭園は、緩やかな斜面になっているからか、遠近感もあり奥行きを感じさせた。石の配置も木々の高さも、視界に入った時には何の違和感もなく見る者の世界に収まり、時間を持たない絵画のように、ただ空間として浮かんでいるように見えた。
中でも、庭のやや左手にある五葉の松の木は、その大きさからも姿形からも目を引いた。直立して天を指す本幹とは別に、根元の辺りから生え出た太い枝が、庭の中心に向かって横たわり、龍が臥す姿に見える。松の周囲の白い砂は、さながら海岸の松原を思わせ、ただ一本で無数の木々を、ただ僅かな砂で果てまで続く海辺の砂浜を描いていた。
水に見立てられた白砂の向こうにある紅葉の枝には、仄かに丸みがある。あとしばらくもすると若い緑の葉が開き、光を跳ね返すのだろう。
一瞬、説明しがたい違和感を覚えたが、あまりにも一気に沢山の情報が流れ込んできた頭の中は、その違和感を覆い隠すほどにいっぱいになった。
目や耳から、あるいは皮膚や粘膜から入った情報のすべてを整理することは難しい。だから脳はうまく取捨選択して、不要な情報を切り捨てるのだろうが、真には時々それが全くできなくなってしまう。子どものころは、それが原因でしばしばパニックになっていたが、今では適当に脳のどこかに放り込んでしばらく放っておく、という芸当ができるようになっていた。だが、それは意識してやっていることであって、意識をしないでいると、やはり混乱して、現実と幻と過去の記憶とがごたごたになってしまう。しかも、適当に放り込んだ場所が悪くて、時々、不用意に目の前に脈絡のない記憶が飛び出してくる。
真は今視覚が感じている違和感が、何かの拍子に全く因果関係なく飛び出してこないようにと願った。願ったところで、真の制御の範囲に収まっていることは、ほとんどないのだが。
ふと、視界の中に何かが煌めいた。
比較的大きな臼状の石の鉢が庭の入り口の隅にあって、まるで鏡のように光を跳ね返していた。その光が視界の隅で光ったのだ。丁度、手の長い大人が両手で丸を作ったくらいの大きさで、いっぱいに湛えられた水が、縁から零れ落ちている。
狭い縁側に面しているのは、二十畳ほどの広間と、手前にある十畳ほどの続き部屋で、広間の奥のほうへとさらに暗い廊下が続いている。
広間に足を踏み入れた途端に、明るい、と感じた。
日本の伝統的な書院造りの建物に見えたが、天井は意外にも高かった。それに、表の門とは異なり、外国人で比較的長身の保護者が頭を下げることなく通れるので、障子も襖もかなりの高さに造られていることが窺われた。広間と次の間の境の欄間は波の文様で、広間を取り囲む襖には、生々流転の景色が描かれている。その大胆な墨の筆跡に、時折煌めくような光が跳ね返った。広間や次の間と縁側の廊下の間は雪見障子で、見上げればその上も下がり壁ではなく、天井の際まで障子が嵌め込まれていた。
普通に見かける薄暗い寺の中とは違って、ずいぶんと光を取りこめるような造りになっていたが、広間が北を向いているので、そのような工夫がされているのかもしれない。
何かに見つめられている気がするのだが、それがいつもの混乱の前兆のような気がして、あえて探さなかった。
広間には小さいが凝った作りの床の間があって、違い棚には羽を広げた鳥が二羽、掘り出されている。掛軸には、不揃いに髭が飛び出したような、立派な筆致で文字が書かれていた。もっとも、立派過ぎて真には全く読めない。
真の保護者のほうは、茶室に入る時のようにまずは床の間に一礼をし、その掛軸をさらりと読み下した。
「意踏毘盧頂寧、行拝童子足下(意は毘盧の頂寧を踏み、行は童子の足下を拝す)」
真が問いかけるような視線を向けたことに気が付いたのか、保護者はこれまで何年も幾度もそうしてきたように、教え諭すように真に解説した。
「気概は大毘盧遮那仏の頭を踏みつけるほどでありながら、行いは子どもの足下を礼拝するほどの謙虚さを持つ、という意味だ」
傍らに納まりよく立っている住職は、何度か頷いた。
「さすがでございますな。大和竹流という和名を贈られた方も、まさかそこまでとは思われなかったことでございましょう」
真がちらりと保護者を見遣ると、彼は表情を変えることもなく、まだ掛軸を見つめていた。
大和竹流というのが保護者の和名だった。それが法律で認められた名前なのか、単なる通称なのか、真には全くわからない。第一、真の保護者は、真に自分の年齢を語ったこともなければ、本名を名乗ったこともない。もっとも、真は彼が生まれ育った街に一度だけ連れて行ってもらったことがあって、彼の実家がどのような家で、彼がそこでどのような名前で呼ばれていて、そして何よりも、その家が彼の帰りを待っていることは知っていた。年齢も誕生日も知らないが、日本に来たのは十九の時だと聞いている。それから数年のうちには真の伯父の手伝いをしていて、その時真は十一だったので、自分よりは十ほどは年上だろうとぼんやりと思っているだけだった。
日本に来て十数年を経ているはずの彼の日本語は完璧だったし、仕事柄、日本の文化芸術には精通している。住職が驚くのも無理はなかった。
それから、真の保護者、大和竹流は天井を見上げた。真もつられるように天井を仰ぎ、そこに思いがけなかったものを見出し、思わず呼吸を呑み込んだ。さっきから、何かにじっと見つめられているように感じていた理由はこれだったのだろうか。
「これですか」
「ええ、ええ」
住職は頷いた。見上げたまま竹流はしばらく言葉も出なかったようだが、やがて溜め息をこぼして当たり前の一言を言った。
「見事な龍だ」
真と違って言葉を自由に操る男にしても、それ以上の表現もなかったのだろう。
「脚立でもお持ちしましょう」
「誰か謎を解きましたか?」
住職は、ほっほっと笑った。
「謎もまたよし、です。あなたが解かれると、ちょっと楽しみが薄れますかな」
「さあ、どうでしょう。謎が解けた後でこそ、尚更、美しいこともある」
住職はその答えに満足そうに微笑んだ、ように見えた。目元が長い眉毛で隠されているので、表情はわかりにくい。常にゆったりと微笑んでいるようにも思える。
真は改めて天井を見上げた。
龍は床の間近くの天井に描かれていた。板から浮き立つように見えるのは、濃淡や影のためなのか、今にも頭に雷が落ちてくるようだ。
見開いてこちらを睨みつける両眼、明確な意思で天を指す立派な角、意志の力で大きく孤を描き嵐にさえなびかぬ二本の長い髭、水を跳ね返し光を湛えた鱗、雲の内からたった今雷光と共に現れ出たような勢い。どの方向から見ていても、その見開いた目に睨みつけられているかのようで、身体の半分しか描かれていないながら、雲の向こうにまで続くうねりや鱗の濃淡までも感じられた。想像上の生き物のはずだが、目の前にいるのを見ながら描いたのではないかと思える。
住職は若い僧が持ってきた一幅の掛軸を受け取って、それからその僧に、脚立を持ってくるよう言いつけた。玄関で会った若者とはまた別の僧で、痩せた身体に、鋭く荒んだ目をしていた。修行中の僧侶には似合わない目つきだ。口元に何か不満そうなニュアンスが浮かんでいる。真は睨まれたような気がして、思わず目を伏せた。
その真の視線の先で、住職が大きな机の上に、若い僧から受け取った掛軸を広げた。竹流が机の前、掛軸の正面に座ったので、真も机の上に意識を移した。
一瞬、真の目の前に白とも透明ともつかない、靄のようなものが立ち上がり、形を成すまでもなく消えた。
古い掛軸は巻かれたまま、経る年月を閉じ込めていたのだろう。
靄の下に現れたのは、髪の長いすらりとした女性で、脇に大木の半分ほどが描かれている。視界に飛び込んできたときには明瞭な姿に思えたが、実際には、全体にくすんだ緑と茶色の背景に、褪せた黒の筆の跡が潜んでいるような絵だった。
女性の足は地面についているのかどうか、足元は背景に溶けている。つまり女性は、色あせた大木の脇に優雅に浮かんでいるわけだった。年月がそうさせたのか、女性の表情もはっきりせず、ぼんやりとした曖昧な姿だ。ただ、整えられず乱れた髪の具合からも、表から立ち上る気配からも、生きている女性には見えなかった。
柳の下に浮かんでいれば一目で幽霊と断定できたが、一体柳と幽霊が結び付けられたのはいつの時代なのだろう。背景の大木は太い幹が掛軸の端を垂直に伸び、女性の上で豊かな枝を張っている。御神木か何か、謂れのある木のように見えた。
「この下ですか」
「はい」
竹流はしばらく掛軸を横から見たり、表装の具合を確かめていた。その様子から、『下』と言ったのは、絵の下のことだろうと想像できたが、真は住職と竹流の会話の意味がまったく理解できなかった。
「剥したら、よからぬことが起こるとは思われませんか?」
「ほう、あなたはそういう迷信を信じなさいますか」
「この美しい幽霊は、秘密を守るために描かれたんでしょう?」
やっぱり幽霊の絵なのだと納得する。聞いてしまうと、何やら空恐ろしい絵に見えるから不思議なものだ。
「そうでしょうな」
「では、何故?」
住職がふと真の方を見た。もちろん、目は眉毛に隠れたままなので、微かに顔が真のほうに向けられただけだ。それでも、真は何か見抜かれている気がして、びくっとした。
「夜な夜な鳴るので、小僧たちが怖がりましてな」
「鳴る?」
「鈴のような音でしてな。昔、先々代の住職が、この寺のどこかに不動明王像が眠っていて、その不動明王が鈴を持っているらしいと、そんな話をしていたことがあります。寺には、不動明王の鈴が鳴るのは悪しき徴候である、という言い伝えがございましての。実際、私がこの寺に来てから、このようなことは初めてでしてな」
竹流はずいぶん熱心に掛軸を見ていたが、やがて住職に言った。
「しばらく預からせて下さい。簡単なものならここで済ませようと、いくらか道具も持ってきましたが、これはちょっと手がかかりそうだ。急がれますか?」
「いやいや、急ぎはしません。小僧たちはしばらく怖がらせておきます」
さっきの僧が脚立を持ってきた。ちらり、と竹流のほうに視線を投げる。口元の不屈の気配と異なり、目元にはやはり迎えに出てきた僧と同じ、不安のようなものが浮かんでいる。
若い僧の竹流を見る視線には、何やら大いなる期待が籠められているように見えた。それはどうやら彼らが怖がっているという『不動明王の鈴』に関係しているようだ。つまり、今回、竹流の仕事の依頼主はこの住職で、若い修行僧たちはこの外国人が修復師で、『不動明王の鈴』事件を解決するためにここに来てくれたと知っているのだろう。
それから暫くの間、竹流は幽霊の掛軸を調べていたが、やがて丁寧に巻き戻し、徐に天井を見上げると立ち上がった。若い僧が持ってきた脚立に登り、青とも黒ともつかない墨のような具材で描かれた龍を、長い間熱心に見つめる。
真は下から立ったまま天井を見上げていた。ところどころ絵がきらめいているのは、宝石の屑でも貼り付けてあるのだろうか。
ずいぶんたってから竹流は脚立を降りると、真にも見るように促した。
脚立に登ってよく見ると、きらきらして見えたのは、薄く光る欠片のようなものが天井に多数貼られているからのようだった。
その瞬間、真は視界のほんの隅、自分の右肩越しに小さな頭があって、それも一緒に龍を覗いていることに気がついた。
ふ、と横を見て、真は自分の肩の上の『子ども』にびっくりして、思わず声をあげて脚立から落ちそうになった。
子どもは、とん、と身軽に真の肩で反動をつけて飛び上がると、龍の上で逆さまに跳ねた。実際の子どもよりも随分小さな子どもで、そもそも『実際の子ども』ではなかった。
真が呆然と天井の子どもを見ていると、住職が真に話しかけた。
「何か、居りますかな」
真は思わず、上から住職を見おろした。
「私も昔はよう見えましたがな、あなたが見ているのは、小さな子どもですかな」
竹流も顔を上げた。そして、真と目が合うと複雑な表情をした。この手の話題が彼の気に入らないことはわかっている。真は視線を逸らせた。
「この龍と何か関わりがあるのかもしれませんな」
真と竹流の間の気まずさなど意に介さず、あるいは察してこそわざとなのか、住職は竹流にヒントを与えるように言った。
「子どもが、ですか?」
複雑な表情のまま竹流が住職に尋ねている。
「私も、今までに何度か龍が消えたのを見ておりましてな、どういったわけか、この季節にしか消えませんが、その時、子どもの声を聞いたような気がしております。たまに、子どもが走っているのをここで見ることもありましたな。もう昔のことですがの」
それって、いわゆる座敷童だろうか。真はもう一度龍を見上げたが、もう子どもの姿はなかった。