第4話:平伏と氷の微笑
春の日差しが穏やかに降り注ぐ国境の広場は、かつてないほどの熱気に包まれていた。色とりどりの旗が風になびき、集まった群衆の期待に満ちたざわめきが、波のように広がっている。
祭壇の上に立つ私、エリーゼは、ゆっくりと大きく息を吸い込んだ。胸の奥にある魔力の源泉が、穏やかに、しかし力強く脈動しているのを感じる。かつては「呪い」として忌み嫌われ、隠し続けてきたこの力が、今は多くの人々を救う光として求められている。その事実が、震える私の心を支えていた。
「エリーゼ、準備はいいか?」
隣に立つルシアンが、私だけに聞こえる声で囁いた。彼の横顔は凛々しく、その瞳は私への深い信頼に満ちている。
「はい、殿下。……参りましょう」
私は頷き、祭壇の最前列へと歩み出た。
眼下には、見渡す限りの人、人、人。その視線が一斉に私に注がれる。恐怖はない。あるのは、これから果たすべき使命への高揚感だけだ。
私は両手を広げ、天に向かって掲げた。
目を閉じ、意識を深く沈めていく。大地の下を流れる水脈、空気を淀ませる瘴気、そして人々の心にある不安。それらすべてを感じ取り、私の内なる光で包み込んでいくイメージを描く。
(癒やしを。清めを。この地に、安寧を――)
祈りと共に、私の身体から黄金色の光が溢れ出した。
それは奔流となって広場全体を飲み込み、さらにその外側、荒れ果てた国境の森や枯れかけた農地へと広がっていく。
「おお……!」
「光が……暖かい!」
「見ろ! 枯れ木に花が!」
群衆から驚嘆の声が上がる。
光が触れた場所から、次々と緑が芽吹き、花が咲き乱れていく。濁っていた井戸の水は清らかな清水へと変わり、長年この地方を覆っていた重苦しい空気が、春風のように爽やかなものへと浄化されていった。
奇跡。
まさにその言葉通りの光景が、目の前で繰り広げられている。
私は全ての魔力を放出し終え、ゆっくりと目を開けた。心地よい疲労感と共に、達成感が胸を満たす。
広場は一瞬の静寂の後、爆発的な歓声に包まれた。
「聖女様万歳!」
「神聖皇国万歳!」
「ありがとうございます、聖女様!」
人々が涙を流し、私に向かって手を合わせている。その光景を見渡していた私は、最前列付近で奇妙な動きをする二つの影に気づいた。
「通りなさいよ! 私たちは聖女様の家族なのよ!」
「そうよ! どきなさい! エリーゼお姉様、私よ、マリアよ!」
警備兵を押しのけ、必死の形相で祭壇に駆け寄ろうとする派手なドレスの女たち。
ベアトリスとマリアだ。
彼女たちの顔は必死で、髪は振り乱れ、ドレスの裾は砂埃で汚れていた。かつて私をゴミのように見下ろしていたあの傲慢な貴婦人の姿は、どこにもない。
警備兵が槍を交差させ、彼女たちの行く手を阻む。
「下がりなさい! 聖女様に近づくことは許されん!」
「無礼者! 私を誰だと思っているの! フロンティア男爵夫人よ! そこの聖女は、私の娘なのよ!」
ベアトリスが金切り声を上げて暴れる。その醜態に、周囲の人々は冷ややかな視線を向けていたが、彼女たちは気づかない。
ルシアンが眉をひそめ、不快そうに呟いた。
「……来たか。浅ましい者たちが」
そして彼は、衛兵たちに目配せをした。衛兵たちは頷き、道を空ける。
突然拘束が解かれ、ベアトリスとマリアはつんのめるようにして前へ出た。彼女たちは顔を輝かせ、祭壇の階段を駆け上がってくる。
「ああ、エリーゼ! よかった、やっと会えたわ!」
「お姉様! ずっと探していたのよ!」
二人は私の目の前まで来ると、息を切らしながらも、猫なで声で話しかけてきた。その瞳の奥には、隠しきれない欲望の炎が渦巻いている。
「本当に心配したのよ。あの日、ちょっとした行き違いで家を出て行ってしまったでしょう? お母様、心労で倒れそうだったのよ」
ベアトリスが大げさに胸を押さえてみせる。
よくもまあ、あんな大嘘がつけるものだ。私は呆れるのを通り越して、感心すら覚えた。彼女の記憶の中では、私を冬の森へ放り出した事実は「ちょっとした行き違い」に変換されているらしい。
マリアも負けじと私の手を取ろうとした。私はすっと身を引いてそれを避ける。マリアの手は空を掴み、彼女は一瞬ムッとした表情を見せたが、すぐに媚びるような笑顔を貼り付けた。
「ねえお姉様、水臭いじゃない。私たち、家族でしょう? 今まで少し厳しくしすぎたかもしれないけれど、それは愛あればこそよ。ね? 一緒に家に帰りましょう?」
そして彼女は、チラチラと横に立つルシアンに流し目を送った。
「それに……そちらの殿下にご紹介いただきたいわ。妹のマリアですって。私、お姉様よりずっと気が利くし、殿下のお話相手にもなれると思うの」
彼女たちの魂胆は透けて見えた。
私を連れ戻して領地の危機を救わせ、同時にマリアを皇太子に近づけて玉の輿を狙う。自分たちの都合のいいように世界をねじ曲げようとする、その身勝手さ。
広場のざわめきが収まり、数千人の視線がこの茶番劇に注がれている。
私は深呼吸をし、表情筋を緩めた。
怒りはない。悲しみもない。ただ、目の前にいるこの人たちが、ひどくちっぽけで、哀れな存在に見えた。
私は扇子を口元に当て、優雅に、そして氷のように冷たく微笑んだ。
「……あら」
鈴を転がすような私の声が、静まり返った広場によく響いた。
「どちら様かと思いましたら。……お久しぶりですね、“お母様”」
私の言葉に、ベアトリスの顔がぱっと明るくなる。
「ええ、ええ! そうよ、お母様よ! 分かってくれたのね、エリーゼ!」
「いいえ」
私は短く、鋭く否定した。
その言葉の鋭さに、ベアトリスの笑顔が凍りつく。
「いいえ、とは……どういうこと?」
私は扇子を閉じ、パチリと音を立てた。そして、彼女たちの目を真っ直ぐに見据える。その瞳には、かつて彼女たちが私に向けたものと同じ、いや、それ以上の冷徹さを宿して。
「貴女方は、私に仰いましたわね。『血の繋がらない赤の他人に、家を継ぐ資格はない』と」
私の声は静かだったが、魔力に乗せて広場の隅々まで届くように響かせた。
「『薄汚い孤児を養う義務はない』と。そう言って、真冬の夜に私を屋敷から追い出されました。コートの一枚も持たせず、父の形見のペンダントを暖炉で燃やして」
群衆からどよめきが起こる。
「なんて酷い」「鬼だ」「聖女様になんてことを」という非難の声が、さざ波のように広がっていく。
ベアトリスの顔色が蒼白になった。
「そ、それは……言葉の綾というか、教育の一環で……」
「教育? 凍死させるのが教育ですか?」
私は一歩、前に踏み出した。その威圧感に、ベアトリスとマリアが後ずさる。
「私はあの日、死にかけました。ですが、そのおかげで真実の愛と、本当の居場所を見つけることができたのです。ですから、感謝はしておりますのよ」
私はルシアンを見上げ、微笑みかけた。彼は力強く頷き、私の肩を抱き寄せる。その姿を見せつけられ、マリアが悔しそうにハンカチを握りしめた。
「そ、そんな……でも、私たち育ててあげたじゃない! ご飯だってあげたし、屋根だって貸してあげたわ!」
マリアが喚く。
「ええ、使用人の残飯と、屋根裏の隙間風が吹く部屋をね。それに対する労働の対価は、十分に支払ったはずです。領地の経営、借金の返済、すべて私がやっておりましたから」
「だ、だから! それが必要なのよ!」
ベアトリスがなりふり構わず叫んだ。
「今、家が大変なの! 帳簿も読めないし、水も出ないし、借金取りが毎日来るのよ! 貴女が戻ってきて何とかしなさい! それが娘の義務でしょう!?」
その言葉を聞いた瞬間、群衆の同情は完全に消え失せ、激しい嫌悪と怒りへと変わった。自分の利益のために聖女を利用しようとする浅ましさが、白日の下に晒されたのだ。
私は冷ややかな瞳で、足元にすがりつこうとするベアトリスを見下ろした。
「お断りします」
「な……っ!?」
「先ほども申し上げましたが、貴女方が仰った通り、血の繋がらない私たちは『他人』です。他人の家の借金など、私には関係ございません」
「そ、そんな殺生な! 私たちが破産してもいいと言うの!?」
「ええ、構いませんわ」
私はにっこりと、花が咲くような笑顔で告げた。
「貴女方がどうなろうと、私には何の関係もありません。……どうぞ、ご勝手に野垂れ死んでくださいませ。私があの雪の日にそうなりかけたように」
その宣告は、死刑判決よりも重く、彼女たちに降り注いだ。
ベアトリスは腰を抜かし、その場にへたり込んだ。マリアは信じられないものを見る目で私を凝視している。
ルシアンが冷徹な声で衛兵に命じた。
「聞いただろう。この者たちは聖女の家族ではない。ただの詐欺師であり、我が国の聖女を殺害しようとした大罪人だ」
「ひっ!?」
「捕らえろ。国境の牢獄にぶち込んでおけ。後日、正式な裁判にかける。聖女への傷害未遂と殺人未遂、そして王族への虚偽申告だ。極刑は免れまい」
「い、嫌! 離して! 私たちは男爵夫人よ!」
「お母様! 助けて! エリーゼ、嘘でしょう!? ちょっとした冗談だったのよ!」
屈強な衛兵たちが二人を取り押さえる。豪華なドレスは泥にまみれ、丁寧にセットした髪は乱れ、見るも無惨な姿へと変わり果てていく。
「エリーゼ! お願い、許して! 私が悪かったわ! 家督も譲る! 何でもするからぁぁッ!」
ベアトリスの絶叫が響く。しかし、私の心は微塵も動かなかった。
「……遅すぎますわ、お義母様」
私は静かに呟いた。
「貴女方には何度も忠告しました。『後悔なさいませんように』と。……これは、貴女方が選んだ結果なのです」
引きずられていく二人の姿が見えなくなるまで、私は冷然と見送った。彼女たちの叫び声は、群衆の罵声とかき消されていった。
二度と、私の人生に関わることはないだろう。彼女たちは、自らの傲慢さと愚かさが招いた泥沼の中で、一生を終えることになるのだ。
ふいに、大きな手が私の頭を優しく撫でた。
見上げると、ルシアンが心配そうに私を覗き込んでいた。
「……辛くはなかったか?」
「いいえ」
私は首を横に振った。無理をしているわけではない。心に重くのしかかっていた鉛のような塊が、すっきりと消え失せたのを感じていた。
「不思議なくらい、清々しい気持ちです。これで本当に、私は自由になれました」
「そうか」
ルシアンは安堵したように微笑み、私の腰に手を回した。
「では、行こうか。エリーゼ。私たちの国へ」
「はい、ルシアン様」
私たちは寄り添い、歓声が降り注ぐ中を歩き出した。
振り返ることはない。
背後にあるのは、清算された過去と、愚かな者たちの末路だけ。
顔を上げれば、どこまでも広がる青空と、明るい未来が待っている。
私は隣国の聖女として、そして一人の愛される女性として、新しい人生の一歩を踏み出したのだった。
(さようなら、お義母様、マリア。……どうぞ、泥の中で永遠に後悔し続けてくださいね)
心の中で最後の別れを告げ、私はルシアンの腕にぎゅっとしがみついた。その温もりは、かつての凍えるような日々を完全に溶かし去り、私を幸せな未来へと導いてくれる確かな光だった。




