前世を思い出した悪役令嬢、隠しキャラに執着されて国を奪いました!
「ヴィオレッタ・エル・ノイマン! 貴様のような嫉妬に狂った醜悪な女は、我が王家の妃に相応しくない。今この瞬間を以て、婚約破棄を言い渡す!」
きらびやかな夜会会場。その中心で、第一王子レオルドが私を指差して叫んだ。
彼の隣には、か弱い花のように震えながら彼に縋りつく「聖女」リリアーナの姿がある。
(……あ、これ……進研ゼミで見たやつじゃなくて、ゲームで見たやつだ)
その瞬間、私の脳内に濁流のような勢いで『前世の記憶』が流れ込んできた。
ここは乙女ゲームの世界。私はヒロインを虐めた末に破滅する悪役令嬢。
そしてこの後、私は国外追放を命じられる。
その馬車はリリアーナが手配した盗賊に襲われ、私は身ぐるみ剥がされて娼館に売られ……数年後、冬の冷たい路地裏で、誰にも看取られず、ドブネズミのように惨めに死ぬのだ。
指先が凍えて動かない。頬に張り付く雪が、自分の体温で溶けることさえない。誰かに蹴られ、泥水を啜り、白く濁った呼吸が途絶えていく――。
脳裏に焼き付いた「私の末路」に、胃の奥がせり上がる。
(冗談じゃないわ。誰がそんなゴミみたいなエンディング受け入れるもんですか!)
心臓が早鐘を打つ。手足が氷のように冷たくなる。
だが、絶望に沈むにはまだ早い。
「殿下、仰る意味が分かりかねますわ。証拠もなしに公衆の面前で貴族令嬢を貶めるなど、王族としての品位を疑われますわよ?」
私は震える声を抑え込み、扇を広げて不敵に笑って見せた。
生存本能が叫んでいる。悪足掻きだろうが何だろうが、この運命を食い破ってやると。
「ふん、往生際が悪いな! 衛兵、その女を捕らえよ! 今すぐ北の監獄へ放り込み、明日には国外追放だ!」
レオルドが冷酷に言い放つと同時に、ガシャガシャと鎧の音を立てて、衛兵たちが私を取り囲む。
(……あぁ、誰も助けてはくれない。かつて私に傅いていた貴族たちは、一様に目を逸らし、あるいは愉悦に歪んだ顔で私の没落を待っているわ)
絶望が首筋を撫でた、その時だった。
「――ヒヒッ、ヒヒヒヒッ! 威勢がいいねぇ、王子様。死ぬ寸前のネズミが必死に鳴いてるのを、上から見下ろす気分はどうだい?」
頭上から降ってきたのは、ガラスを爪で立てたような、ひどく耳障りで、けれど甘く響く男の声だった。
黒い影がシャンデリアからひらりと降り立ち、その異質な姿を晒した瞬間。会場が恐怖で凍りつく中、リリアーナだけが目を見開いて叫ぶ。
「嘘っ……! なんで、なんで隠しキャラの彼がここにいるのよ!?」
(……やっぱり。リリアーナ、あなたも『こっち側』の人間だったのね)
私は確信する。リリアーナの口から出た「隠しキャラ」という単語。彼女もこの世界がゲームだと知っている転生者だ。
リリアーナは恐怖を塗りつぶすような歓喜の表情で、レオルド王子の腕を振り払い、ヴェルグへと駆け寄る。
「待って、あなたは私の味方でしょ!? 攻略本には、純真な乙女の祈りに応えて現れる最強の守護精霊って……!」
リリアーナは、ゲームの知識通りに「聖女の微笑み」を浮かべ、ヴェルグの手を取ろうとする。
「さあ、私に跪いて。この悪毒な令嬢を、あなたの力で消し去って……きゃあぁっ!?」
次の瞬間、ヴェルグが汚らわしいものを見るかのように指先を弾いた。
見えない衝撃波に吹っ飛んだリリアーナが、無様に床を転がる。
「ヒヒッ……『純真な乙女』? 笑わせんじゃねぇよ。お前の魂、ドブ川の底より濁ってんぞ。鼻が曲がりそうだ」
ヴェルグは無造作に伸びた灰色の髪をかき上げ、グレーと緑のオッドアイで、床に這いつくばるリリアーナを冷酷に見下ろす。
「俺が興味あんのは、死を前にしてなお『運命を食い破ろうとしてる』……こっちのイカれたお嬢さんだ」
ヴェルグの視線が、私へと突き刺さる。
彼は犬歯を覗かせて笑い、私の顎を指先でクイと持ち上げた。
「なぁ、お嬢さん。この薄汚ぇ聖女様を助けるか、それともお前と一緒に地獄へ堕ちるか……ダイスで決めようじゃねぇか」
「衛兵! 何をしている、その不審者ごとヴィオレッタを捕らえよ! 抗うようなら斬り捨てても構わん!」
レオルド王子の、余裕を失った金切り声が響く。
私を包囲していた衛兵たちが、一斉に槍を突き出した。……けれど。
「――シッ」
ヴェルグが、犬歯を剥き出しにして短く息を吐く。
ただそれだけで、爆風が荒れ狂った。
「ぎゃあぁっ!?」
「ぐはっ……!」
鋼の鎧を纏った大男たちが、紙屑のように四方八方へ吹き飛ばされ、壁や柱に叩きつけられる。
会場に満ちる、圧倒的な魔圧。呼吸すら困難なほどの静寂の中で、ヴェルグは退屈そうに指先で、古びた銀貨のようなサイコロを弄んでいた。
「さて、お嬢さん。邪魔者は消えた」
彼は私との距離をゼロにする。灰色の髪から漂う乾いた匂いが鼻腔を突き、彼の瞳が私のワインレッドの瞳を真っ向から覗き込んだ。
「俺は、死ぬはずの人間が抗う瞬間が大好物なんだ。だから賭けをしようぜ。このダイスを一振り。1〜5ならお前は死ぬ。6なら……俺が全部ひっくり返してやるよ。お前の騎士になって、この国ごとひっくり返してやってもいい」
(……正気じゃないわ)
隠しキャラである彼は、二周目以降のバグに近い存在。本来、この断罪イベントになんて出てくるはずがない。
けれど、目の前の男の瞳は、嘘をついていない。
もし私が断れば、この場でリリアーナたちと一緒に殺されるか、予定通り路地裏で死ぬだけだ。
「……振りますわ。どうせ死ぬなら、選んで死にます」
私は震える手で、彼の掌にあるダイスを取った。
生存への渇望を込めて、大理石の床へ放り投げる。
カラカラ、と乾いた音。
床を転がるダイスは、6の目で止まる――かと思った瞬間。
――パキン。
会場の音が一瞬で消えた。シャンデリアの光が狂ったように揺らぎ、リリアーナの顔だけが「理解不能」で固まる。
過剰な魔力に耐えきれなかったのか、ダイスが真っ二つに割れたのだ。
「……あ?」
ヴェルグが初めて、呆然と目を見開く。
制御不能の結末。運命の破綻。
一瞬の静寂の後、彼は腹を抱えて爆笑した。
「ハハハハハ! 割れた? 俺のダイスが!? 最高だ、お前、本当にとんでもねぇ幸運を隠し持ってやがったな!」
彼は涙を浮かべて笑い、私の腰を強引に引き寄せる。
そして、獲物を定めるような声で囁いた。
「気に入った。……そういや俺には名がねぇ。呼びづらいだろ、好きに呼びな」
今だ。
私は必死に、濁流のような前世の知識を検索する。
この男は「名無し」の大妖精。名前を付けた者に、その存在を縛られる特性を持っている。
この厄災を、私の生存のために繋ぎ止めてやる。
「名無しのままでは、賭けの相手として不公平ですもの。……あなたの名は、ヴェルグ。これからはそうお呼びしますわ」
その瞬間。私の舌が、自分でも知らないはずの言語の発音をなぞっていた。
私の体温が、彼の魂に吸い取られるように一気に下がる。
その瞬間、彼の白い頬に、熱を帯びた『Velg』の筆記体が浮かび上がった。
赤く発光した文字は、そのまま彼の肌の奥深くへとじんわり広がって、溶けるように消えていく。
「……へぇ」
ヴェルグは、自分の頬を愛おしげになぞり、細められたオッドアイで私を見た。
「俺の魂にまで、お前の名を刻みやがって。……いいぜ、ヴィオレッタ。俺を縛った責任、死ぬまで取ってもらうからな?」
「勿論ですわ、ヴェルグ。――あの王子の顔、もう少し青く染めて差し上げて?」
私が扇で口元を隠し、冷ややかに微笑みかけると、ヴェルグはオッドアイを細めて私を覗き込んだ。
「……命令か?」
「いいえ、提案ですわ。あなたの愛する『退屈しのぎ』にちょうどいいと思いまして」
その言葉に、ヴェルグは猛獣のような犬歯を覗かせて笑った。
「ヒヒッ……話がわかるじゃねぇか、ヴィオレッタ。いいぜ、最高のショーを見せてやるよ」
ヴェルグが、細く長い指先をパチンと鳴らす。
その瞬間、静まり返った会場の天井から、ひらひらと一枚のカードが舞い落ちた。
それはレオルド王子の足元に、まるで吸い寄せられるように着地する。
「……っ、なんだこれは!」
レオルドが忌々しげにそのカードを拾い上げ、ひらりと裏返した。
直後、彼の顔から血の気が引く。
「な……っ!? これは……」
カードの表面が淡く発光し、その場にいた全員の目に焼き付くような鮮明な『映像』が空間に投影された。
映し出されたのは、数日前の夜会の裏庭。
月明かりの下、熱烈に抱き合い、誓いの口づけを交わすレオルドとリリアーナの姿だ。
『愛しているよ、リリアーナ。あんな傲慢な女、すぐにでも排除して君を妃に迎えるからね』
『うれしい、レオルド様。……ヴィオレッタ様が邪魔で仕方なかったんですもの』
音声まで完璧に再現された睦言が、静寂の会場に響き渡る。
「あ、あれは……王子殿下と、聖女様?」
「婚約破棄の前に、既に不貞を……?」
貴族たちの間に、さざ波のようなざわめきが広がる。
リリアーナが顔を真っ青にして「違う、これは捏造よ!」と叫んでいたが、ヴェルグは止まらない。
再び指を鳴らせば、今度は二枚、三枚とカードが降り注ぐ。
「おっと、まだ一枚目だぜ? 俺の手札は、お前らが重ねてきた罪の数だけあるんだ。……さぁ、次はどれにする?」
ヴェルグは私の隣で、まるで観客を煽る道化師のように優雅に、けれど残忍に笑った。
その光景を見つめる私の隣で、彼のオッドアイが獲物を追い詰める悦びにギラついている。
「やめて……やめてよぉっ! そんなの、誰かが作った偽物に決まってるじゃない!」
リリアーナが耳を塞いで叫ぶ。その可憐な「聖女」の振る舞いも、今はただの見苦しい狂態にしか見えない。
私は扇を少しだけ閉じ、冷ややかな視線を彼女に注いだ。
「偽物……そう仰るなら、ヴェルグ。次は彼女の『内面』を見せて差し上げて」
「ヒヒッ。お安い御用だ、ヴィオレッタ。……おらよ、二枚目だ!」
ヴェルグが指を弾くと、今度はリリアーナの懐から勝手に這い出した一枚のカードが、空中を舞った。
それは彼女が隠し持っていた「日記帳」――否、この世界の攻略方法を記した『メモ』をカード化したものだ。
(……あると思っていた。前世の記憶を得て、確信していた。転生したのなら、自分だけが優位に立てる攻略メモを作らないわけがないと。私は、賭けに勝ったのだ)
浮かび上がった映像は、彼女が自室で一人、不気味にほほ笑みながらペンを走らせる姿。
『……よし、これでヴィオレッタを陥れる準備は完了。あの女、どうせ処刑される運命なんだから、私が踏み台にしてあげてもいいよね? 私はこの世界のヒロインなんだから、何をしても許されるんだし!』
追い打ちでカードから投影されたのは、彼女が夜な夜な書き連ねていた『攻略対象の落とし方』と、邪魔な令嬢を排除するための供物手配リストだった。
会場が、しんと静まり返った。
それは不倫などという可愛いものではない。明確な悪意と、他者の命を弄ぶ異常性の露呈だった。
「ひっ、あ、あぁぁ……っ!」
リリアーナは腰を抜かし、床にへたり込む。
ヴェルグはその無様な姿を見下ろし、灰色の髪をかき上げて嘲笑った。
「『ヒロイン』? 『踏み台』? 面白いこと抜かすじゃねぇか。お前、自分が特別な神様か何かにでもなったつもりかよ? ……あいにくだが、この場でお前の言葉を信じる奴は、もう一人もいねぇぜ」
レオルド王子ですら、隣にいるリリアーナを化物を見るような目で見つめ、一歩、また一歩と後ずさる。
「ヴェルグ、もういいわ。……彼女の『本性』は、十分すぎるほど皆様に伝わりましたもの」
私がそう告げると、ヴェルグは満足げに肩をすくめた。
けれど、オッドアイはまだギラついた光を失っていない。
「おいおい、ヴィオレッタ。まだ三枚目が残ってるぜ? ――とどめ、刺さねぇのか?」
彼の指先で、最後の一枚が黒い炎を纏ってゆらゆらと揺れている。
それは、王子と聖女が共謀した、人道に反する「本当の罪」のカードだった。
私はそれを見て、この大妖精の意図を察する。ブレーキなんて存在しない、アクセルだけが彼の正解だ。
「そうね、幕を引きましょう。――ヴェルグ、最後の一枚を」
私が冷然と告げると、ヴェルグは低い、地を這うような声で笑った。
彼はカードを空中に溶かすと、懐から先ほど真っ二つに割れたダイスの片割れを取り出し、無造作に床へ弾く。
――コツン。
乾いた音が響いた瞬間、レオルド王子の影が生き物のように蠢き、床から一枚の「紙」を引きずり出した。
そこには、紛れもないレオルド直筆の署名と、王家の印章。そして、自身の罪を確定させる血判の指紋が、黒々と刻まれている。
「な、なんだこれは……手が、勝手に……!?」
レオルドが悲鳴を上げる。彼の意志に反し、その手が吸い寄せられるように契約書を掴んだ。
そして――彼の喉が、嫌な音を立てて引き攣る。
「……ッ、がはっ、あ、ああぁ……!」
王子の口が、見えない糸で操られる人形のように、がばりと開いた。
止めたくても止まらない。彼自身の声が、会場中に朗々と響き渡る。
『国外追放後、対象ヴィオレッタ・エル・ノイマンを指定盗賊団へ引き渡すものとする。代価として、聖女リリアーナの聖域展開に必要な供物を――』
「やめろ! やめてくれぇっ!!」
レオルドは涙を流し、自分の喉を掻きむしるが、残酷な朗読は止まらない。
最後に、彼は絶望に染まった顔で、自分自身にとどめを刺した。
『――これは、王国の安寧のためである』
静寂。
それは、会場にいた全員が「王族の皮を被った化物」を目の当たりにした瞬間だった。
宙に浮いた契約書の血判がじわりと滲み、刻まれた王家の紋章が、呪われたように黒く変色していく。
王族としての資格が、その魂から剥がれ落ちた合図だ。
「いい手だ。だがな、王子様」
ヴェルグが、絶望に震えるレオルドの耳元で、温度のない声で囁いた。
グレーと緑のオッドアイが、至近距離で獲物の崩壊を愉しんでいる。
「賭けで一番重いのは……自分のサインだ。お前は自分の名前で、自分を殺したんだぜ?」
私は、腰を抜かして震えるレオルドを見下ろし、扇の隙間から優雅に微笑んだ。
「――国のため、でしたわね? 殿下」
その一言が、逃げ道を完全に塞ぐ最後の一撃となった。
隣では、リリアーナがガタガタと歯の根を合わずに震え、うわ言のように繰り返している。
「そんなはず……攻略は完璧だったのに……!」
ヴェルグがひらりと振り返り、床に転がったダイスの片割れを、ブーツの先で弄んだ。
「ヒヒッ……残念だったなぁ。確率は、もう割れちまったんだよ」
ヴェルグが、床に転がったダイスの片割れをブーツの先で無造作に弾く。
カラン、と虚しく響いたその音は、リリアーナが信じていた「確定した未来」が砕け散った合図だった。
絶望に白目を剥くリリアーナと、自分の罪を自分の口で読み上げさせられ、魂まで折れ曲がったレオルド王子。
静まり返った会場には、ただヴェルグの放つ圧倒的な魔圧だけが重く沈殿している。
誰もが、目の前の「人ならざる厄災」への恐怖で指一本動かせない。
その沈黙を切り裂いたのは、私の隣で不敵に喉を鳴らすヴェルグの、短くも冷酷な一言だった。
「――おい。ゴミの片付けは、お前ら人間の仕事だろ?」
ヴェルグが指を鳴らす。すると、先ほど吹き飛ばされて気を失っていた衛兵たちが、まるで糸で引かれたようにガバッと跳ね起きた。
彼らは恐怖にガタガタと震えながらも、ヴェルグの放つ不可視の圧力に急かされるように、這いずりながら王子たちの元へ向かう。
その声に弾かれたように、会場の最前列にいた老公爵が、震える拳を握りしめて一歩前へ踏み出した。
彼は、もはや王族の欠片も失ったレオルドを、射殺さんばかりの鋭い眼差しで見据える。
「……連れて行け。王家の名を汚し、『聖女』と共謀して我が国の令嬢を害そうとした大罪人だ」
その厳格な声が「法」としての決定打となり、張り詰めていた空気が一気に崩れ落ちた。
待機していた騎士たちが、雪崩を打つように王子たちへ殺到する。
「離せ! 私は王子だ! 次期国王だぞ!」
「嫌っ……こんなの、バッドエンドじゃない! 私の、私の逆ハーレムルートがぁっ!!」
往生際の悪い叫び声が、冷ややかな視線の渦に飲み込まれていく。
リリアーナの「逆ハーレム」という不可解な言葉に、周囲の貴族たちは哀れみすら抱かず、ただゴミを見るような目で二人を見送った。
「ヴィオレッタ様……!」
「なんという高潔な……!」
さっきまで目を逸らしていた貴族たちが、一斉に手のひらを返して膝をつく。その薄っぺらな賞賛に、私は内心で冷笑を浮かべた。
騒乱が遠ざかり、静まり返った夜会会場では、粉々に砕けたシャンデリアの破片が、床で星のように輝いている。
私は、隣に立つ灰色の「厄災」へと向き直った。
「……お疲れ様、ヴェルグ。……賭けは、私の勝ちかしら?」
私が扇で口元を隠してそう告げると、ヴェルグは面倒そうに後頭部を掻き、私をねめつけた。
「ハッ、とぼけんな。……お前、最初から俺を『名付け』で縛るつもりだったろ。……負けたのは、俺様の方だ」
ヴェルグが私の手を取り、その指先に、犬歯を立てるような危ういキスを落とした。
その瞬間、彼の頬に溶け込んだはずの『Velg』の筆記体が、熱を帯びたように赤く脈打つ。
「名前なんて重い呪いをくれやがって。……おかげで俺は、お前が死ぬまで隣に居なきゃならなくなった。……責任、取ってもらうぜ? ヴィオレッタ」
彼の手が、私の深い紫の髪を愛おしげに梳き、その指先が耳のすぐ傍を掠める。
利用するだけのつもりだった。
生き残るための、その場しのぎの駒にするはずだったのに。
「……あら。利用されてくださるのでしょう? 私のために」
私が不敵に微笑むと、ヴェルグは喉を鳴らして笑い、再び懐からダイスを取り出した。
今度は、欠けていない、真新しいダイスだ。
「ヒヒッ……いいぜ。だが、次の賭けは俺がルールを決める」
彼は私の腰を強引に引き寄せ、耳元で、吐息とともに甘く残酷な言葉を吐き出した。
「次は、俺たちがいつ結婚するかを賭けようぜ。……安心しろ、どの目が出ても答えは同じだ。――俺はお前を、地獄の果てまで逃がしてやらないからなぁ」
彼の影が伸び、私の影を丸ごと飲み込んでいく。
私は、彼に抱かれたまま、夜の闇へと溶けていくような感覚に陥った。
(……えぇ。望むところですわ。――死ぬよりは、ずっとマシですもの)
夜会会場を後にする私たちの背後で、床に落ちたダイスが、カラカラと乾いた音を立てて転がった。
それがどんな目を示したのか、もはや確認する必要すらなかった。
ご拝読ありがとうございました。
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