恋の仕方は、小説に書いてありません
「――やっぱり、恋愛は二次元か活字に限るわね」
金曜日の午後八時。一週間分の仕事をどうにか片付けた私は、お気に入りの駅ビルにあるブックカフェの隅の席で、静かに文庫本を閉じた。
目の前にある、すっかり冷めてしまったロイヤルミルクティーの表面を見つめながら、深いため息をひとつつく。
私の密かな、そして最大の趣味は、恋愛小説を読むことだ。
胸が締め付けられるような切ない純愛から、ちょっと強引なエリート御曹司とのラブコメまで、活字の中の恋ならあらゆるパターンを網羅している自信がある。ページをめくれば、いつでも完璧なタイミングで運命の出会いが訪れ、紆余曲折を経て誰もが羨むハッピーエンドにたどり着く。最高に効率が良くて、傷つかない極上のエンターテインメントだ。
なぜそこまで空想の恋に傾倒しているかといえば、理由は簡単。
私、宮下結衣、二十四歳。恋人いない歴、二十四歳。
そう、生まれてからこの方、一度も男の人と付き合ったことがないのだ。
女子大を卒業して、普通に中小企業の事務職として働き、普通に毎日のルーティンをこなしている。不潔にしているつもりはないし、性格だって(少し内向的ではあるけれど)極端にひねくれているわけではないと思う。
なのに、彼氏ができない。というか、できる気配が全くない。
世間の「普通に生きていればそのうち自然と誰かと付き合うことになる」というあの謎のシステムは、一体どこで稼働しているのだろう。
街を歩けば手を繋いで歩くカップルが溢れているけれど、彼らはどうやって出会い、どうやって距離を詰め、どういう脳のバグを経て「付き合おう」という結論に至るのか。
恋愛小説を何百冊読んでも、その具体的な『実践マニュアル』だけはどこにも書いていなかった。
そんな私が、今、猛烈に緊張している。
理由は、机の上に置いたスマホの画面に表示されている、大学時代からの友人・サキからのメッセージだ。
『結衣、約束通り今度の日曜日、私の会社の同期を紹介するから!
名前は橘蓮くん。ちょっと見た目は誤解されやすいタイプだけど、すごく良い奴だから! 二人でゆっくり話してきなよ!』
持つべきものは世話焼きな友人、と言うべきなのだろうか。
「結衣の休日の過ごし方、さすがに枯れすぎ!」と危機感を覚えたサキが、半ば強引にセッティングしてくれたのが、今回で何度目かになる『友達の紹介』だった。
過去数回の紹介は、お互いに緊張しすぎて会話が弾まなかったり、なんとなく連絡が途絶えたりして終わっている。どうせ今回も、当たり障りのない世間話をして、「また機会があれば」と社交辞令を交わして終わるのだろう。
「……まぁ、サキの顔を潰すわけにはいかないしね」
私は最後のミルクティーを飲み干し、バッグに文庫本を仕舞った。
期待なんてしていない。ただ、ちょっとだけお洒落をして、失礼のないように大人の対応をしてこよう。そう自分に言い聞かせながら、駅の改札へと向かった。
◇
日曜日、午後一時。
サキに指定されたのは、オフィス街の裏手にある、少し隠れ家的な落ち着いたカフェだった。
全面ガラス張りの明るい店内で、観葉植物の緑が綺麗に映えている。
約束の十分前。私は緊張を隠すように、新しく下ろしたばかりの淡いラベンダー色のブラウスの袖を何度も整えていた。サキからは「橘くんには結衣の特徴を伝えてあるから、席に座って待ってて!」と言われている。
(橘さん、か。どんな人だろう……)
サキの「見た目は誤解されやすい」という言葉が、不穏に脳裏をよぎる。
ものすごい金髪だったらどうしよう。あるいは、全身ブランド物で固めたチャラい人だったら……。そんな妄想を膨らませていると、店のドアに取り付けられた真鍮の鈴が、チリンと涼やかな音を立てた。
入ってきた男性を見た瞬間、私は本能的に「あ、あの人だ」と察した。
背が、高い。優に百八十センチは超えているだろう。
黒いシンプルなシャツにチャコールグレーのスラックスという落ち着いた服装だが、何より目を引くのは、その『雰囲気』だった。
少し長めの黒髪に、一見すると鋭く、誰かを睨みつけているかのように見える三白眼。整った顔立ちではあるけれど、眉間に薄く刻まれたシワのせいで、お世辞にも「話しかけやすい爽やかイケメン」とは言えない。
サキの言う「誤解されやすい」のレベルを超えている。正直、夜道で後ろを歩かれたら、確実に早足で逃げ出すレベルでちょっと怖い。
その強面の男性は、鋭い視線で店内をぐるりと見渡した。そして、窓際の席で縮こまっている私と目が合った瞬間、わずかに目を見開いた。
彼はまっすぐにこちらへ歩いてくる。一歩ごとに、私の心臓の鼓動が速くなっていくのが分かった。
(どうしよう、本当に怖い。私、何か悪いことしたっけ……!?)
「あの……宮下、結衣さん、ですか?」
頭上から響いたのは、意外なほど低く、そして心地よくよく通るベース音のような声だった。
「は、はい! 宮下です! 初めまして!」
勢いよく立ち上がって頭を下げると、彼は一瞬驚いたように肩を揺らし、それから、慌てて自分も頭を下げた。
「初めまして。同期の藤田さんから紹介された、橘蓮です。……すいません、威圧感ありましたよね。驚かせてしまって」
橘さんは、椅子を引いて座りながら、酷く申し訳なさそうな顔をした。
あれ? と思った。
睨みつけるように見えた三白眼は、よく見るとただ視力が悪くて焦点を合わせようとしていただけのようで、私と目が合うと、心なしか困ったように目尻が下がっている。
「いえ! そんなことないです! お忙しい中、お時間を取っていただいてありがとうございます」
「こちらこそ。同期の藤田さんが『私の大好きな友達で、めちゃくちゃ性格が良くて可愛い子がいるから、絶対に粗相をするな』って、一週間前から毎日会社で脅してきたので……。実は、生きた心地がしてなかったんです」
「えっ……サキがそんなことを?」
橘さんは、大きな手を頭の後ろに回して苦笑した。その仕草が、見た目の怖さとは裏腹に、なんだか大型犬が耳を垂らしているようで、私の緊張がほんの少しだけ解けていく。
「本当にそう言っていたんです。だから、もし俺が何か失礼なことをしたり、怖がらせたりしたら、すぐに言ってください。彼女に後で何を言われるか分からないので」
「ふふ、サキなら本当にやりそうですね。でも、大丈夫です。怖がっていませんから」
私が小さく笑うと、橘さんは「良かった……」と、胸の底から安堵したようなため息を漏らした。その表情があまりにも素直で、私は心の中で(あ、この人、サキの言う通り、本当はすごく優しい人なのかもしれない)と思い始めていた。
注文したメニューが運ばれてくると、橘さんの『気遣い』はさらに細かいところで発揮された。
私はアイスカフェラテ、橘さんはホットのブレンドコーヒー。それに加えて、お店の名物だという季節のフルーツタルトを二人で一つシェアすることにしていた。
「あ、宮下さん、これ」
タルトがテーブルの中央に置かれた瞬間、橘さんは自分の手元にあったフォークだけでなく、おしぼりや小皿をさりげなく私の使いやすい位置へと動かしてくれた。
大きな手で、不器用そうに、けれど丁寧に。
「ありがとうございます。橘さん、すごく気が利くんですね」
「いや、そんな大層なものじゃ……。ただ、姉が二人いるので、実家でサボってると容赦なく叩き起こされるんです。その時の習性というか、体に染み付いてるだけで」
「お姉さんが二人! なるほど、それで女性への気遣いが自然なんですね」
「扱いが上手いなら、今頃もっとマシな見た目になってると思いますけどね。よく仕事でも、真面目に聞いてるだけなのに『怒ってるのか?』って上司に勘違いされるんです」
橘さんは自分の顔を指差して、自虐気味に笑った。
確かに、黙っていると少し冷徹なエリートに見えるかもしれない。でも、こうして言葉を交わしていると、彼の内側にある温厚で誠実な人柄が、ポロポロと溢れ出てくるのがよく分かる。
「でも、私は素敵だと思います。お仕事に対しても、真面目に向き合っている証拠じゃないですか」
「……宮下さんは、優しいんですね」
不意に、橘さんがまっすぐに私を見た。
深い焦茶色の瞳が、真っ直ぐに私を捉えている。
少女漫画や恋愛小説なら、ここで効果音(ドクン、とか)が入るような場面だ。リアルな男性とこんなに近くで視線を交わしたことがない私は、急に耳の奥が熱くなるのを感じて、慌ててタルトをフォークで小さく切り分けた。
「そ、そんなことないです。普通です! ……あ、このタルト、すごく美味しいですよ」
「あ、本当ですか。どれ……うん、確かに美味い。甘すぎなくて、男でも食べやすいですね」
橘さんは嬉しそうに目を細めた。その顔を見て、私はふと、彼のプライベートな部分にも興味が湧いてきた。
「橘さんは、休日はいつも何をされているんですか?」
「俺ですか? うーん、大したことはしてないですよ。基本的にはインドア派なので。家で映画を観るか、本を読んでるか……あ、でも、最近は電子書籍より、紙の小説を読むことが多いですかね」
「えっ、小説を読むんですか?」
思わず身を乗り出してしまった私に、橘さんは少し驚いたように頷いた。
「はい。ミステリーとか、SFが多めなんですけど……。あ、でも、ジャンル問わず何でも読みます。宮下さんは、本とか読みますか?」
「読みます! 読みます、というか、趣味が読書なんです!」
まさか、こんな強面の男性と『読書』という共通の趣味が見つかるとは思わなかった。一気に親近感が湧いて、私の声のトーンが一段上がる。
「そうなんですね。どんなジャンルを読まれるんですか?」
「え、あ、それは……その……」
急に、ブレーキがかかった。
私の主戦場は『恋愛小説』だ。それも、かなり糖度が高めのやつ。
恋人いない歴=年齢の女が、趣味で恋愛小説を貪り読んでいるなんて、初対面の男性に知られたら「重い」とか「こじらせてる」とか思われるに決まっている。
「……あ、ファンタジー、とか、日常系、とかです。ほのぼのしたやつ!」
嘘は言っていません。ラブコメも一種の日常系だし、ファンタジー要素がある恋愛小説だってたくさんある。
「ファンタジー、良いですね。俺も昔からよく読みます。あの、最近読んだ中で、お勧めの本とかありますか?」
「お勧め、ですか? えっと……」
私の脳内ハードディスクが高速で回転する。恋愛要素が極力薄くて、一般受けする、それでいて本当に面白い作品……。
「『昨日の空を探して』っていう作品、知ってますか? 地方の古本屋を舞台にした、ちょっと不思議な日常ミステリーなんですけど……」
「あ、それ、知ってます! むしろ、先月読みました。あの、主人公の不器用な店主が、持ち込まれた本に挟まれた手紙の謎を解いていく話ですよね?」
「そうです! 知っててくれたんですか!?」
「はい。すごく温かい話で、読んだ後、ちょっと優しい気持ちになれるんですよね。あの作中に出てくる、古い喫茶店の描写がすごく好きで……」
そこからの時間は、まさに『あっという間』だった。
お互いに好きなキャラクター、印象に残ったシーン、次に読みたい作品リスト。
話せば話すほど、驚くほど価値観や作品の捉え方が一致した。橘さんは、私が熱弁を振るうのを、途中で遮ることもせず、「うん、うん」と本当に楽しそうに、優しい眼差しで聞いてくれた。
今まで参加した紹介の席では、「趣味は読書です」と言うと、大抵は「へえ、真面目なんだね」で終わるか、「最近のビジネス書とか読むの?」と聞かれるのがオチだった。私の大好きな世界を、こんなに真っ直ぐに共有できたのは、人生で初めての経験だった。
気がつけば、窓の外の陽の光は少し傾き、カフェの店内に落ち着いた間接照明が灯り始めていた。
「あ……すみません、俺ばっかり喋って、もうこんな時間ですね」
橘さんが時計を見て、ハッとしたように言った。
「いえ! 私こそ、楽しくてつい喋りすぎちゃいました。……橘さんとお話しできて、本当に良かったです」
それは、社交令辞でもなんでもない、私の心からの本音だった。
最初は「ちょっと怖い人」だと思って身構えていたのに、今の私には、彼の優しさと誠実さしか見えなくなっていた。
「俺も、宮下さんと過ごせて、すごく楽しかったです」
橘さんはそう言うと、少しだけ耳を赤くして、スラックスのポケットからスマホを取り出した。
「あの、もし、迷惑じゃなければ……連絡先、交換しませんか? また、本の情報交換とか、できたら嬉しいなと思って」
(――あ、これ、恋愛小説で読んだやつだ)
脳内の私が、小さくペンを走らせる。
でも、現実の私は、小説のヒロインみたいにスマートに返す言葉を持ち合わせていなかった。
心が信じられないくらいバタバタと暴れている。でも、嫌な気持ちは全くない。むしろ、この時間がここで終わってしまうのが、寂しいとすら思っている。
「はい! ぜひ、よろしくお願いします!」
私は、少し震える手で自分のスマホを取り出した
カフェを出ると、五月の爽やかな夕風が、私たちの頬を通り抜けていった。
駅の改札へと続く道を、私たちは少しだけ歩幅を合わせるようにして、ゆっくりと歩く。
「宮下さん、今日は本当にありがとうございました。……藤田さんにも『すごく楽しかった』って、ちゃんとお礼の連絡を入れておきますね」
「ふふ、そうですね。サキ、きっと大喜びしますよ」
改札の手前で足を止め、お互いに向き合う。
橘さんは、少し名残惜しそうに私を見つめた後、何かを決心したように、ぎゅっと拳を握りしめた。
「あの、宮下さん」
「はい?」
「俺、藤田さんから聞いていたんです。宮下さんが、すごく本が好きだってこと。……だから、もし良かったら、次、その……新しくできた大型専門書店に、一緒に行きませんか? その後、また美味い珈琲の店でも探して……」
少し早口で、けれど一生懸命に言葉を紡ぐ橘さん。
その不器用な誘い方が、なんだか、私が今まで読んできたどの恋愛小説のヒーローのセリフよりも、ずっと、ずっと私の胸に深く突き刺さった。
彼氏の作り方なんて、二十四年間生きてきても、やっぱり今でもよく分からない。
でも、この人と「もっと一緒にいたい」と思うこの気持ちの先に、きっとその答えがあるのだろう。
「はい。喜んで。……私、楽しみにしていますね」
私が満面の笑みで答えると、橘さんは一瞬呆然とした後、今日一番の、本当に嬉しそうな、そして最高に優しい笑顔を咲かせた。その笑顔は、最初に見た時の「怖さ」なんて微塵も感じさせないほど、温かくて、眩しかった。
家に帰ったら、サキにお礼のLINEを山ほど送ろう。
そして、今夜読む恋愛小説は、いつもより少しだけ、甘いハッピーエンドの作品を選ぼう。
心の中でそんな計画を立てながら、私は橘さんに小さく手を振り、心地よい胸の弾みを抱えたまま、駅の改札へと歩き出した。




