多賀谷の姫編(九)
替地は出羽秋田である、と徳川家から使者が訪れ、それだけ伝えて帰って行った。秋田と言われても、秋田のどのあたりなのか、どれほどの石高が望めるのか、まったく分からない。確か、秋田の大名である秋田実季は十万石も領していなかったはずだ。義宣が秋田へ入るということは、秋田実季も改易となったということなのだろう。
「秋田とはどのようなところなのだろうな、まったく想像できん」
「私も、まったく分かりません。秋田はどこにあるのですか?」
義宣がため息をつくと、琳は首を傾げて、秋田がどこにあるのか考えて出したようだった。義宣も、秋田は山形よりも更に北にあるということ、極寒の地であること以外は、ほとんど知らない。
「常陸よりも会津よりも、ずっと北の国だ。ああ、そういえば秋田の領主は、確か杉の木を亡き太閤に献上していたはずだから、杉は多いのだろうな」
「そんなに北の国でしたら、人が住める地はあるのでしょうか? あ、いえ、もちろん、人が住める地だから、今まで領主様がいらっしゃったのでしょうけど。会津よりもずっと北だと聞いただけで、一年の半分は雪に埋もれてしまいそうに思えます」
「一年の半分とまではいかないだろうが、それに近いかもな。それに、改易されて秋田に入るのだから、内府様は俺に住みやすい土地は与えないだろう。秋田の中でも、杉の木も生えないような地を与えられるのかもしれない」
未だ見ぬ秋田を想像すると、一面雪に覆われた土地しか思い浮かばない。義宣の口からは、ため息しか漏れなかった。
「では、大御台様や私の持ち物も処分した方がよろしいですね」
「それは、どうだろうか。琳も母上も秋田ではなく、今後は江戸で暮らすことになる。苦労をかけるが、今度は内府様に、妻子を人質として差し出さなくてはならないんだ」
佐竹家に人質としてやって来て、秀吉の人質となり、今度は家康の人質となる。琳の生きてきた時は、ほとんどが人質として過ごしてきたものだ。申し訳ない気持ちになるが、琳は小さく微笑んで首を振った。
「伏見も江戸も変わりません。どうか、お気になさらないでください」
そう言われると、少しほっとする。今更になって、義宣は琳の気持ちが少しだけ分かるようになった。義宣は人質として伏見に留め置かれているようなものだ。常陸の明け渡しが終わるまで、家臣たちが反乱を起こさないよう、義宣を伏見に置いている。家康は義宣を人質とすることを狙って、わざわざ上洛中に国替えの処分を言い渡したのだろう。少しでも長く伏見に留めるために、替地や石高もなかなかはっきりさせないのだ。
国許にいる家臣が家康に刃向えば、主である義宣を殺す。常陸の家臣たちを黙らせる最上の方法は、これ以外にないだろう。義宣には男子がいない。義宣が死ねば、そこで佐竹家は断絶となる。いくら剛の者が多いと言っても、それが分からないほど愚かな者はいないはずだ。
伏見に留め置かれている間、義宣は何度も寺社に足を運び、神仏に祈った。義宣には神仏にすがるしかなかったのだ。特に氏神である八幡神社には祈祷文を納め、加護があることを祈った。
まだ義宣は家康から国替えに関する朱印状をもらっていないため、はやく朱印状が下されるように。義宣は若輩であり、石田三成の邪見の指南に従ってしまい、石高を大幅に減らされてしまったため、どうか冥慮の加護があるように。家臣たちは嘆き悲しんでおり、まるで配流の罪を申しつけられたような気持ちになっているため、慈悲があるように。はやく義宣に一国安堵の命を下してほしい。当家は貴賤を問わずそのことだけを一心に願っているため、この願いを聞き入れてほしい。
八幡大菩薩の加護があることを、義宣は必死に祈り続けた。だが、六月に入り水戸城の明け渡しが無事に終わったと和田昭為から知らせが来ても、七月に入ってからも、義宣が待ち焦がれる家康からの新領地に関する朱印状は、与えられる気配すらなかった。
国替えという知らせが義宣から届いてから、家臣たちは領内の城の明け渡しのために忙殺されていた。特に家老の和田昭為は、義宣の命に従い居城である水戸城を明け渡すために、ほかの家臣たちよりも忙しいようだ。
弓と鉄砲がすべて江戸へ送るために南郷に集められ、無用な唐絵、墨蹟は焼かれていく。義重の居城である太田城も、次第に物が少なくなっていき、今ではすっかり寂しくなってしまっている。
義重が、その父が、祖父が、祖先が築きあげてきた常陸が失われようとしている。身を切られる思いで、義重は明け渡しの作業を監督していた。だが、義宣を責めるつもりはない。誰にも先のことなど分からなかったのだ。もしかしたら、家康は三成に破れていたかもしれない。その時は、義宣の判断が家を救っていたのだ。
秋田へ国替えとなったのは、誰が悪いのでもない。今まで積み重ねてきた小さな出来事が、その結果を導き出しただけだ。
家臣の中には、義宣の判断が誤りだったと思っている者もいるだろう。家康に味方するように主張していた、川井忠遠らは不満を抱いているのかもしれない。だが、誰もそのことを口に出さなかったし、国替えの準備に手を抜いてはいない。それは、義宣が人質のような形で伏見に置かれているからだ。義宣を害させない、という思いの方が国替えに対する不満よりも大きいため、誰も何も言わない。家康はこれで佐竹家の動きを封じたつもりなのかもしれないが、かえって家中の結束は強まっている。
領内のことは和田に任せ、義重は江戸の徳川秀忠のもとへ向かった。義宣の国替えはどうしようもないこととして、はやく新領地の朱印状を与えてほしい、盛重、貞隆にもせめて替地を与えてほしい、と嘆願するためだ。だが、秀忠は義重の訴えを聞いても、家康の決めた決定を覆すことはできない、と言った。義重が床に額をこすりつけ、涙を流して頼み込んでも、秀忠が聞き入れることはなかった。
鬼義重、坂東太郎と東国で名を馳せた義重が、我が子のために義宣よりも年下の若造に頭を下げて、涙を流している。この様を義重が滅ぼしてきた家の者が見たら、腹を抱えて笑うだろう。秀忠も、義重の必死さを腹の中では笑っているのかもしれない。笑われても構わない。義宣も、盛重も、貞隆も義重の可愛い息子だ。義重が頭を下げてどうにかなるのならば、いくらでも頭を下げるし、腹を切ってもいい。
結局、義重の江戸行きは無駄足に終わってしまった。義宣から、盛重は佐竹宗家の家臣になると知らせがあったが、貞隆は浪人するつもりらしい。浪人暮らしを決めた貞隆のことを思うと、義重の目には涙が浮かびそうになる。義重でさえこうなのだから、伏見にいる芳は毎日、息子たちの行く末を案じて泣き暮らしていることだろう。
義重が江戸へ行っている間にも城の明け渡しの準備は進んでおり、もう義重の監督は不要に思えた。水戸城や太田城を明け渡すところなど、見たくない。義重は一足早く秋田へ向かうため出立した。岩瀬の姫と二階堂後室も秋田へ向かうために、今は須賀川に留まっている。
義重が八槻に留まっていると、秋田へ下向する家臣たちが集まってきた。水戸城の明け渡しを終え、常陸を去って来たのだ。だが、集まった家臣はほとんどが嫡男で、老父母や幼い弟妹は連れていなかった。まだ石高は明らかになっていないが、常陸の半分も望めない新領地に、多くの家臣は連れていけないのだ。ほとんどの家は嫡男だけが秋田へ下向し、ほかの家族は常陸に残って百姓になるのだそうだ。
義宣の命で、常陸を明け渡した和田、川井らは先発して秋田に下向し、秋田の様子を義宣と義重に知らせることになった。義重は八槻で義宣からの知らせと、和田たちの報告を待っている。
八槻に留まっている義重のもとに、常陸で車丹波が一揆を起こしたと知らせが入った。車丹波は義重が勘当した佐竹家の旧臣である。車丹波にその息子、譜代家臣だった馬場政直とその息子らが加わり、水戸城の奪取を企てたらしい。車丹波らは主家の仇を報じないわけにはいかない、と家康が死んだと偽りの噂を流し、水戸城を奪い返し、徳川家に抵抗しようとしていた。だが、その企ては徳川に知られてしまい、計画を企てた者たちは磔に処せられた。
車丹波は磔に処せられると決まっても、佐竹が一矢も放たずに出羽の僻地に移るなど恥辱の限りであり、自分は佐竹の武門を立てるために、義重の諌めを聞かずに徳川の大軍と一戦交えようとしたのだから、恥じることはない、と声高に叫んだという。
車丹波らの話を聞き、義重はそれほどまでに佐竹家を思ってくれる家臣がいたのだと、感涙にむせぶとともに、車丹波のような義士に申し訳ない気持ちになった。車丹波らのおかげで、佐竹の武門は立った。佐竹にも剛の者がいるのだと天下に示すことができた。だが、義重も義宣も佐竹のために命を落とした義士のために報いることができない。車丹波らは家康に背いた逆賊なのだ。
義宣も伏見でこの知らせを聞き、心を痛めているだろう。水戸の明け渡しを終えてから一揆を起こしたところから、車丹波らが計画的に一揆を実行したのだと分かる。
この一揆をもって、常陸の佐竹家は終わったのだ。常陸はもはや義重の国ではなくなった。常陸で起こった一揆も、すべて徳川家が処分する。義重はもう何もできない。どうしようもなく辛く、悲しく、寂しかった。




