あなたは私を捨てるはずでは?
突然雷に打たれたのかと思った。
それほどの衝撃だったのだ。
馬車から降りるために、新しく夫となる人の手に触れた瞬間。
私は驚いて飛びのき、馬車の中に尻もちをついてしまった。
当然荷台は揺れ、それが伝わったのかつながれている馬がいななく。
なにより目の前の女が飛びのいたことで、手を差し出していた男もさすがに驚き目を丸くしていた。
「リディア様、ご無事ですか!?」
脇で執事らしき老境の男性が声を上げた。
心臓がうるさいほどに高鳴っている。そしてそれは恋焦がれていた相手が目の前にいるからなんてそんな甘い理由ではなく。
私の脳裏にはものすごい勢いで、あるはずのない記憶が流れ込んでいた。
恋焦がれていた相手との結婚。
しかしいくらこちらが好いていても、相手が同じ気持ちでなければその結婚は互いにとってただの地獄である。
同じ家に暮らしながらほとんど会うこともなく、やがて新たな女性が現れ、私は捨てられる――。
「おい! 大丈夫か?」
その問いかけに、はっと我に返る。
目の前では私に手を貸すため佇んでいた男が、訝しそうにこちらを見ていた。先ほど声をかけてくれた執事もそれは同様だ。
無理もない。
たった今花嫁として迎え入れようとした女が、馬車の床に腰かけたまま動かなくなってしまったのだから。
私は慌てて立ち上がった。だがそのせいで体勢を崩し、今度は足を踏み外して倒れこみそうになる。
第一印象が大事と着飾ったドレスが、ご丁寧にバランスをとる邪魔をする。
せっかく過去を思い出して修正する機会に恵まれたというのに、その途端にこれかと泣きそうになって目をつぶる。
だが私の体は地面に激突するよりも早く、分厚い布地にぶつかった。奥にかすかな弾力がある。そしてほんのり暖かい。
恐る恐る目を開けたのの、相手がため息をついたのはほぼ同時だった。
「……まったく」
いかにも呆れたと言いたげな声音で、男は言った。
つやのある黒髪に白い肌。そして青く鋭い目を持った男だった。容姿は美しく整っていたが、長身であることも相俟ってその姿は見る者を威圧する。
その名はクラウス・シュトラウス。辺境伯家の当主であり、私の結婚相手でもある。
彼の長い腕が、転びかけた私の体を抱きとめていた。
私は混乱した。頭が真っ白になる。
先ほど思い出した記憶の中の彼は、決してこんなことをする男ではなかったのに。
「少しは落ち着け」
この男は本当にクラウスなのだろうか。
記憶の中で私を冷たく捨てたはずの?
訳が分からないまま、私はようやく体勢を立て直し一人で立つことができた。
クラウスの手が離れていく。
「お嬢様!」
嫁ぎ先までついてきてくれた侍女のジョアンナが、あとを追いかけるように馬車から出てきた。
気づけば出迎えに屋敷の前に出ているたくさんの使用人たちも、じっとこちらを見ている。
初対面からなんという失態を演じてしまったのだろう。
「も、申し訳ございません」
「遠路はるばる疲れただろう。よく来てくれた」
かけられた言葉に、さらに驚いてしまう。
やはり先ほど思い出した記憶は何かの勘違いなのか。
初対面の時、こんな風にねぎらわれた記憶なんてかけらもないのに。
「今日のところはゆっくり休んでくれ。ホリー」
クラウスが名前を呼ぶと、ふくよかな中年女性が前に進み出た。彼女は使用人用と思われるお仕着せを着ている。
「リディア様初めまして。メイド長のホリーと申します。本当によくいらっしゃいました。お困りごとがございましたら、なんでも遠慮なくおっしゃってくださいね」
にこやかに笑うその人は、クラウスの乳母で使用人たちに多大な影響力を持つ。見知らぬ相手のはずなのに、思い出したばかりの記憶が私にそう囁く。
「ありがとう。よろしく頼みます」
前は冷たくされていたのにと思いながら、手を差し出して握手する。
すると彼女は驚いたように手を握り返してくれた。
それで思い出した。前回はクラウスと結婚することのできた喜びですっかり浮き足立っており、まともに彼女と挨拶をした記憶がない。
以来なんとなく気まずくて、私は彼女に頼ることが出来なかった。
こうして私の結婚生活は始まった。
といっても、旅疲れと知恵熱のせいで、その日から一週間以上寝込むことになってしまったのだが。
シュトラウス家の人々は、この人騒がせな花嫁にさぞ呆れたに違いない。
***
「心配したんですよ」
リンゴを剥きながらホリーが言った。
「お医者様も疲れがでたんだろうとしか言わないし」
白いお皿に盛られたリンゴから、香しい香りが漂ってくる。
辺境は王都よりも少し寒くて、だからリンゴが取れるようになるのも王都より早いのだそうだ。
ベッドから上半身を起こして、その見事な手際に感心する。
「ごめんなさいね。あなたも忙しかったでしょうに」
「いいえ。病人は大人しく世話されてればいいんです。無理してひどくなったら大変ですからね」
その言葉に、私は思わず笑ってしまった。
寝込んでいる間ずっとホリーがつきっきりで世話をしてくれたので、彼女とだけはすっかり打ち解けていた。
あの記憶のことを思うと本当に嘘みたいだ。
彼女は少し言葉が乱暴なところがあるけれど、初対面の私を懸命に看病してくれたことには心から感謝している。
知り合いが一人もいない場所に嫁いできただけになおさら、その優しさが染みた。
「旦那様もそれはそれはご心配なさっておいでで」
「ふふ」
あのクラウスが心配などするはずがない。
そう思い私は思わず笑った。
彼は自分の領地第一で、その領地のために私と結婚したのだ。
そのことをよく理解していないと、痛い目にあう。私はそう自分に言い聞かせた。
むしろ結婚したのだからとしつこく付きまとったせいで嫌われたのだと、今ははっきりと自覚している。
もう捨てられるような失敗は侵さない。
心配しつつも送り出してくれた家族のためにも、辺境伯家の奥方として出過ぎた真似をせず仕事だけはしっかりしよう。
それがここ数日考え抜いた結論だった。
横になってばかりで時間だけはあったので、熱が下がってからはずっと記憶に対してどう対処するかを考えていたのだ。
そしてこの期に及んで結婚をなかったことにはできないし、政略結婚なのだからキャンセルなど出来るはずもない。ここに暮らすのがすでに決まっているのだから、あとは自分をどう変えるかしか方法がないのだ。
シャクシャクと小気味いい音のするリンゴを食べながら、決意を新たにした。
ホリーとも今は打ち解けているが、彼女は何があっても自分の育てたクラウスの味方だ。もし彼が真に愛する相手を連れてきたのなら、お飾りの妻よりそちらを大切にするであろうことは目に見えていた。
嫌われる前からこんな風にしか考えられない自分が悲しい。
あの記憶がなにかの勘違いであると断ずるのは簡単だ。だがそうではないと私の本能が強く訴えていた。
それほどまでに記憶とともに沸き上がった後悔は大きく、私は同じ結末になることを望んでいなかった。
愛されなくてもいい。
ほかの女性を愛しても構わない。
ただ、私がここに存在することを許してほしい。その一心だった。
この結婚により得られる辺境伯家とのつながりを考えれば、出戻ったところで実家に歓迎されるはずもない。
ああ、どうしてあんな能天気に嫁いでくることができたのだろう。
もっと早くに思い出していれば、ほかの結婚相手を見つけるなどいくらでもやりようはあっただろうに。
返す返すも、記憶を思い出したタイミングの悪さが恨めしい。
ホリーがリンゴを剥き終えて部屋を出ようとした時、入れ替わりで驚くべき相手が私を訪ねてやってきた。
「ちょっといいだろうか」
ノックもそこそこに、現れたのは初日ぶりに見たクラウスだった。
「あら。貴婦人の部屋に許可も得ずに入ろうだなんて」
ちょうど鉢合わせして向かい合う格好になったホリーが、非難めいた声を上げる。
さすがに育ての親にはかなわないと思ったのか、クラウスは顔を曇らせた。
「少し話したいことがあってな。ホリー、席を外してくれるか?」
自分の鼓動が大きくなるのが分かった。
それは二人きりになれたという喜びからではない。
一体何を言われるのだろうかという恐れだった。
行かないでほしい。そう思いながらホリーの背中を見る。だが彼女がここでわざわざ主に逆らうはずもなかった。
「リディア様は病み上がりなのですから、手短に済ませて差し上げてください」
そう言って、彼女は部屋を出て行った。
残され部屋は、一瞬にして青く染まったのかと思えるくらい雰囲気が暗くなる。
クラウスは今までホリーが座っていた椅子に腰かけると、手を組んで少し前かがみ気味にこちらを見た。
私からは何も言うことができず、部屋の中に重い沈黙が落ちる。
「医者からの報告は受けている。子を産むのにも問題ないと」
思わず息を詰める。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
寝込んでいる最中に生理が来たことを言っているのだと、気づいた瞬間羞恥でどうにかなりそうだった。
クラウスは一度大きくため息をついた。
だがため息をつきたいのはこちらの方だ。
どうしてこんな辱めを受けねばならないのか。結婚の当事者であるクラウスに報告が行くのは仕方ないのとして、こんな風に面と向かってこんなことを言わなくてもいいのに。
じわじわと顔が熱くなっていく。怒りか羞恥か、おそらく私の顔は赤くなっているに違いない。
「……今更こんなことを言うのは卑怯かもしれないが」
ため息の後、クラウスは言いづらそうに切り出した。
私の生理事情以上に言いづらいことがあるとは驚きである。
「なんですか? 実は既に愛する方がいるとでもおっしゃるの?」
思わず口をついたのは、自分でも驚くほどに好戦的な一言だった。
クラウスも驚いたのか、話をやめてこちらを凝視している。
だがその顔を見て、私は逆に落ち着きを取り戻すことができた。
こうなったらいっそのこと、先にはっきりしておくべきだ。私はクラウスに愛情なんて求めていないということを。だから普通の貴族がそうであるように、外に愛人を作ったっていい。私を正妻として、最低限尊重してくれるのなら。
「旦那様もご存じの通り、これは政略結婚です。別に愛する方がいらっしゃっても構いませんよ。わたくしの実家との盟約を違えずにいてくださるのなら」
交易を大きな産業とする故郷は、国境を他国と接する辺境伯家とは協力関係にあるのだ。私だけでなく、実家までないがしろにされたらたまらない。
思い出した記憶の中では、それすらないがしろにされ太事で父の怒りを買い、実家に戻ることもできなくなってしまった。
私の言葉は、クラウスにとって予想外のものだったらしい。
彼は驚きに目を見開いていた。いつも鋭い表情をしているので、そんな顔をしていると少しだけ顔が幼く見えた。
「そんなつもりはない!」
彼は腰を浮かせて、興奮したように叫んだ。
思ったより反応が大きく、こちらが驚いてしまう。
それが伝わったのだろう。クラウスは咳払いをして椅子に腰を落ち着けた。
「君にどう見えているのか知らないが、俺はそれほど気の多い男じゃない」
何を言うかと思えば。
未来を知っている私の耳には、あまりにも白々しい言葉だった。
それともこの時は心の底からそのつもりで、ただあとから政略結婚などどうでもよくなるほど愛する人に出会ってしまったということなのだろうか。
もしそうだとしたら、クラウスの言葉はより残酷だ。
だが、私はそこまで考えたところで何も考えられなくなった。
それはクラウスの白い顔が手を伸ばせば触れられるほど、すぐ近くに迫っていたからだ。
「なにをっ」
「俺は、この結婚を政略結婚だとは思ってない」
そう言うと、彼の唇が私に触れた――頬に。
何が起こったのか、すぐには分からなかった。
「式までは安静にするように」
そう言いおいて、彼は部屋を出て行った。
彼が触れた頬に触れる。私が知るクラウスは、こんなことをする人ではなかった。それどころか夜会で浮名を流す男性貴族を、軟派と断ずるような堅苦しい人だったはずだ。
あれは誰だ。
政略結婚を政略と思っていないなら、一体何だというのか。
混乱に次ぐ混乱で全く情けないことに、私はその日から再び熱を出したのだった。




