落月の秋編(十九)
水戸城へ戻り、義宣に義久が生きている間は国替えをしないと家康が約束したことを伝えると、義宣はあからさまに安堵していた。国替えをしない、という誓紙を貰ったわけではないため、まだ安心はできないのだが、三成が関ヶ原で負けてからというもの、気を張り詰めていた義宣には気休めになったらしい。
「苦労をかけた。お前のおかげで、少し気が楽になった」
「いえ、誓紙を持ち帰ることができず、申し訳なく思っております」
「たとえ口約束だとしても、国替えなしと言われたんだ。お前のおかげでなくて何だと言うんだ」
義宣に招かれ、義久は義宣と二人で酒を酌み交わしていた。義宣は機嫌がいいようだ。義宣が義久に労いの言葉をかけるなど珍しい。義久は義宣に嫌われている。今までこのような言葉をかけられたことがあっただろうか。
「中務、お前も知っているだろうが、俺はお前が嫌いだった」
「はい」
今更言われずとも、分かっている。それを恨みに思うこともなかった。義宣が義久を嫌ったり、恨んだりするのは当然だと思っていた。だからこそ、義宣が義久にそのことを告げるのは唐突だと感じた。義宣は杯に視線を向け、義久を見ていないが、ぽつりぽつりと胸の内を明かし始めた。
「幼いころ、お前は俺や南の三郎、今は亡き北の又七郎によく講義をしていたな。孟子の講義の時、俺がお前に言ったことを覚えているか? もう二十年近く前のことだ、忘れているだろう」
「覚えております。幼かったお屋形様は、佐竹の天命が私に移るのではないか、と心配なさっておいででした」
「そうか、覚えていたか」
周の武王が殷の紂王を討った話をした時のことだ。まだ幼い徳寿丸だった頃の義宣は、民の帰服を得て天命を得ることができたのならば、義久が義宣の代わりに佐竹家の当主になるのではないか、と案じていた。
「俺は今でも、そう思っている。お前は一門筆頭で、家臣たちの信頼も厚い。亡き太閤殿下には直々に所領も与えられた。俺よりもお前の方がずっと当主にふさわしい。お前がその気になれば、お前が宗家の当主になれる。内府がお前に宇都宮を与えようとしたと聞いた時も、一瞬疑念を抱いた。お前は才も人望も、俺よりもずっと優れている。俺は、それが恐ろしくて妬ましくて、お前が嫌いだったのだ」
義宣がそんなことを考えているとは知らなかった。佐竹家の当主は義宣だ。義久が宗家の当主になるなどあり得ない。なぜ、義宣はそのようなあり得ないことを考えていたのだ。だが、義宣の性格を考えれば、そのような考えに至ったとしてもおかしくないかもしれない。義宣はどこか陰気なところがある。
「だが、俺は今更になって気づいた。結局、俺が頼るのはお前だ、中務。治部殿が生きておられた頃、諸将に襲われた治部殿を助けるよう、お前に命じた。内府への謝罪もお前に任せた。お前は、俺を諌めることはあっても、結局は俺の望んだとおりの結果を残した。俺はお前の才覚が憎かったが、その才覚がなければ俺はこうしていられなかったのだろう」
「そのようなことはありますまい。すべてはお屋形様の命で動いたことにございます」
「いや、違う。先年、お前は独断で上田へ兵を率いて向かったな。あの時、俺は何と傲慢なのだとお前を憎んだ。だが、上田へお前が向かっていなければ、佐竹は毛利や上杉のようにあっさり改易されていただろう。内府との交渉も、お前に頼りきりだ」
義宣が視線を上げた。空になっている義久の杯に、義宣は手ずから酒を注いだ。
「俺は、過去のことは忘れようと思う。お前もこれまでのことは忘れて、今後も俺を支えてくれないか」
「ありがたきお言葉。かたじけなく存じます」
過去というのは、義久が大御台の命で政宗の命を二度も救ったことを言っているのだろう。義宣は義久の才覚を憎んだと言っていたが、そんなことよりも義宣は義久が政宗を救ったことを恨んでいたに違いないのだ。義久の心にも、そのことがずっと澱のように沈んでいた。義宣がわだかまりを忘れて、義久を許してくれるのならば、義久は喜んで義宣に誠心誠意仕える。ただ、悔やまれるのは義宣に仕えられる時が残り少ないことだ。
義久の命は佐竹家のもの。佐竹家に捧げると決めた。つまりは、義久の命は義宣のものということだ。佐竹家のために、義久は増長と受け取られかねない独断行動をした。事実、上田へ向かった義久の行動は、家中によく思われなかった。義宣も、当時はひどく義久を憎んでいるようだった。宇都宮へ国を与えると義久が言われたことも、家中ではあまりいい噂にはなっていないだろう。だが、それでいい。そうなってこそ、義久の死は意味を持つようになる。
命だけではない。義久の死も、佐竹家のため、義宣のためのものだ。
義宣に酒を注がれた杯を押し戴き、酒を飲んだ。これを最後の酒にしようと思った。
屋敷に戻ると、妻と嫡男の義賢が義久を出迎えた。義賢は十七歳だ。義久の後を継ぐのに不足はない。義久が死んだら、義宣は義賢を東家の当主としてくれるだろう。
疲れたから休むと告げ寝所へ向かおうとした。目の前が暗くなり、床を踏んでいる感覚がなくなった。
目を開けると、天井が見えた。周囲を見ると、どうやら寝所で横たわっているらしい。妻の声が聞こえた。妻が言うには、義久は水戸城から戻って来て倒れ、一晩経ったようだ。体を起こそうとしたが、妻に止められた。妻の目には涙が浮かんでいる。水戸城の義宣にも義久が倒れたことを伝えたと言っている。
どうやら、死は義久が思ったよりも随分と早く、義久を迎えに来たらしい。
義久の手を白魚のような指が包む。愁いを帯びた美しい顔が義久を見つめている。
どうか政宗殿を助けておくれ、中務。
はっとして目を開けると、ずいぶんと日が傾いていた。気づかぬうちに眠っていたらしい。大御台が義久の手を握っていたのは夢だ。過去を夢に見た。
義久は、大御台の命で政宗の命を二度救った。佐竹と伊達が戦をしている時のことだ。大御台は実家の伊達家が滅んでしまうのが恐ろしく、義久に政宗の命を救わせた。政宗の命を救うことが佐竹家のためにならないと知りつつも、義久は大御台の命を拒めなかった。なぜか分からない。大御台の命は義重の命のようなものだと思ったのかもしれない。あまり深く考えずに、大御台の命を引き受けてしまったのかもしれない。
あの時の軽はずみな行動を、義久は今まで悔いていた。罪滅ぼしがしたかった。義久が政宗の命を救わなければ、佐竹家は今よりも強大になっていたのかもしれない。伊達家を潰す機会を義久は二度も壊した。自分の命が残り少ないと知ってから、義久は罪滅ぼしの意味を兼ねて、佐竹家のために奔走したつもりだった。
妻が置いていった布を口にあて咳き込んだ。血が布に滲んだ。妻が薬を運んできた。その薬を飲み、義久は目を閉じた。
徳寿丸が不安げな顔をしている。義久の方が当主に相応しいと言って泣きそうになっている。そんなことはない。佐竹家の当主は徳寿丸だ。義久は徳寿丸の家臣だ。
目を覚ますと、外は明るくなっていた。朝なのか昼なのかは分からない。屋敷内はなぜか騒々しかった。妻が慌てて義久のもとへやって来た。義宣が義久の見舞いにやって来たと言っている。見舞いの使者を寄こしたのではなく、義宣が自らやって来たのだ。
体を起こして義宣を迎えると、義宣は怒っているようだった。悲しんでいるようにも見える。その顔は、夢に見た徳寿丸の顔と同じだった。
「病だそうだな」
「はい」
「いつからだ。なぜ黙っていた」
「二年以上前からです。お屋形様にお知らせするほどのことでもないと思っておりましたので」
横になるように言われたので、義宣の言葉に甘えて義久は横になった。起きているよりも、横になっている方が楽だった。
「お屋形様、私は間もなく死にます」
「何を言っている。中務はそう簡単に死なぬ。今後も俺を支えると誓ったではないか」
「私もそう願っておりましたが、果たせそうにありませぬ。ですが、私は死をもって今後もお屋形様をお支えいたしとうございます」
長く話していると疲れてしまう。義久が休んでいる間、義宣は黙って義久の言葉を待っていた。
「私の死を、お屋形様の粛清によるものとしていただきたいのです」
「馬鹿なことを。俺が中務を粛清だと?」
「はい。私の増長ぶりは家中でも噂になっているはずです。たとえ一門、譜代であろうとも、お屋形様に逆らう者は粛清されるのだと、お示しください。そうすれば、家中の権力はお屋形様に集中し、お屋形様の思う通りの政ができるようになるでしょう」
「そのようなこと、できるわけがない。俺にはお前を殺す理由がないぞ。それに、お前は病だ」
「理由ならばあります。私はお屋形様に反して上田へ参りました。内府からは、宇都宮を与えるとまで言われました。お屋形様を脅かす、家中の脅威ではありませぬか」
「確かに、中務の行動をよく思っていない連中も多い。俺もその一人だった。だが、中務」
息切れがする。呼吸を整えて、義久は義宣を見つめた。主君に対して無礼かもしれないが、腕を伸ばして義宣の手首を掴んだ。すぐに力が抜けそうになるため、強く握りしめてしまっている。
「人の将に死なんとする、その言や善し、と申します。私はここで果てることを惜しいとは思いませんが、お屋形様のおそばで罪滅ぼしをできぬことが無念でなりませぬ。お屋形様が私の言を用いてくださったのならば、死した後も私はお屋形様のお役に立つことができるのでございます」
「中務、お前も、今でもあの過去にとらわれていたのか?」
義宣が義久の手をしっかりと握りしめた。かつて大御台にも手を握られたことを思い出した。義宣と大御台は似ているところがある。母子だからだろう。そんなことを、ぼんやりと思った。
「お屋形様、中務最後のご奉公にございます。どうか」
口の端から血が流れた。口の中に血の味が広がる。血とともに義久の命も流れ出ているのだろう。
「分かった。分かった、中務。お前の言う通りにしよう。お前は俺に粛清された。それでいいんだな?」
義久が頷くと、義宣も頷いた。義宣は泣きそうな顔をしているが、義久は安堵した。これで義久の罪をすべてあがなうことができたとは思わないが、義宣との間にわだかまりを残したまま死なずに済む。
「安心しろ。東家の家督はお前の嫡男に継がせる」
「ありがとう存じます」
義宣は名君の素質を持っている。その素質を潰しているのが、佐竹家譜代の老臣たちだ。義久もその一人だ。古老の家臣たちの言動に力がありすぎる。義宣は向宣政や渋江政光、梅津兄弟のような側近を作り、自分の手足としようとしたが、それだけでは義宣に権力を集中させることは不可能だった。
義久を義宣が殺したことになれば、義宣は古老の家臣たちから信頼を失うかもしれない。だが、義宣の妨げになる者は、遅かれ早かれ遠ざけなければならない。それが義久の死によって早まるだけのことだ。
義宣は暗愚ではない。これから先、素晴らしい国を作ることができるはずだ。浪人出身の者たちも有能だ。義宣の作る国が常陸なのか、それとも別の地なのか、どのような国になるのか、義久は知ることができない。それが無念だった。
家康は義久が死ねば、本当に義宣に国替えを命じるのだろうか。仮に義久が病でなかったとしても、家康に毒殺をされていたのかもしれないのだから、今更考えてどうなるものでもない。
まだ義宣に手を握られている感覚がある。だが、瞼が重くて仕方がない。目を閉じ、義久は息をついた。手に水滴が落ちたような気がした。




