多賀谷の姫編(十)
伏見の義宣のもとには、次々と領内の城の受け渡しについての報告が入った。ついに太田城も水戸城も徳川に受け渡され、常陸は徳川のものとなってしまった。
家康からの沙汰がないまま、七月も暮れようとしている。義宣は一月半以上、伏見で人質のような暮らしを続けていた。常陸の受け渡しも済んだのだから、そろそろ家康から新領地に関する朱印状が渡されてもいいはずだ。せめて、石高だけでも知らせてもらいたい。石高が分からなければ、何をするにも目安がなくて困る。
秋田を知るために和田昭為らを派遣したのはいいが、朱印状をもらえなければ先発隊を秋田に留めたまま、義宣はなかなか秋田へ下向することができないのかもしれない。そう思っていると、家康から義宣に書状が送られた。義宣が待ち続けていた新領地に関する朱印状だろう。
書状には「出羽国の内秋田、仙北両所進め置き候。全く御知行有るべく候」とあり、家康の花押も押されていた。これで、正式に新領地は出羽のうち、秋田と仙北と決まったが、肝心の石高はどこにも記されていない。家康に石高はどうなるのか尋ねたかったが、家康が教えようとしない以上、無理に尋ねるのは危険な気もする。まずは正式に新領地が決まっただけでもよしとしなければなるまい。義宣は家康の書状をありがたく受け取った。
新領地が決まり、家康から秋田下向の許しも出たため、伏見屋敷は出立の準備で忙しくなった。出立の準備を取り仕切っているのは、政光と憲忠、政景の兄弟だった。特に政光と政景は算用に長けているため、秋田下向のための費用計算や荷物の運送に関しては任せていても安心できる。
秋田へ移ってからは、国作りを初めから行わなければならない。その時に義宣の役に立つのは、古老の家臣たちよりも、新たな知識と才能を身につけている政光たちだろう。長年佐竹家が栄光を誇った常陸を離れることは耐えがたい苦痛だったが、一つだけ利点があった。古いしがらみから離れ、新たな土地で新たな才能を持った者たちを存分に働かせることができる。政光、政景、憲忠らの活躍の場は秋田に大きく広がっているのだ。今までは目立たせることのできなかった浪人出身の側近たちの才能を開花させられることだけが、義宣の楽しみだった。政光らもそのことを心得ているようで、表情はやる気に満ちている。
琳も妻として、母とともに奥の女たちを取り仕切っている。今までは、すべて母に任せきりで、琳は何もしていなかったようだが、少しずつ琳も奥の仕事に関わろうとしているらしい。最近では、盛重や貞隆の改易で落ち込んでいる母を、琳が慰めていることもあるようで、琳が少しずつ変わりつつあることは喜ばしいと思った。
だが、変わりつつ琳とは違い、昌は奥でもほとんど見かけることがなくなった。琳のそばには、昌以外の侍女がついていることの方が多くなったような気がする。琳も昌のことを心配していた。
義宣が琳のもとを訪れると、久しぶりに昌が琳のそばに控えていた。だが、琳の目には涙が浮かんでいる。何があったのだろうか。
昌は義宣に気づくと、畳に手をついて頭を下げた。
「お屋形様、どうかわたくしに永のお暇をくださいますよう、お願い申しあげます」
「突然、どうしたというのだ」
「御台様にもお願い申し上げているのです。わたくしは、江戸へはお供いたしませぬ」
「お昌、そんなこと言わないで。一緒に江戸へ行きましょう。」
琳は今まで昌を頼りにして過ごしてきた。昌も琳を主としてだけではなく、妹のように娘のように思い、仕えていたはずだ。自分の主は琳以外にいないのだと、義宣に言い放ったこともある。その昌が、なぜ琳のそばから離れようとしているのだ。
「わたくしは御台様のお邪魔になるだけだと、分かったのです。御台様はお屋形様とともに生きることをお選びになりました。しかし、わたくしはそれを阻もうとした愚かな女にございます。御台様のおそばにはおられません」
「そんなことはないわ。いつも、お昌は私のことを思ってくれていたじゃない。お昌がいなければ、私どうしていいか分からない」
「いいえ、御台様。御台様は昌がおらずとも大丈夫です。昌がこれ以上、御台様のおそばにいては、かえってご迷惑になるだけ」
琳は昌の手を握り、必死に引きとめようとしているが、昌の意志は変わらないようだった。義宣には、何となく昌の気持ちが分かるような気がした。琳と昌は、今まで互いに互いのことだけを頼りにし、大切にし合っていたのだと思う。いつまでもそのままではいられない。昌がそばにいる限り、琳は変われない。そして、琳以上に互いだけを大切にし合っていたのは、昌だったのだ。昌にとっては、琳がすべてだった。だが、琳は昌だけがすべてではない。その違いに、昌は気づいたのだろう。
「昌、お前は暇を出されたら、どうするつもりだ?」
「尼になり、亡き徳寿丸様、多賀谷家の皆様の菩提を弔い、生きて参りたいと思っております」
昌は深々と頭を下げた。琳は呆然と昌を見つめている。琳の肩に手を置くと、琳は義宣を見上げ、しばらく考えた後に小さく頷いた。
「分かりました、お昌。あなたの願いどおりにいたしましょう。永の暇を与えます」
「ありがとうございます」
「お昌、私はお昌が大好き。離れても、ずっとお昌を忘れない。お昌がいてくれたから、今の私があるの。お昌、お昌、今まで、ありがとうございます」
「御台様、昌の方こそ、御台様のことを決して忘れませぬ」
琳と昌は手を取り合い、涙を流した。その翌日、昌は伏見屋敷を去り、昌が去った次の日には、義宣も秋田へ行くために伏見屋敷を出立した。琳も江戸の正洞院へ入るために、義宣とともに出立した。義宣の伏見出立は父にも知らせてあるため、父は常陸の家臣たちを連れて秋田へ向かっただろう。恐らく、祥と阿南も父とともに秋田へ向かうはずだ。八重の墓も秋田へ移すように父に頼んである。
江戸に到着し、徳川秀忠に挨拶をした際に、盛重と貞隆にも替地を与えてもらえないかと頼んでみたが、それはできないと断られてしまった。盛重、貞隆本人も秀忠のもとへ嘆願にやって来たそうだが、やはり秀忠は無理だと断っていたようだ。だが、母と琳を正洞院に置きたいという願いは、あっさりと受け入れられた。人質を置きたいと願い出ているのだから、秀忠に断る理由はないだろう。
秀忠との謁見を終え、義宣も正洞院に入った。琳は昌が去ってから、少しの間は落ち込んでいたが、今は立ち直っているように見える。江戸までの道中、琳は昌が暇を願った理由を、琳のことを思ってのことだったのだ、と思ったらしい。だからこそ、これからは昌に恥ずかしくないよう、生きて行かなければならない、と決意していた。その決意通り、正洞院に入った琳は、母を支えながら女たちに適切な指示を与えている。昌が琳のもとを去ったのは、琳のために良かったことなのかもしれない。
琳の様子を見ていると、政光が険しい顔をして義宣のもとへやってきた。政光の知らせによると、七月中に佐竹家旧臣である車丹波が一揆を起こしたらしい。徳川に露見し、磔に処せられたそうだ。
「殿、その一揆によって、殿のお立場が危うくなるということはあるでしょうか?」
「それはないだろう。もし、俺の立場が危うくなるのならば、とっくに沙汰があるはずだ」
「しかし、内府様はこれまで殿へのお沙汰をなかなか下されず、今も石高は明らかになっておりませぬ。まさか、一揆が原因では?」
「考えすぎだ。内府様には内府様のお考えがおありなのだろう。俺はむしろ、車丹波らの一揆に快哉を叫びたいほどだな。俺にはできないことをやってくれた」
義宣は本心でそう思っていた。車丹波のおかげで、天下に佐竹の誇りを少しは示すことができたはずだ。だが、政光は浮かぬ顔のままだった。
「内膳、何か気掛りでもあるのか?」
「此度の一揆、車丹波に我が妻の父、馬場直政も加担しております。その一揆のせいで殿が常陸にお入りになることがかなわなくなったかと思うと、私は申し訳なくて」
「そんなことを気にしていたのか。俺はもともと、常陸には入らずに秋田へ向かうつもりだった」
政光は一揆が起こったせいで、徳川に遠慮をして義宣が常陸に入れないのではないか、と思っていたようだが、義宣は常陸に入るつもりはなかった。常陸に入って、家康に何か悪い印象を与えては困るし、もう義宣の国ではない常陸を見るのは辛かった。できれば、もう一度常陸を見たいと思う気持ちももちろんあるが、それは佐竹家の常陸であって、徳川の常陸ではない。
「これは、差し出たことを申し上げました」
「気にするな。ああ、お前が一揆に加担していたからと言って、お前に何か処分を与えるということもないぞ。お前はこれから俺の役に立ってもらわなければ困る。秋田では、内膳の才が頼りになるだろう。期待している」
「ありがたきお言葉にございます」
政光は嬉しかったのか、その声は緊張と興奮が入り混じっているようだった。いつも冷静な政光には珍しい。
政光が去ってから、義宣は祥とかわした約束を思い出した。常陸に帰って、二人で一緒に水戸の梅を見ると約束した。その約束を果たすことは、もうかなわない。
だが、秋田にも梅の花は咲くだろう。桜も咲くはずだ。秋田の梅を、祥と二人で見たい。水戸の梅も秋田の梅も、梅に変わりはないはずだ。そう思うしかなかった。
義宣は常陸に入ることなく、下野から須賀川を通って秋田を目指した。




