多賀谷の姫編(四)
上洛した義宣は、すぐに家康のもとへ挨拶に行き、その後秀頼のもとへ向かった。秀頼よりも先に家康のもとへ行くことで、少しでも家康の機嫌を取ろうと思ったのだが、家康との謁見は挨拶程度で終了してしまった。
家康はただ常陸から上洛してきた義宣の労をねぎらう言葉をかけただけだ。何の沙汰もない。義久の死についても、家康はまったく触れなかった。国替えの話が一度も出なかったことに義宣は少し安心したが、所領安堵の話も同じくまったく出なかったため、油断はできない。
関ヶ原での戦が終わり、一年半経っている。これでは蛇の生殺しだ。家康が何を考えているのか、義宣にはまったく分からなかった。
秀頼との謁見を終え、伏見屋敷に入ると琳の姿が見当たらなかった。義宣を出迎えたのは母だけだ。伏見屋敷に入ったのは、二年ぶりだった。
「母上、御台はどうしたのですか?」
「御台は一年以上前から、ずっと床についたままだよ。徳寿丸を失ってから、塞ぎこんでしまっていてね」
「そんなに体の具合が悪いのでしょうか?」
「さあ、気鬱の病らしいけれど。見たところ、どこも悪いようには思えないのだがね。私も孫を失って随分と泣いたが、御台はあまりにも情けないものだ」
母の話によると、琳は徳寿丸が死んでから部屋に籠りきりで、姑である母が訪ねても、なかなか顔を見せないらしい。だが、体が悪いようには見えないのだそうだ。徳寿丸を失った悲しみのあまり、気鬱になってしまっているのだろうか。
琳のそばには昌が離れずについているとも聞いた。琳は、昌以外の人間を自分の部屋にはあまり入れたがらないらしい。身の回りの世話は、全て昌がひとりで行っている。誰かが琳を訪ねても、部屋の前には昌がいつも控えていて、昌の許しがなければ中には入ることができない。
義宣も琳の様子が心配で、琳のもとへ行こうとしたが、使いを出すと昌に追い返された。本日は御台様の体調がすぐれませぬ、と言われたのだから仕方がない。体調がすぐれないところ、無理をさせるわけにはいかない。だが、何度使いを出しても同じ文句で断られている。確かに、気鬱のせいで床についている琳は、いつも体調がいいとは言えないのだろう。だが、義宣に会えない程悪いということはないはずだ。
琳に会うのに、昌の許しを得る必要がなぜある。義宣は昌に会いに行くのではない。
使いに出した侍女から、いつもと同じ言い訳を聞かされ、義宣は自ら奥へ向かった。後ろから、侍女たちが義宣を引き留めようとする声が聞こえるが、夫が妻に会いに行くのだ。何が悪い。
琳の部屋の前まで来ると、昌が義宣に頭を下げた。それは一見主を敬っているようだったが、頭を下げる前、義宣を見た昌の目は冷たかった。
「琳に会いに来た」
「御台様は本日お会いにはなりません」
「なぜお前がそれを決める」
「御台様は、誰にもお会いしたくないとの仰せにございます」
頭を下げたままの昌から、義宣を拒絶する気配がひしひしと伝わってきた。早くこの場から立ち去れ、と口には出さないが態度が全てを物語っている。
「琳が本当にそう言っていたのか?」
「はい」
俺は琳の夫だぞ、と言いそうになって義宣は口をつぐんだ。そのようなことを言ったら、この女は冷たく義宣に嫌味を言って追い返そうとするだけだろう。今までの義宣の琳に対する態度は、夫と言えるようなものではなかった自覚がある。義久を失ってから、義宣は自身の行いを省みたのだ。妻が悲しみに打ちひしがれているのならば、それを支えるのが夫の役割だろう。
「俺は琳に会いに来た。琳が誰にも会いたくないと言っているのだとしても、俺は琳に会わなければならない」
「御台様は誰にもお会いになりません」
「それはお前が決めることではない」
部屋の襖に手をかけようとすると、義宣の足元で頭を下げていた昌が立ち上がり、義宣の手を遮った。
「なりませぬ。御台様は誰にもお会いしたくないとの仰せにございます」
「どけ」
「なりませぬ」
「どけと言っている」
「なりませぬ」
声が低くなるのが自分でも分かった。それに対抗するように、昌の声も鋭くなる。何が何でも義宣を部屋の中には入れたくないらしい。その態度に腹が立った。
「主がどけと言っているのが分からないのか」
「私の主は、後にも先にも御台様ただおひとりにございます」
真正面から互いの苛立ちや主張をぶつけ合うように、叫びに近い声をあげた。昌は義宣が相手でも一歩も引く気はない。昌の主は義宣ではなく琳だと言うのだから、当然だろう。だが、義宣は琳の夫だ。琳に会いに来た。会わなければならない。
立ちはだかる昌を押しのけると、さすがに力では敵わなく、昌は畳の上に倒れた。遮るものがなくなり、義宣は昌を無視して襖を開けた。
「琳」
名前を呼ぶと、びくりと肩を震わせて、琳はゆっくりと視線を義宣に向けた。義宣を見た途端、琳は怯えを顔に浮かべ、首を振った。
「あ」
言葉にならない呟きを洩らしながら、義宣を拒絶するように琳は後退る。怯えた目は、義宣を見ているが、義宣を映してはいないようだった。
「ごめんなさい」
「御台様」
琳の、ごめんなさい、という呟きを聞いた瞬間、昌が琳のもとへ行った。怯える琳の肩に手を置き、なだめるように背中を撫でる。だが、琳の目はずっと義宣に向けられたままだ。
「あの、私、ごめんなさい」
「琳」
痛々しい姿を見ていられず、部屋の中に一歩入ると、それに伴って琳は一歩分下がった。その琳を昌が追う。
「お屋形様、申し訳ありません。私のせいです。私がしっかりしていなかったから」
「何も言わなくてもいい」
義宣がそう言っても、琳はただ首を振るだけだった。首を振って揺れた髪が、涙に濡れた頬に張りつく。その頬はやつれていて、見ていて胸が痛んだ。
「申し訳ありません、お屋形様。徳寿丸が、大事なお世継ぎが、私のせいで」
「御台様、もうお休みになった方がよろしうございましょう」
琳の言葉を遮り、昌は琳の肩を抱いて、そっと手で琳の目を塞いだ。そのまま琳は床に横たえられた。
「お帰りください」
「帰らない」
昌の声が冷たく響く。だが、義宣も譲らなかった。義宣は、自分の琳に対する態度は改めるべきものだと反省はしていたが、ここまで琳に怖がられているとは思っていなかった。義宣が思っていた以上に、義宣は琳を蔑ろにし続けていたのかもしれない。
「もう、お分かりのはずです。御台様は誰にもお会いになりません。それはお屋形様も例外ではありません」
「琳のやつれた姿を見て、帰るわけにはいかない」
「なぜ分かってくださらないのですか。だからこそ、お帰りいただきたいのです。お屋形様がいらっしゃるから、御台様は」
「お昌」
「御台様」
義宣に対して怒りをあらわにして叫ぶ昌の言葉を遮り、目を覆う手も外し、琳は再び義宣を見つめた。
「私のせいなの」
琳が肩を震わせる。新たな涙が頬を流れ落ちた。
「私がうまくやれなかったばかりに、徳寿丸を死なせてしまった。父上も零落してしまった。お屋形様も父上も、さぞお怒りでしょう」
声を殺して泣く琳の手を昌が握ろうとしたが、昌よりも早く義宣が琳の手を握り締めた。握り締めた琳の手は細く小さくて、強く握ると潰れてしまいそうだった。琳はこんなにも小さく弱い存在だったのだ。義宣は、常に怯える琳を面倒だと思っていた。従順なだけのつまらない女だと思い、関心を向けて来なかった。そのことが、ますます琳を怯えさせていたのだと、今更分かった。
十三歳も年下の琳に、何ができたというのだ。そんなに少女に、義宣は何を期待していたのだ。つまらない、面倒な女だと打ち捨てて、ないがしろにしてきた結果、琳は義宣を恐れていたのだ。
「申し訳ございません、お屋形様」
「謝るな。何も言うな」
「申し訳ございません」
「何も言うなと言っただろう」
握り締めた手を引いて体を起こし、義宣は琳を抱きしめた。腕の中で琳が震える。涙が義宣の胸を濡らす。罪の意識が義宣の胸を締めつけ、思わず強く琳を抱きしめた。昌は義宣の行動に驚いたのか、ただ呆然としている。
「琳は悪くない。琳のせいではない」
「でも、私」
「悪いのは俺だ。琳は悪くない。謝る必要などない」
今更何を言っているのだと思われるかもしれない。白々しいと思われるかもしれない。それでも、言葉にしなければならなかった。伝えなければならなかった。ようやく、自分がいかに琳を傷つけてきたのか分かったのだ。
「すまなかった、琳。すまなかった」
義宣の謝罪の言葉に、琳が息をのむ気配が伝わってきた。今更自分の犯してきた罪に気づいても、遅いのかもしれない。失ったものは戻らない。そのことは、義久の死で学んでいる。だからこそ、同じ過ちを繰り返してはならないのだ。




