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道程  作者: 実川
一 無垢の子ども編
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無垢の子ども編(七)

 鹿島六万石。加藤清正が秀吉に贈った朝鮮土産の手水鉢。

 それが、秀吉から義久が与えられたものだ。大坂城へ秀吉のご機嫌伺いに出向いたら、いきなり秀吉からそのことを告げられた。驚きという言葉では表現できない衝撃だった。

 義宣とは石高が違うだけで、義久は大名と何ら変わりない。義久は秀吉に大名として取り立てられた。上杉家における直江兼続と同じだ。だが、義久は兼続とは違う。義久は、常は東義久と名乗っているが佐竹義久だ。佐竹家一門筆頭の東家当主であり、義久がその気になれば、義宣を引きずり降ろして宗家の当主になることもできる。

 義久は義宣よりも才覚がある。義宣より年を重ねているからではない。本当に、持って生まれたものが違うのだ。見ていれば分かる。義宣は遠く及ばない。このことは、家中の誰もが分かっていることだ。だから、一門、譜代の連中は義宣を若い当主と侮っている。

 義久の名が高まるにつれて、自分はお飾りの当主にすぎないのだという気持ちが強くなっていった。一門の義久でさえ、秀吉に羽柴姓をもらえるのだ。義宣が必ず佐竹家の当主でなければならない理由などないのではないか。義久が佐竹家の当主でも全く問題はないに違いない。

 一門の筆頭で、譜代連中も義久を信頼している。一門、譜代の象徴のようだ。当の義久は、本当は一門や譜代の味方だというのに、分別顔をして中立の立場を取っているように見せている。義久にますます信頼が集まった。

 自分が立っている場所を、土台から揺さぶられているような気がした。腹立たしかった。一門や譜代の連中も、義久も腹立たしかった。

 だが、それだけではないのだ。義久は命に従って朝鮮へ渡り、その褒美として秀吉から手水鉢を贈られた。六万石の大名に取り立てられた。

 朝鮮へ渡ったのは義久で、義宣ではない。その義久に褒美が与えられるのは当然のことだろう。それに対してどうこう思う義宣のほうがおかしいのだ。それは分かっている。だが、なぜ義久なのだ。なぜ義久は秀吉に六万石を与えられるのだ。まるで、義久は義宣から独立したもう一つの佐竹家のようだ。いずれ、義宣の地位さえ奪ってしまうような気がした。

 義宣から佐竹家を取ったら、何が残るのだろうか。何も残りはしないだろう。家臣たちは、みな佐竹家に仕えているのだ。浪人出身の家臣たちは、義宣が当主でなくなったら、また浪人して新たな仕官先を探すのだろう。何も当主は義宣でなくてもいいのだ。むしろ、信頼されている義久の方が相応しいのではないか。そんな考えすら浮かんでくる。

 義久という人間は、義宣の存在を根底から揺るがしている。

 昔、義久は母の命に従って伊達政宗を逃がした。今度は、義宣の地位を脅かすというのか。

 そんな事態はありえないと思いつつも、もしかしたら、という思いもある。もしもそうなった時、義宣を見捨てずにいてくれる存在などいるのだろうか。

 ひとりだけ、思い浮かんだ。そのためにそばに置き続けてきたようなものだ。義宣だけを見つめ、義宣にだけ忠誠を誓う存在。ただひたすら、一途に義宣に思いを寄せる存在。

 もう、金阿弥しかいないと思った。壊れていきそうな危うい均衡を保つためには、金阿弥しかいない。

 全て自分のものにしてしまいたかった。義宣だけの金阿弥でいてほしかった。金阿弥だけだ。

 大坂城から屋敷へ戻り、すぐに金阿弥を控えさせておいた部屋へ向かった。荒々しく襖を開くと、金阿弥が驚いて振り向いた。だが、義宣の姿を見ると嬉しそうに口許に笑みを浮かべた。誰も信じられない。もう、義宣にはこの幼い子どもだけだ。

 肩を掴んで畳の上に金阿弥を押し倒した。金阿弥の喉から息が漏れる音がした。小さな体の上に馬乗りになって、手首を押さえた。これで、金阿弥は義宣から逃げられない。

 金阿弥の顔が強張った。突然のことに驚いているのか。そうではない。目が怯えていた。一心に義宣を見つめてくる目が、不安と恐怖に揺れている。

それが苛立たしかった。怖かった。金阿弥にまで拒絶されてしまったら、どうすればいいのだろうか。

「金阿」

 名を呼ぶと、金阿弥がびくりと肩を震わせた。体が硬くなっているのが分かる。その金阿弥の唇に口づけた。唇を舌で割ると、きつく食いしばった歯列にぶつかった。その食いしばられた歯が、義宣に対する金阿弥の拒絶のようで、怖かった。歯列を舌でなぞっても、金阿弥はますますきつく食いしばるだけだった。

 唇を離すと、ほっとしたのか金阿弥は口を開いて息を吸った。その隙をついて、義宣は再び口づけた。金阿弥の口内に舌を侵入させる。舌と舌が触れあった瞬間、金阿弥の舌は逃げるように奥へ引っ込んだ。だが、その舌を追いかけ、からめとり、逃げることは許さなかった。

 息苦しいのか、金阿弥は義宣の腕を振りほどこうと必死にもがいた。だが、手首を押さえつけられているせいで満足な抵抗はできなかった。

 金阿弥を接吻から解放すると、息を吸った拍子に唾液を呑み込みきれなかったのか、むせていた。閉じられた金阿弥の目から涙が流れ落ちた。一筋涙が流れると、堰を切ったように金阿弥はぼろぼろと泣きじゃくった。

「泣くな」

 涙を拭おうと金阿弥の顔に手を伸ばすと、拒絶するように顔を背けられた。初めてだ。初めて、金阿弥に拒絶された。冷たい何かが胸の中へ流れ込んでくるようだった。傷が膿んで、じくじくと痛むようでもあった。

 怯える金阿弥の肩をきつく掴んだ。金阿弥は身じろいだが、金阿弥を気遣ってやる余裕などなかった。気遣うつもりもなかった。

「俺が怖いか?」

 金阿弥は目を瞑ったまま答えようとしなかった。そのことに、胸の痛みが増した。苛立った。

「俺に触れられるのは嫌か? 泣くほど嫌なのか? 泣くほど俺が怖いのか、金阿弥」

 何か言おうとしたのか、金阿弥の口が開かれた。だが、その口から漏れたのは嗚咽だけだった。そんなにも義宣のことが恐ろしいのか。思わず肩を掴む手に力がこもった。

「お前は、俺を好きだと言ったよな? 俺を慕っていると言ったよな? 俺に会えてよかったと。俺はほかの誰とも違うと。それは嘘か? 俺のことを好きなんじゃなかったのか?」

「好き、です。お、お慕いしています」

 震える声。だが、その声は嘘には聞こえなかった。今まで何度も聞いてきたこの言葉を信じたかった。

「なら、目を開けろ」

 思った以上にきつい口調で命令してしまったせいか、金阿弥は更にきつく目を瞑った。

「目を開けろ、金阿弥。俺を見ろ。俺を見るんだ。俺だけを見ろ」

 義宣を見てほしい。曇りのない純粋な眼差しで、義宣だけを見つめてほしい。頼みこむように、縋るように、義宣は金阿弥の肩を揺さぶった。

 涙に濡れた目が開かれる。その目は、まだ怯えてはいたが、その奥底に義宣を信じて縋る光が見えたような気がした。それが嬉しかった。金阿弥だけは、義宣を見捨てずにいてくれる。

「泣いて、いるのですか?」

 予想外の金阿弥の言葉に、義宣は何を言われているのか一瞬分からなくなった。泣いてなどいない。泣いているのは、金阿弥だ。ただ、胸が痛んで仕方がない。

「いいや、痛いんだ」

「痛い?」

「ああ、痛いよ」

 心配してくれたのか、金阿弥はそっと義宣の頬に触れた。義宣は金阿弥にひどいことをしているはずなのに、その優しさがあたたかくて、かえって胸が痛んだ。

 堪らなくなって、義宣は金阿弥を抱きしめた。骨が軋むほど強く、腕に掻き抱いた。

「金阿、俺が好きなんだろう? なら、俺を拒むな。拒むことは許さない」

 腕の力を緩めて金阿弥の鎖骨の辺りを吸い上げた。赤い跡がそこに残った。金阿弥は義宣のものだという証のようだ。

 薄暗い満足感が、胸の痛みを和らげた。

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