SIZUKU
雨のしずくは地上に向かって落ちながら、お父さん雲に言われたことを思い出していた。
(いいかいしずく。地上はとっても恐ろしく、汚いところなんだ。運よく草や土の上に着地できればいいが、それ以外…例えば動物の死体なんかに落ちてしまったらさあ大変。たくさんのばい菌に好かれて、いやな匂いが染み付いてしまう)
だからなるべくキレイなところに落ちなさい、それがお前のためなんだ…そう言うと、雲はしずくを長い旅に送り出した。
でもしずくは知っていた。お父さんは潔癖症だから、いずれ戻ってくる子供たちが臭いままなのがいやなだけなのだ。
(本当にあいしてるなら、どんな僕でも受け入れられるはずなのに)
地面まであと少し…というとき、しずくの目があるものを捕らえた。
(なんだろう、あの赤黒いもの…)
ちょうどしずくが落ちる位置にある何か。段々と高度が下がり、とうとうそれに着地したしずくは、思ったよりも衝撃が少ないことに驚いた。まるでクッションのように柔らかい。
とその時、下から声が響いた。
―だれだ、お前は―
(僕はしずく。旅人です)
驚きながらもそう返答したしずくに、それは少し笑って言った。
―旅人か…随分小さな旅人さんだ―
その声は男でも女でもないようにしずくには聞こえた。
(あなたは「何」ですか?)
―わたしかい?わたしはね、何でもないものさ。かつては名前があったが、今は無い―
(じゃあ、自由なんですね)
―自由か…そうかもしれないね―
しずくはそれがうらやましかった。何にも縛られない、自由な存在。落下と蒸発の中で生きるしずくにとって、まったく未知の世界。
(しばらくのあいだ、一緒にいてもらえませんか?)
恐る恐るたずねると、それは優しく柔らかい声で答えた。
―もちろんさ。いつまででもいるといい―
彼もしくは彼女と、しずくはたくさんのことを話した。「それ」は人間と暮らしていた時のことを、しずくは大勢の兄弟たちのことを。
(僕はいつだって、大勢の「しずく」の一人なんです。お父さんは優しいけど、僕自身を見てくれたことは無かった)
空での生活は、しずくにとって苦痛でしかなかった。自分が消えていくような感覚が常に頭を支配していた。風も、太陽も、その思いを消し去ることはできなかった。
―でも、今はそうじゃない。わたしは君の事を確かにみているよ。背中に乗った、素敵な旅人さんを―
(…ありがとう)
はじめて存在を認めてもらえた気がして、しずくはなんだかくすぐったかった。
いつのまにか、「それ」は人間の手である場所に運ばれていた。
―どうやらそろそろお別れのようだ…わたしは今から灰になる。まったく、罪深いわたしにふさわしい最期だ―
しずくは黙っていた。どんな言葉を発しても、今このときにふさわしくないような気がして。
―ひとつ、頼みを聞いてくれるかい?―
しずくはうなずいた。
―わたしが一生のうちで一番幸せだったのは、自分の子供を授かったとき…そして一番辛かったのは…―
それはほんの少し黙った。まるで、親だったころの思い出をかみ締めているかのように。
―…その子供を、目の前で失った時だ―
あたりは火に包まれていた。周りの何かは皆灰になり、あと残ったのはしずくの乗った「それ」だけ。
―好奇心旺盛な子でね。あの雨の日も、外を駆け回っていた。そのうち、あの子は道路に出てしまって…車に―
それは火に巻かれ、小刻みに震えはじめた。しずくは渾身の力でしがみついていた。
―わたしはね、足がすくんで動けなかったんだよ。あの子が道路の真ん中で必死にこちらを見つめていたのに、わたしは…。
だからね旅人さん。灰になるわたしのかわりに、あの子の事を覚えていてほしいんだ。何もできなかったわたしのかわりに、せめてあの子が…確かにこの世界に生きて…―
もはや燃え尽きようとしているそれは最期に、しずくをそっと上に押し上げた。しずくはぐんぐん空にあがっていった。
(約束します、覚えていると。あなたの子供のことも…それからあなたの事も)
しばらくして液体に戻ったしずくは、また地面を目指して落ち始めた。もとより雲に帰る気は無かった。
空から見る地上は、様々な色で満ちていた。
end