第3話:崩壊する男爵家と最後の希望
季節は巡り、春の兆しが見え始めた頃。フロンティア男爵領の屋敷は、かつてないほどの混乱の渦中にあった。
「どうしてこんなことになっているのよ! お母様、私の新しいドレスはまだ届かないの!?」
屋敷中に響き渡る金切り声。主は、義妹のマリアだ。彼女はリビングの長椅子に寝そべり、不満げに足をばたつかせている。
義母のベアトリスは、頭を抱えてテーブルに突っ伏していた。その周囲には、督促状の山が散乱している。
「少し静かになさい、マリア。今、それどころじゃないのよ……」
ベアトリスの声には、以前のような覇気がない。目の下には濃い隈ができ、自慢だった美しい肌も心なしか荒れているように見える。
エリーゼを追放してから半年。最初のうちは順調だった。邪魔者はいなくなり、屋敷の中は自分たちだけの楽園になったと浮かれていた。しかし、その「楽園」は砂上の楼閣に過ぎなかったのだ。
事態が急変したのは、追放からわずか一ヶ月後のことだった。
まず、領内の用水路が突如として機能を停止した。原因不明の水位低下により、農地への供給がストップ。小作人たちが慌てて屋敷に報告に来たが、ベアトリスには何のことだかさっぱり分からなかった。
「水が出ない? そんなの、川から汲めばいいじゃない!」
そう怒鳴り返したが、実はその用水路は、エリーゼが自身の魔力を込めた魔石を使って水流を制御していたものだったのだ。彼女がいなくなったことで魔石の力が切れ、高度な揚水システムが動かなくなっていたのである。
次に起きたのは、商人たちからの取引停止通告だった。
フロンティア男爵領の特産品である香草は、適切な時期に収穫し、特殊な乾燥処理を施さなければ商品価値がない。その複雑な工程管理と品質チェックを行っていたのは、すべてエリーゼだった。
彼女の指示書がなくなった現場は混乱し、収穫時期を逃した香草は腐り、乾燥に失敗してカビが生えた。結果、粗悪品を出荷してしまい、長年取引していた大手商会から契約を打ち切られてしまったのだ。
「なんで……なんで上手くいかないのよ! あの娘がいた時は、何も問題なかったのに!」
ベアトリスは髪を振り乱して叫ぶ。
エリーゼがいなくなって初めて、彼女がどれだけ膨大な仕事を一人でこなし、この家を支えていたかを思い知らされた。帳簿を見ても、数字の羅列にしか見えない。エリーゼ独自の暗号のようなメモ書きが何を意味するのか、誰にも解読できなかった。
資産は底をつき始めていた。
これまでの借金は、領地の収益で何とか返済していたが、収入が途絶えた今、借金取りが日参するようになっていた。
使用人たちへの給金も滞り、一人、また一人と屋敷を去っていった。残っているのは、行く当てのない年老いた執事と、数人のメイドだけだ。
「ねえお母様、今度の夜会には着ていくドレスがないわよ! どうするの!」
マリアが無神経に喚き散らす。彼女には、家の危機的状況など理解できていない。いや、理解しようとしていないのだ。「貴族なのだから、なんとかなる」と盲目的に信じている。
「うるさいわね! ドレスどころか、明日のパンも怪しいのよ!」
ついにベアトリスが爆発した。マリアは驚いて目を見開く。
「え……? 嘘でしょ? 私たち、貧乏になるの?」
「なりかけてるのよ! それもこれも、あの役立たずのせいよ! 出て行く前にちゃんと引き継ぎもしないで……あの恩知らず!」
自分たちが追い出した事実を棚に上げ、すべての責任をエリーゼになすりつける。そうでもしなければ、自分たちの無能さを直視して心が壊れてしまいそうだったからだ。
そんな時だった。執事が一枚の手紙を盆に乗せて入ってきた。
「奥様、王都の知人から手紙が届いております」
「手紙? 借金の取り立てなら燃やしておしまい!」
「いえ、そうではないようです。……隣国の聖女様に関する情報のようで」
「聖女?」
ベアトリスは訝しげに眉をひそめつつ、乱暴に手紙をひったくった。封蝋を破り、中身に目を通す。読み進めるうちに、彼女の表情が劇的に変化していった。
苛立ちから驚きへ。そして、卑しい欲望に満ちた笑みへと。
「……マリア! 聞きなさい! 起死回生のチャンスよ!」
「え? 何?」
「隣国の神聖皇国に、新しい『大聖女』が現れたんですって。なんでも、数百年ぶりの奇跡の力を持つ方で、触れるだけで病を治し、荒れ地を豊穣の地に変えるとか」
「ふーん。それが私たちと何の関係があるの?」
マリアは興味なさげに爪をいじっている。
「ここからが重要なのよ。その聖女様が、両国の友好の証として、近日中に国境の村を視察にいらっしゃるそうなの。そこで大規模な施しの儀式を行うと」
ベアトリスの目がギラギラと輝き出した。
「国境の村なら、ここから馬車で半日よ。私たちもそこへ行くの」
「えー、あんな田舎臭いところに行きたくないわよ」
「バカね! 聖女様に謁見するのよ! 考えてもご覧なさい。聖女様は慈悲深いお方のはず。私たちが没落寸前の男爵家だと知れば、きっと憐れんで救いの手を差し伸べてくださるわ!」
ベアトリスの脳内で、勝手な妄想が膨らんでいく。
聖女にすがりつき、涙ながらに窮状を訴えれば、莫大な支援金がもらえるかもしれない。いや、それどころか、聖女の力で領地の問題を一瞬で解決してもらえるかもしれない。
さらに、ベアトリスはマリアの顔をじろじろと見つめた。
「それに、聖女様には神聖皇国の皇太子殿下が同行されるそうよ。独身で、とびきりの美男子だという噂だわ」
その言葉に、マリアが弾かれたように顔を上げた。
「皇太子殿下!? 美男子!?」
「ええ。もし、貴女がその殿下の目に留まったら……? 神聖皇国の皇太子妃、あるいは側室になれるかもしれないのよ!」
マリアの瞳に、俗っぽい野心の色が宿る。
「私、行くわ! だって私、可愛いもの。田舎の聖女なんかよりずっと魅力的だし、殿下だって私を見ればイチコロよ!」
「そうよ、その意気よ! 私たちの血筋は正当な男爵家のもの。どこの馬の骨か分からない聖女とは格が違うわ。きっと話も合うはずよ」
二人は顔を見合わせて笑い合った。
根拠のない自信。歪んだ選民思想。
彼女たちは本気で信じていたのだ。自分たちが特別であり、世界は自分たちを中心に回るべきだと。
「善は急げよ。残っている宝石を売って、新しいドレスを仕立てさせましょう。最高に見栄えのいいやつをね」
「やったぁ! お母様大好き!」
こうして、破滅に向かっているとは露知らず、愚かな母娘は最後の賭けに出る準備を始めたのだった。
一方その頃、国境を挟んだ神聖皇国の離宮では、静かな時間が流れていた。
エリーゼは窓辺に立ち、北の空を眺めていた。その表情は凪いだ湖面のように穏やかだが、瞳の奥には冷たい光が宿っている。
「エリーゼ、何を考えている?」
背後から声をかけられ、振り返るとルシアンが立っていた。手には二通の書状を持っている。
「ルシアン様。……いいえ、少し昔のことを思い出していただけです」
「そうか。……あの国境視察の件だが、予定通り決行されることになった」
ルシアンは書状の一通をテーブルに置いた。
「我が国の聖女として、初めての公式外交だ。近隣諸国への影響力行使という側面もあるが、主な目的は国境地帯の浄化だ。あそこは昔から瘴気が溜まりやすい」
「はい。承知しております。私の力で、少しでも土地を清められるなら本望です」
「それと……もう一つの報告がある」
ルシアンは少し言いにくそうに、もう一通の書状を開いた。それは諜報員からの報告書のようだった。
「フロンティア男爵家の動向についてだ」
エリーゼの眉がぴくりと動く。
「……何かありましたか?」
「ああ。どうやら、かなり追い詰められているらしい。領地経営は破綻寸前、借金まみれで、使用人もほとんど逃げ出したそうだ。……貴女の予想通りだな」
エリーゼはふっと小さく笑った。それは自嘲のような、あるいは哀れみのような、複雑な響きを含んでいた。
「当然ですわ。あの人たちは、飾ることしか能がありませんから。土台が腐っているのに、屋根に金を貼り付けても家は建ちません」
「それで、だ。彼女たちが今回の国境視察の情報を聞きつけ、接触を図ろうとしているという情報が入った」
ルシアンの言葉に、エリーゼの目がすっと細められる。
「接触、ですか? 私に?」
「正確には『新しく現れた聖女』に、だ。彼女たちは、その聖女が貴女だとは夢にも思っていないらしい。聖女に取り入って支援を引き出し、あわよくば娘を私に売り込もうと画策しているようだ」
「……呆れました。どこまで浅ましいのでしょう」
エリーゼはため息をついた。怒りよりも、その懲りない図太さに感心すら覚える。自分たちが捨てた相手が、自分たちを救う唯一の希望である聖女だとは知らず、のこのこと出向いてくるというのか。
「どうする? 彼女たちを事前に排除することもできるが」
ルシアンは冷徹な眼差しで提案した。彼にとって、エリーゼを傷つけた者たちは害虫と同義だ。
「いいえ」
エリーゼは静かに首を横に振った。
「会わせていただけますか? 彼女たちに」
「……辛くはないか?」
「いいえ。むしろ、好都合です。彼女たちには、現実を見てもらわなければなりません。自分たちが何を捨て、何を失ったのかを」
エリーゼは窓ガラスに映る自分の姿を見た。
そこには、かつての薄汚れた灰かぶり姫の面影はない。最高級のシルクのドレスを纏い、髪には宝石が散りばめられ、肌は透き通るように白い。そして何より、全身から溢れる聖なるオーラが、彼女を高貴な存在へと押し上げていた。
「『お母様』と『マリア』。最後に会ったときは、私を雪の中に突き飛ばして笑っていました。……今度は、私が笑う番です」
その言葉は冷たく、鋭い刃物のようだった。
ルシアンは彼女の決意を感じ取り、深く頷いた。
「分かった。貴女の望むようにしよう。私も全力で貴女を支える。……彼女たちには、相応の『絶望』を与えてやろう」
数日後。
国境の村は、かつてない賑わいを見せていた。
神聖皇国の聖女が来訪するというニュースに、近隣の村々だけでなく、遠方の貴族たちもこぞって集まっていたのだ。広場には巨大な祭壇が設けられ、色とりどりの旗がはためいている。
その群衆の中に、場違いに派手な馬車が到着した。
フロンティア男爵家の紋章が入ったその馬車から降りてきたのは、過剰なまでに着飾ったベアトリスとマリアだった。
「見て、お母様! すごい人だかりよ!」
マリアは興奮した様子で周囲を見回す。彼女の着ているピンク色のドレスは、明らかに流行遅れで、しかもサイズが微妙に合っていない。急ごしらえで仕立て直したのだろう。
「ええ、そうね。でも、私たちは特別席よ。男爵家の人間なのだから、最前列に行くわよ」
ベアトリスはふんぞり返り、人混みをかき分けて進もうとする。
「ちょっと、そこをどきなさい! 私たちはフロンティア男爵夫人よ!」
「道を開けなさい! 聖女様に会いに来たのよ!」
周囲の人々は眉をひそめ、白い目で彼女たちを見ていたが、二人は気にも留めない。「嫉妬されているのね」くらいにしか思っていないのだ。
無理やり最前列近くまで割り込んだ二人は、祭壇を見上げて息を荒げた。
「はぁ、はぁ……これでよし。ここなら聖女様も私たちに気づくはずよ」
「ねえ、皇太子殿下はまだ? 早くお顔を拝見したいわ」
マリアが化粧を直しながらソワソワしている。
やがて、ファンファーレが高らかに鳴り響いた。
群衆が一斉に静まり返り、祭壇の奥から厳かな行列が現れる。
白銀の鎧を纏った近衛騎士たちに守られ、一人の青年と、ヴェールで顔を隠した女性が姿を現した。
「きゃあ! あの人が皇太子殿下!? 素敵すぎるわ!」
マリアが黄色い声を上げる。ルシアンの冷ややかな美貌は、遠目に見ても圧倒的だった。
「そして、あの方が聖女様ね……」
ベアトリスはゴクリと唾を飲み込んだ。
ヴェール越しでも分かる、その神々しい佇まい。歩くたびに、足元から光の粒子が舞い上がるような錯覚さえ覚える。
ルシアンが祭壇の中央に立ち、よく通る声で宣言した。
「神聖皇国皇太子、ルシアンである。本日、我が国の至宝、浄化の聖女エリーゼを紹介する」
「……え?」
ベアトリスとマリアの動きが止まった。
今、何と言った?
エリーゼ?
まさか。いや、そんなはずはない。ありふれた名前だ。たまたま同じ名前なだけだろう。
二人は顔を見合わせ、引きつった笑みを浮かべた。
「ぐ、偶然よね? あの孤児と同じ名前なんて、不吉だわ」
「そうよお母様。あんな薄汚い女が、こんな場所にいるわけないもの」
しかし、その「まさか」は、次の瞬間に現実となる。
ルシアンの手によって、聖女の顔を覆っていたヴェールがゆっくりと持ち上げられたのだ。
露わになったその素顔。
春の日差しを受けて輝くプラチナブロンドの髪。
知性と気品を湛えた、深い海のような蒼い瞳。
そして、かつて自分たちが毎日罵り、見下していたあの顔立ち。
ただし、その表情は以前のような怯えたものではなく、女神のように美しく、そして氷のように冷たい微笑みを浮かべていた。
「ごきげんよう、皆様」
鈴を転がすような声が広場に響く。
ベアトリスとマリアは、まるで雷に打たれたように硬直した。
「う……嘘……」
「な、なんで……なんであいつが……!」
口をパクパクさせ、呼吸すら忘れて見つめる二人。
その視線に気づいたのか、祭壇の上のエリーゼが、ゆっくりと視線をこちらに向けた。
その瞳と目が合った瞬間、ベアトリスは背筋に氷柱を突き刺されたような寒気を感じた。
彼女は見ている。
私たちを。
そして、笑っている。
その笑顔は、慈愛に満ちた聖女のものではなく、断罪を下す裁判官のものだった。
運命の歯車が、音を立てて噛み合った瞬間だった。
彼女たちの破滅の物語は、ここからクライマックスへと加速していく。




