多賀谷の姫編(二)
琳を妻に迎えてから三年後に、義宣は従妹の岩瀬の姫を側室に迎えた。琳に子ができなかったため、家臣たちは義宣に側室を迎えるようにすすめていたのだ。琳は義宣に従順な妻で、義宣の望みを拒まない妻でいようとしていたのだが、義宣の子をなすことはなかなかできなかった。
義宣はもともと琳に関心を持っているようではなかったが、岩瀬の姫を迎えてから、義宣の関心は岩瀬の姫に向いていた。義宣の寵愛を一身に受けているのは岩瀬の姫だった。側室であるはずの姫が、家中では岩瀬御台と呼ばれている。おそらく、義宣の従妹であり、滅亡してしまったといえ名門の二階堂家の姫だからなのだろう。
岩瀬の姫が義宣の寵愛を受けていることに対して、悋気を抱いたことはなかった。義宣が岩瀬の姫を愛しているならば、義宣の好きにすればいいと琳は思っていた。それが義宣の望みならば、従うだけだ。ただ、義宣が岩瀬の姫を愛するあまり、琳を離縁してしまうのではないか、ということが不安だった。琳が義宣に離縁されたら、重経は何と思うだろうか。重経はどうするだろうか。義宣が側室を愛していることを理由に、正室を離縁するようなことはしないと思うが、岩瀬の姫の存在は脅威だった。
岩瀬の姫が義宣の子をみごもったら、琳に子ができぬ限りその子が世継ぎになるのだろう。そうなったら、重経は何と思うか。琳の立場はどうなるのだろうか。義宣と重経のために、はやく世継ぎを産まなければ、という焦りと不安が胸を支配する。その上、側室の姫は岩瀬御台と呼ばれてもてはやされ、義宣の御台であるはずの琳は、みじめな気持ちになっていた。
岩瀬の姫が義宣の側室になってからしばらく後に、琳は義宣の子を身ごもった。子ができて嬉しいというよりも、何とか周囲の期待に添えそうで安堵した。嬉しいとはあまり思わなかった。安堵したものの、今度は生まれてくる子が男ではなく女だったら、三年も子ができなかった琳が身ごもったのは密通のせいだと疑われたら、などの新たな不安が琳を悩ませた。義宣は琳の懐妊を喜んでいるように見えたし、大御台も喜んでくれていたが、母になるという実感はわかないし、佐竹の世継ぎを産まなければならないという責任は重くのしかかって来るし、恐ろしくて堪らなかった。
義宣は琳の懐妊を岩瀬の姫には内密にしておきたかったらしい。その真意は分からないが、昌は琳のために怒っていた。そして独断で岩瀬の姫に琳の懐妊を告げていた。琳がすべてを知ったのは、昌が岩瀬の姫に事実を伝えた後だった。岩瀬の姫が琳の懐妊を知らされて呆然としている顔を見て、少しだけ琳は胸がすく思いがした。だが、義宣に奥でのもめごとを知られて機嫌を損ねたらどうしよう、とも思った。琳は何も言わなかったし、岩瀬の姫も何も言わなかったようなので、義宣から咎められることはなかった。
難産の末に生まれた子は男だった。琳は佐竹の世継ぎを産むことができた。生まれた子は、懐妊がわかってからの不安など全て消えてしまうほど愛しくてならなかった。男でも女でも構わない。この子が生まれたことが心から嬉しいと思ったのだ。
義宣も世継ぎの誕生を喜んでいた。名前も佐竹家の嫡男の名である徳寿丸を与えられた。これで生まれた子の立場は義宣に保証されたようなものだ。男子の誕生を義宣や重経がどう思うかより、徳寿丸が義宣に嫡男として認められたことの方が大事だった。
徳寿丸は日に日に成長していった。乳母の乳をあまり飲まず、飲んでも吐いてしまうことが度々あり、熱を出すこともあったため、健やかに大きくなっているとは言い難かったが、確かに毎日大きくなっている。義宣は太閤秀吉が死んでから忙しい日々を送っているが、徳寿丸や昌、乳母たちと過ごす奥での日々は、琳が今までに経験したことがないくらい穏やかで、あたたかで、幸せだった。
ただ、徳寿丸の体のことが気がかりだった。ほかの赤子を知らないため、比べることはできないが、体が弱いような気がする。大御台に相談してみたが、そういう赤子もいる、という答えしかもらえず琳の不安は晴れなかった。
産褥があけてから琳は以前と同じように義宣と同衾しているが、義宣に対する恐怖は徳寿丸が生まれてもなくなることはなかった。今度は、徳寿丸を失ってしまったら、という不安でいっぱいだ。義宣も、そんな琳にはやはり関心がないようだった。多忙のためもあるだろうが、徳寿丸のこともあまり気にかけていないように感じる。琳のことはどうでもいいのだが、徳寿丸に関心を持ってもらえないのは悲しかった。
義宣が帰国する前、徳寿丸の様子を昌と一緒に話したのだが、義宣は険しい顔をして徳寿丸を見つめるだけだった。徳寿丸を頼む、と言われたが、琳には死なせるな、と言われているように聞こえた。念願の世継ぎなのだから、義宣がそう思うのは当然だろう。
義宣が不在の間、伏見は騒然としていて物騒だった。石田三成たちが大名の妻を人質として大坂に集めているという話は琳も聞いている。佐竹屋敷にも使者がやってきたが、大御台が対応したので詳しいことは分からない。表向きのことや奥の取締などを、大御台は琳に任せようとせずすべて自分で行っている。大御台に逆らってはならないと思っているので、琳は黙って大御台に従うだけだ。人質となることを拒み、細川忠興の妻は自害したという話もあった。大御台もそうするつもりなのだろうか。大御台の判断を待っていた琳だったが、細川忠興の妻が自害したことで、大名の妻を人質にすることは中止となったらしい。琳は徳寿丸とこの屋敷にいても構わないようだ。
徳寿丸は一人で立てるようになったし、最近では乳母に手をつかまれると歩けるようになった。よく這うようにもなったし、わずかに言葉も発するようになった。徳寿丸が初めて琳のことを、かかさま、と呼んだ時など、愛しくて嬉しくて、涙が溢れたほどだ。ほかの人にはそう聞こえなかったかもしれないが、琳には確かに、かかさま、と聞こえたのだ。
徳寿丸を抱き上げて、頬ずりをする。温かく柔らかい存在に、琳は慰められ、励まされ、癒やされていた。
義宣が何を思っているかは分からないが、徳寿丸は確かに琳の子だ。何にも変えられない愛しい子だ。徳寿丸が生まれてから、琳の心は明るくなった。この子が自分の子として生まれてくれたことに感謝していた。
腕にかかる重さが愛しくて、ぎゅっと抱きしめると、徳寿丸が声を上げて笑った。それにつられて、琳も笑った。佐竹家の人質となって、義宣の妻となって以来、こんな風に笑えるようになったのは、徳寿丸のおかげだった。
「お昌、見ていた? 徳寿丸が私のところまで這って来たの」
「ええ、見ておりましたよ」
「立った状態からひとりで座れるようにもなったのよ」
徳寿丸を腕から畳の上へ下ろすと、徳寿丸は琳の膝に上がろうとした。その姿はいじらしくて、可愛らしくて仕方がない。
「可愛いでしょう?」
「本当に、可愛らしゅうございますね」
「ええ」
「御台様にそっくりです」
「そうかしら。お屋形様にも似ていると思うけれど」
琳は徳寿丸を抱きしめた。あたたかくて柔らかくて、儚い存在だ。そして何より可愛い。昌はかたくなに、徳寿丸は琳に似ていると言い張るが、義宣にも似ていると思う。今はまだ赤子だから、どちらの方により似ているかよく分からない。徳寿丸は毎日成長しているのだ。いずれ顔立ちも母親似か父親似かわかるようになるだろう。
琳は徳寿丸の日々の成長に喜びを見出している。琳にとって、この徳寿丸と昌だけが心の支えなのだ。
「お昌」
「はい」
「お昌も、この子を抱いて」
「私が、ですか?」
よろしいのですか、と尋ねる昌に琳はほほ笑んで頷いた。昌に抱いて欲しいのだ。乳母も昌が徳寿丸を抱くことに同意している。
昌が徳寿丸を抱くと、徳寿丸はじっと昌を見つめた後、嫌がるように昌の胸を押した。その動作に、思わず琳も乳母も笑った。昌はどうすればいいか分からない顔をしている。昌はいつでも琳にとって姉のようで母のようで、琳の知らないことをほとんど知っていたが、赤子のことはだめらしい。
「昌ではいけませぬ。お母上でなくては」
そう言って昌は琳に徳寿丸を抱かせたが、徳寿丸は琳に抱かれてもむずかっている。体調が悪いのだろうか。慌てて乳母が徳寿丸を抱いた。乳母は徳寿丸の額に手を当てると、眉を寄せた。
「お熱があるようです。すぐにお床にお入りになりましょう、徳寿丸様」
「また、熱が」
「しかし、徳寿丸様は最近お元気そうですし、すぐにお熱も下がるかと存じます」
「はやく熱が下がるといいのだけれど」
徳寿丸のことは乳母に任せ、琳は徳寿丸の熱が下がるように神仏に祈った。徳寿丸が体調を崩した時、いつも琳は神仏に祈りをささげている。徳寿丸のことが心配でならなかったが、琳にはこのくらいしかできることがないのだ。昌も琳の後ろで共に祈っている。
だが、琳の祈りが熱心ではなかったのか、徳寿丸の熱はなかなか下がらず、それどころかますます酷くなっているようだった。
三日後、徳寿丸は高熱のせいで儚く死んでしまった。




