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For snow eyes

作者: 綾無雲井

 多分それは大きすぎる。

 僕なんかに比べたら、何処までも背が高くて、でかくて。

 アンデス山脈だって越えちまう程なんだ。だから、到底見えないんだろう。目を凝らす行為とかそんなの徒労に終わるくらい巨大な、全長。

 僕が見ているのは、数mmだ。ほんの、片鱗だ。まったく、空って女だろ。意味分かんねえよ。

 瞳を閉じて、青色にシャッターを下ろした。

 そして、耳元で草がサワサワするのをただ聴いていただけ。


 ――雪瞳(ユキメ)


 日も傾きかけた頃、目蓋を開いた僕は真っ先にそれを視界に入れた。さっきまで何故かこの頭を占領していた、仄青の瞳。

 そこに僕が映っていた。全体的に色素の薄い、こいつの髪だけが暗さを強調している。

「なんだよ……」開口一番にこの台詞はないかも知れない。僕は焦ったが、雪瞳は言葉が不本意に含んでしまった刺など、どうでもいいようだ。

 一度、瞬きをしてこちらの隣に腰を下ろす。

 なんでこいつは僕のささやかな休息スポットを知っているんだろう。疑問だけれど、雪瞳だから何でもありなのだと納得した。根拠はなくてもそう思わせる。

 暫く、二人で自然の音に耳を澄ませた。雲の流れが速い。

「帰ろっか」空を眺めたまま雪瞳は僕の声に反応しない。「ねえ、帰るよ」

 立ち上がってジーパンを叩きながら空の信者の様子を伺っていると、やっと声が届いたのか――楓の木をくぐってさっさと歩きだした。自分で短くざんばら切りしたらしい黒髪がなびく。

まさか雪瞳が先頭を切るつもりか。いくら何でもそれは――暗くなってきたし、慣れない獣道で“女の子”が無鉄砲に歩くのはどうなんだ。慌てて追いすがろうとしたが、器用に枝葉を避ける雪瞳の歩幅は意外と大きく、歩くペースが速い。立場逆だろ……。

 八木さんは雪瞳を坊やと呼んでいた。お向かいに住む僕でさえ彼女が女である事実を忘れそうになるのだから、近所のヤツらが雪瞳の性別を前に首を捻るのも、まあ仕方ないのだろう。

 現に雪瞳は泣いたことがないんだ。生まれた時から産声なんて知らなかったと真嶋のおばさんは話していたし。字も書けない上に、大方無表情だから意志疎通が難しい。その素っ気ない人間関係は彼女を男性的にさせる要因でもあるし、解ってるのか、雪瞳。僕を苦悩させる要因でもあるということ。

 前方の彼女が木の実を見つけて立ち止まったので、僕は彼女に頭をしたたかぶつけた。




 二人の間に言葉はいらないなんて、本当にそんなのあるか?


 薄暗い路地に出た。街路樹である欅の影が、形状を変え気まぐれに揺らめいている。その合間を、雪瞳は僕の手を引く。行き先はなんとなく分かっていた。

 思った通り、商店街の外れの店舗万屋に着いた。シャッターを閉めようとするすらりとした人影。腕時計はまだ6時代を示しているが。閉店には早い。

「八木さん、やる気ないなあ」店の前に捨てられた自転車はずっと放置されたままだ。赤茶けたサドルに手を掛けて僕は呆れた。

「坊主どもか」

「坊主かよ」

 喋れない雪瞳の代わりに突っ込んだ。どう見てもお前ら坊主だろ、と諦めの悪い呟きを吐いて、八木さんは苦笑しながら似合わない髭を撫でた。昔、八木さんが髭に触れる回数を数えていたけれど、いつそれをやめたんだろう。

 雪瞳は数えているのかも知れない。八木さんの一連の動作をその瞳で、食い入るように見ている。降参だと言わんばかりに八木さんが手をひらひらと振って店の奥に入っていった。

「仕事、するんだ」

 肩の辺りまで下りたシャッターをくぐって店内に首を突っ込む。八木さんの辞書、整理って単語永久に加えられないな。

 何処で手に入れたのか疑いたくなるタイプの衣類や駄菓子、野菜や文房具なんてものが無計画を気取っている。見慣れた光景だ。すっ、と雪瞳も足を踏み入れた。

「いいや」商品の中から八木さんがひょっこり顔を出した。「これが欲しかったんだろ? 雪坊は」

 これを。雪瞳が……?

「入荷困難だったんだからな」

 八木さんが持ってきたのは、いかにも絶版になっていそうなハードカバーの古本だった。僕には難解過ぎる、専門書。ゆっくりと、瞳を見開いて雪瞳は厚みのあるずっしりと重たいそれを受け取った。ラフな格好の華奢な体に、本が大きい。

 そっか。これ、読みたいんだ。字、読めない癖に。彼女が何かをじっと見つめる仕草は、対象に興味を示したということだ。

 意思表示の不得意な雪瞳が自らこの本を指定したとは思えない。言葉なしの理解……。自分ならきっと彼女の好みなど、解らなかった。ギシリ、と胸のゼンマイが止まるような痛みを覚えた。

 本当、八木さんには敵わない。そんなに的確に雪瞳の好みを当てなくても。

「松芝、お前今日学校休んだんっだって?」

 視界に茶髪が飛び込んだ。店の裏口から出てきた青年、古舘さんが僕を発見して、驚いたように言う。

 ……やばい。何処から漏れた情報だよ。

「お前のダチが心配してたぞ。具合、いいのか?」

 雪瞳にちらと視線をやると、目が合ってしまった。彼女の瞳に押し込められた何かに負けそうになって、咄嗟に目を逸らす。その時、雪瞳の姿を確認して気味悪がる古舘さんが映った。ちくしょう。

 誰がどう見たって健康そうな僕は、古舘さんと世間話をして帰ったであろうクラスメイトを恨みながら、曖昧な笑みを浮かべた。

 古舘さんは人は悪くないが、どうも気の回らないところがある。そんな僕らを眺めていた八木さんはいきなり古舘さんの脛を蹴った。悲鳴をあげる古舘さん。

「痛いっすよ、店長!」

「何言ってやがる。バイトの分際で、仕事中に学生と話し込むお前が悪いんだろ」

 ぶつぶつと文句を言う古舘さんに知らぬ素振りで、八木さんは本代は後日で構わないと、話を変えた。

「雪瞳、帰ろう」



 ……学校に行けないこいつの心境を知りたかった。それだけだ。

「悪い」

 僕は雪瞳に謝った。辺りは暗く、彼女の表情は伺えない。いつもの無表情だろう。

 近所のヤツらは知恵遅れとか感情の欠落した人形のようだとか噂するけれど。こいつは馬鹿でもないし、それは専門書や政治のニュースに興味を示していることでわかる。

 感情が無いなんて、笑わせる。雪瞳はでか過ぎるんだ、僕らでは到底解らない程に。

 学校を休んで、独りで見る世界はひどく退屈だった。もしも、雪瞳とその時の僕の視点に近いものがあるのなら、それを日常としているのなら、なんて巨大なのだろう。言葉なしでは計り知れないよ。



 真嶋家に辿り着いた僕はインターホンを鳴らした。

――はい。……雪瞳か?

 雪瞳が壁を二度叩いて合図したのを確認して、僕は声を上げた。

「松芝です」

 真嶋のおじさんが玄関から姿を現した。梳かされていない禿頭は必要以上におじさんの疲労感を誇張している。マイホームパパの言葉がミスマッチだ。

「遅いぞ、雪瞳。また健吏君に迷惑を掛けたのか。本当にすまないね、健……」

「いや、まったく」

 遮るように言った僕に真嶋のおじさんは一瞬たじろいだが、本を抱えて立っている雪瞳に何か感じたのか、困ったように目尻を下げた。

「妻が、君のことをよく話すんだ。確かに、俺なんかより君はこいつのことを理解しているよ」

 寒気がした。雪瞳の前で何を言いだすんだろうこの人は。僕が黙ってしまったのを見て、おじさんは雪瞳に声を掛けた。

「その本は八木さんのところか? 後で読んでやるから、中に入りなさい。これから文字の練習なんだぞ」

 仄青の瞳がこちらを向いた。何かを宿しているような、硬質で雪のように冷たく意志の強い――雪瞳という名の由来らしい――視線が伏せられて、一拍置いて彼女は家に入った。

「では僕は失礼します」

 きびすを返した僕に、おじさんの「ありがとう」の言葉が何度も追い掛けてきて、頭を掻き毟りたい衝動に駆られた。

 僕は何もわかっていないというのに!

 雪瞳の勉強に付き合うため仕事を辞めた真嶋のおじさんを責めるつもりはない。彼女の将来と就職を今から嘆くおばさんの心境も複雑だろうけど。

 雪瞳家の向かいには僕の家があって、カレイの塩焼きらしき匂いが漂ってくる。お向かいだというのに、なんでこんなに対照的なんだよ。

 一日中暗い家に閉じ込められ書けない字を練習するのはどんな気持ちなんだとか、この頭は考えてしまう。仕様がないじゃないか、彼女は紙を前にすると文字の方式を忘れちまうんだ。僕らの一方的な“言葉”を雪瞳はことごとく受け取って、彼女の“言葉”を聴き取れない僕らは彼女を人形と呼ぶなんて。巨大な器を持った彼女に、どんなに目を凝らしても僕が認知出来るのはほんの一部で、まさに氷山の一角だ。

 真嶋のおばさんに招待されて夕飯を食べに行ったあの日だって、雪瞳がラジオの前に居て、ニュースに耳を傾けているように思えたから、おばさんにそのことを伝えた。その時、家族と離れて独りラジオという物質と対話しているような雪瞳はとても鮮烈だったから。

 おばさんは喜んでいて僕を雪瞳の一番の理解者のように勘違いしていたけれど、そんなことではなくて。

 学校を休んだ割りには、彼女の本質に近付けない自分にもどかしさを感じている。彼女が喋りさえすればと思ってしまう。

 つまり、言語障害なのは僕らの方じゃないか!

 自宅の外壁を力任せに蹴りつけた。


 下校道ってのは、不思議なものだ。絶対皆その先にあるものに思いを馳せていて、恐らく、または十中八九、心はここにない。

「昨日なんでサボったんだよ、学校」

「別に」

 適当な僕の反応に、歪にひしゃげたペットボトルを蹴る智明のテンポがズレた。見事排水溝にシュート。阿呆だ。

「――お前、都合悪いと“別に”って言うのな」

「…………」

 そんなつもりは断じて。取り敢えず、明後日の方向を見て誤魔化す。明後日の方向、つまり真嶋家の階段に腰掛ける彼女が目に入った。

 ――雪瞳だ。

「ずっと、其処に……?」

 雪瞳の目は空を捕らえて放さない。僕より空の方が魅力的らしい。知ってたけど。雪瞳が青い野郎と、仲がいい事実は太陽が東から昇るぐらい明らかなことだろう。色々な物質と会話の出来る彼女の視点が、そして彼女を魅了する空が羨ましいさ、本当に。

 雪瞳に歩み寄ろうとする僕の背後で智明が身じろぎする気配がした。

「ああいうの、好みなのかよ?」

「別に」

「……あ、そ」

 …………。

 僕にだって解らない問題だってのに。複雑な面持ちで智明を振り返ると、ヤツも複雑な表情で受け応えてきた。見つめ合う。

「俺もう行く、な」

 智明はふっと息を吐くとそれだけの言葉に絞ってくれた。珍しい、こいつの気転が回るなんて。

 ああ、そうか。ふと確信した。やっぱり、十中八九、智明の心もここにない。明日になれば、正気かとか、マジかよとか言ってくるんだろうけれど。

「おう」

「……ユキメ、もまたな」

 智明が遠慮気味に声を掛けると、雪瞳が少し顔を傾けてヤツを見送った。ヤツは強ばった微笑みをみせ、背を向ける。

 ヤツの間の抜けた後ろ姿が消えてから、僕も雪瞳の隣に腰を下ろす。お互い、ズボンが汚れるのを気にせずに、惚けた。読み書きの練習は終わったのかどうなのか。どうでもいい。僕らの遊びといえば昔から日光浴だった気がする、進歩ないな。思わず苦笑を漏らした。

 波打つ群雲が眩しく、どちらからともなく目を細める。

「桟橋、行く?」

 僕が訊くと雪瞳がゆっくり瞳を開いた。



 紅、橙、紫、蒼。潮の香り。

 四方に深層のグラデーションと、不規則なさざ波。その中を漁船がゆっくりと進む。絵が描けたなら記録出来るんだろう絶景、生憎そんな技量はないか。

 桟橋。最寄駅から一つ先の駅。八木さんの隠れスポットだったはずが、いつの間にやら僕や智明の溜り場になった。釣りは一人でするものだ、二人で来るなんて野暮なことはしないというのが僕らの鉄則だったのに。

 破ったから過去形だ。

 釣り竿を放り出して欠伸を噛み殺す。魚は滅多に引っ掛からない。暇を持て余して横を見ると、僕の連れは魚だかなんだかを釣るのに必死だった。もしかしたらこの色彩を釣ろうとしているのかも。全て記憶しようとしてるのか。

 曲線を描くもう一つの棒と、それを操る彼女の細く整った鼻筋が景色に映える。長期間桟橋の倉庫に隠していたにも関わらず、釣り道具にガタはきていないようだ。

 それより、だ。まずいのは、此処に居ることなんだけれど。雪瞳を電車に乗せたなんてバレたら……、とんでもないことになる。特にあの心配性のおばさんが発狂してしまうかも知れない。それは避けたいしな。暗くなりきらないうちに戻ろう。

 コンクリートに寝転がった。じっとりと熱い。

 何度目かに雪瞳が釣り竿をあげて干乾らびたミミズを針に付けていて、まったく君は強いよと思わずにはいられない。

「――カモメだ」

 白が横切る。

 へえ、こんなとこにも居たのか。彼女の強さを痛感した分、頑なな硬質さを極めた背中だと感じてしまったから、それを打ち消そうとカモメに集中する。自棄だ。虚空を掠める白い点。

 雪瞳も空を仰いで――その時、いきなり突風が吹いた。

 バランスを崩して、揺らぐ彼女の肢体が海に吸い寄せられ。仰。蒼。仄青。



 雪瞳。


 だせえ。というか、痛え。咄嗟に彼女の持つ釣り竿を引き寄せたものの自分が横転なんて。コンクリートのざらりとした感触に歪めた顔で宙を睨むと、雪瞳が覗き込んできた。

 彼女は僕の頭に伸ばした手を引っ込め、僕の手のひらに指をそっと置いた。激痛。

 仄青に映る僕はなんだか一部紅っぽい。頭部と、手のひら。血だ。手の方は釣り糸か。てかどうすんだ、これ、真嶋のおばさんに見つかったら雪瞳が責められるぞ。外出禁止令が出るかもしれない。どう誤魔化す。

 雪瞳の瞳が一瞬震えた気がした。助けて――立ち上がり、漁船の人を呼ぼうと口をぱくつかせるが声が出ていない。言葉が出ないのだ。初めて見た、雪瞳の焦り様。ひどい出血じゃないんだ、そんなに焦らないでくれよ。声を掛けても止まろうとしない小さなスニーカーを掴んだ。手が、痛い。

「大丈夫」

 仄青がこちらを向く。視点が僕を捕らえた。

「大丈夫だから」

 君も君のこれからもきっと、必ず。何が遭っても。

 春の雪解けのように、その瞳はしずくをこぼした。そうやって雪瞳は喋ったんだ。

読んで頂きありがとう御座いました。

私は障害を持った知り合いを多く持っていますが、新しい形で障害を表現出来ればと考え執筆させて頂きました。

著者にしては珍しい、青春ものです。

感想、批評など頂けましたら狂喜乱舞致します。


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