多賀谷の姫編(六)
義宣は毎日、日が暮れると琳のもとへ足を運んでいる。何を話しているのかは分からないが、琳はいつも義宣に怯えていて、昌には義宣の渡りを恐れているようにしか見えなかった。義宣が来る頃になると、今日は義宣が来るのだろうか、と昌に聞くのだ。きっと、本当は会いたくないに違いない。だが、義宣はそのことにまったく気づいていないようで、毎日琳に会いに来る。
義宣は何も分かっていない。義宣という存在が琳を苦しめるのだ。昌が手打ち覚悟で琳の苦しみを訴えたというのに、少しも理解されなかったらしい。
琳のために、昌はここ数日、義宣の渡りを断っていた。義宣は琳に会わせろ、としつこく粘るが、琳の体調が悪いと言い張れば、諦めて帰って行く。所詮、義宣が琳のことを思う気持ちというのは、その程度のものなのだ。昌が嘘をついていると見抜いているくせに、諦めて帰る。真に琳のことを思うのならば、昌を押しのけてでも会いに来るはずだ。
琳は義宣の渡りがないことに首を傾げていた。義宣は最近なぜ来ないのか、と言っていた。琳のことを思って義宣を追い返していたのだが、かえって琳は不興を買ったのではないか、と心配しているのかもしれない。琳には、義宣は表の政務が忙しいのだろう、と伝えた。だが、本当は毎日、義宣は琳に会いに来ている。懲りない男だ。
今夜も昌は義宣を追い返した。義宣が立ち去って、ほっと息をつくと、奥から昌を呼ぶ琳の声が聞こえた。
「いかがなさいました、御台様?」
「お昌、今、お屋形様のお声が聞こえたわ。お屋形様がいらっしゃったの?」
「いいえ、誰もここへはいらっしゃいませぬ」
琳を安心させようと隣に座り、肩を抱いた。だが、琳はいぶかしげに眉を寄せ、じっと昌を見つめてきた。
「嘘。聞こえたの。確かにお屋形様のお声だった」
「御台様、気のせいにございましょう」
「いいえ、気のせいではないわ」
琳は義宣のことを恐れている。その恐れが琳を敏感に反応させるのだろう。義宣の存在は琳の心を痛める。だから、琳を義宣から守るために、昌は義宣がやってきても襖を固く閉ざし、追い返すのだ。
しばらく前、二年ぶりに義宣が琳の前へ現れた時も、琳は心を痛めて、泣き崩れていた。あのようなことがあってはならない。あれからも、義宣と会うたびに琳は怯えていたに違いないのだ。
肩を抱いた手を背中に回し、幼いころによくしたように撫でようとすると、琳は昌の腕の中から抜け出した。驚いて琳を見つめると、琳の視線とぶつかった。琳が昌の腕から抜け出すのは、初めてのことだ。
「お昌、私、お屋形様にお会いしたいの」
その一言に、頭を殴られたような衝撃を受けた。琳は今なんと言った。義宣に会いたい、と言ったのではないか。信じられない。何を言っているのだ。
「御台様、御台様はお屋形様を恐れておいででしょう? 先日も、お屋形様が現れた時に大層怯えて泣いていらっしゃったではありませんか」
「確かに、お屋形様のことは怖いと思った。徳寿丸を死なせてしまって、何もかもうまくできなくて、そんな私にお怒りなのだと思っていた」
「では、なぜですか? なぜ、お会いになりたいのですか?」
「お屋形様のことを怖いと思ったのは本当。でも、私、分からなくなったの。お屋形様の何が怖いのか、何を恐れていたのか。だって、お屋形様は私の手を握って、何度も私のせいではない、怒っていない、とおっしゃったのよ。お屋形様の方が、ご自分を責めていらっしゃったわ」
「口だけでは、何とでも言えます。お屋形様が今まで御台様に何をなさったか、いえ、何をなさらなかったか、お忘れですか?」
昌の言葉に首を振った後、琳は、でも、と呟いた。
「私の手を握るお屋形様の手はあたたかくて、お屋形様はこのような手をしておいでだったのか、と初めて知った。きっと私は、目を閉じて、耳を塞いで、何も知ろうとせずに怯えていただけだったのだと思う」
「それの何がいけないのですか? 御台様がお心安くいられる世界を、昌は守りたいと思います。いけませんか?」
そのためには、義宣の存在が脅威なのだ。義宣がいる限り、琳の心は穏やかになることはない。昌はそう思っている。琳も、そう思っているはずだ。
「分からない。でもね、お昌、私はもしかしたら、自分で籠の中に入って、自分でその籠に鍵をしていただけかもしれない、と思ったの。だから、確かにお屋形様のことは怖いけれど、その恐怖が何なのか、確かめたい。無理かもしれないけど、とても辛いかもしれないけど、もう少しだけ、いいえ、これから、私、頑張ってみたいの。私はお屋形様のことを何も知らない。お屋形様は私に関心を抱いておられなかったけれど、それは私も同じだった。私も怯えるばかりで、お屋形様のことを知ろうとしなかった。何もせずに、ただ怖がって怯えていただけだった」
まっすぐ昌を見つめる目は、決意と不安の両方の色を見せていた。それでも、琳は立ちあがり義宣のもとへ行こうとしている。そのことは、昌にとって衝撃だった。
「なぜ、どうして、ですか?」
すがるように琳の肩を掴んだ。琳は義宣を恐れていた。この忌まわしい佐竹という籠の中に入れられてしまってから、今までずっと琳は義宣を恐れていた。だから、昌は琳と小さな世界を作って、そこを心安くいられる場所にして、ずっと守ってきたつもりだった。琳を理解しているのは昌だけで、琳が心を許しているのも昌だけだった。昌だけが、琳を守って来たのだ。琳だけが、昌のたったひとりの主なのだ。
それなのに、琳はそこから出て行こうとする。なぜ。琳のことを誰よりも愛して、誰よりも大切にして守ってきたのは昌だ。なぜ、琳を傷つけ、心を苛む義宣のもとへ行こうとするのだ。
「御台様、もうご無理をなさらずともよろしいのですよ。以前、尼になるのもいいかもしれない、と仰せでしたでしょう? お屋形様は御台様がお望みならば許してくださいます。昌もともに尼になります。大体、お屋形様は近頃、御台様のもとへ足を運んでおられないではありませんか」
「お昌、もういいの。きっと、お昌は私を思って言っているのだとは思うけれど、どうして、そんな嘘をつくの?」
琳の言う嘘というのは、義宣の渡りがないと昌が言い張ることだろう。嘘と言われれば確かに嘘だ。自分で作り上げたその嘘を、昌はまるで真実のように思っていた。琳も昌の言葉を信じていると思っていた。だが、違ったのだ。琳は昌の嘘に気づいていた。
なぜ、そんな嘘をつくのか。それは、琳を守りたいからだ。義宣という存在から琳を守るためだ。
どうして、という問いは昌の方こそ琳にしたい。こんなにも琳を思っているのに、なぜ義宣のもとへ行こうとするのだ。なぜ。
琳の肩を掴む手から力が抜ける。琳は昌の手を振りほどき、襖を開け放ち、ずっと籠りきりだった部屋から外へ出て行った。昌もわずかに遅れて琳の後を追った。
琳は立ち去ろうとする義宣の背を追っていた。お屋形様、と義宣を呼ぶ琳の声が響く。義宣が琳の声に気づいて振り返った。
琳は義宣のもとへ行ってしまった。昌は、ただその場に呆然と立ち尽くしていた。
帰ろうとする義宣を引きとめて、琳の部屋で向き合ったのはいいが、何を話せばいいのか分からない。義宣も驚いているようで、口数がいつもよりも少なかった。
「あ、あの」
「何だ?」
「昌が無礼を働き、申し訳ございませんでした」
手をついて頭を下げると、義宣はかすかに苦笑したようだった。頭を下げているため、どんな顔をしているかは分からない。
「気にするな。ほら、顔を上げてくれ」
「は、はい。それに、いきなり引きとめてしまって、ご迷惑でしたか?」
「そんなことはない。俺は琳に会いに来たんだ」
「良かった。お屋形様にご迷惑をかけては、父に怒られますから」
ほっと息をつくと、義宣は怪訝な顔をした。何か怒らせるようなことを言ってしまったのだろうか。
「琳は、いつも重経殿のことを気にしてばかりだな」
「そうでしょうか?」
自分では分からない。そんなに父のことばかり気にしているだろうか。そのことが義宣は面白くないのだろうか。そうだとしたら、大変だ。父は義宣の機嫌を損ねる琳のことをどう思うだろう。
突然、義宣の手が琳の肩を掴んだ。思わずびくりと肩を震わせてしまう。義宣の顔をみつめると、義宣はまだ怪訝な顔をしたままだった。
「あの、お屋形様」
「琳、お前は重経殿が恐ろしいのではないか?」
「父のことが、恐ろしい?」
「ああ。お前は、いつも俺がどう思うか、重経殿がどう思うか、そればかり気にしている。尼になりたいのかと聞いた時もそうだった。俺や重経殿がどう思うか、ではなく、俺は琳の考えを聞きたいと思っている。琳、重経殿はここにはいないんだ。もう何年も、会ってすらいないではないか」
琳の考え。そんなことを言われても困る。琳は、父が怒らないように、義宣がどう思うかをいつも考えているのだ。
はっとした。これが、父のことばかり気にしているということなのだろうか。だが、気にせずにはいられない。父は怒るととても恐ろしくて、怒っていなくてもいつも恐ろしくて、そんな父に義宣の不興を買ってはならない、ときつく言いつけられているのだ。その言いつけを破ってはいけない。父がどう思うか分からない。義宣の機嫌を損ねては、父に怒られるに決まっている。いつも、琳はそう思っていた。
義宣の言う通りだ。子どものころから、今でもずっと琳は父が怖くて仕方がなかった。父に怒られるのが怖くて、父の言いつけを破るのが怖くて、義宣の不興を買うのが怖かったから、義宣のことも怖かった。
ひたすら従順な妻でいようと思った。そうすれば、義宣の不興を買うことはなく、父に怒られることもないと思っていた。義宣がどう思おうと、機嫌を損ねずにいればよかった。世継ぎも産むことができたし、生まれた子は可愛かった。徳寿丸は琳の一番大事な宝だった。だが、失ってしまった。自分のせいだと思った。義宣はひどく怒るだろうと思った。そして、義宣を怒らせては父も怒るのだと。
「私、父上のことが」
「ああ」
「ずっと、父上が怖かった。父上のことが」
琳が本当に怖かったのは、義宣ではなく重経だったのか。だが、徳寿丸を失った時、確かに義宣のことを恐ろしく、そして義宣の冷たさが恨めしいとも思ったのだ。
自然と涙が流れ落ちた。義宣の手が琳の涙を拭う。その手を琳は掴み、握り締めた。
「お屋形様、どうして」
「琳?」
「どうして、徳寿丸を、もっと気にかけて、大事にしてくださらなかったの」
恐らく、琳はずっとこの一言を義宣に言いたかったのだ。義宣は黙って琳を抱きしめ、よく昌がやってくれたように背中を撫でた。
「お屋形様は、徳寿丸の父上だったのに」
自分が愛されなかったことを嘆いているのではない。琳も義宣には無関心だった。義宣が琳に関心を抱いてこなかったことを憎んではいない。だが、もっと徳寿丸を可愛がってほしかった。世継ぎとしてだけではなく、息子として愛してほしかった。父として徳寿丸に接してほしかった。そのことを、義宣に伝えたかったのだ。
「すまなかった」
「お屋形様」
「すまなかった、琳、徳寿丸」
義宣の声はかすれていて、もしかしたら泣いているのかもしれない、と思った。徳寿丸への謝罪の言葉が聞けて、琳は少し嬉しかった。
「なあ、琳、前にも聞いたが、尼になりたいと思うか?」
琳を抱きしめたまま義宣が尋ねる。以前は、徳寿丸や一族を弔って暮らすのもいいと思った。それが、義宣と父に対して琳のできる唯一のことだと思ったからだ。だが、義宣はそれを望んでいるわけではないようだし、父はもうずっと前から、琳の前には現れていない。義宣の胸に顔を埋めて、琳は首を振った。
「いいえ。私はお屋形様のおそばで、生きてみたいと思います」
「そうか。言い訳にすぎないが、俺は多分、人を大切にすることに慣れていない。これからはちゃんと琳を大切にしたい。どうだろうか?」
「私も、父がどう思うかではなく、自分でものを考えて、お屋形様と生きてみたいです」
「ありがとう、琳」
義宣が強く琳を抱きしめる。義宣の腕の中で、琳は体の力を抜いてみた。義宣の胸に体を預けることにためらいはあったが、力を抜いてみると、何も怖いことはなかった。




