落月の秋編(十八)
義宣の命で上洛して家康に謝罪をしたが、家康は義久の謝罪を受け流しただけだった。結局、家康は義久の謝罪を受け入れてはいない。義重が上洛した時も、のらりくらりとかわされただけだったと聞いている。家康は何を考えているのだろうか。義久にはまったく分からなかった。
義久が上洛している間、義宣は江戸に亡き前妻である那須御台を供養するための寺を建立していた。わざわざ正洞院という名にしたのだから、那須資晴がそのことに気づいて家康に口添えをしてくれるといいのだが。那須家が秀吉に改易処分をされた時、何もしなかった佐竹家のことを那須家が庇うとも思えないが、何もしないよりはいいはずだ。
十一月になり、家康は大坂から江戸へ帰国した。それに合わせて義宣の命で、今度は須田盛秀とともに、義久は江戸城へ向かった。義宣が密かに同盟していた上杉家は改易処分を受け、会津から米沢三十万石へと大幅な減封となっている。上杉家と同じ道はたどりたくない。関ヶ原での戦から一年以上経ち、九州の島津家を除けば、何の沙汰もない大大名は義宣くらいだ。家康への面会は許されたが、家康は上洛した時とは違い険しい顔で義久と盛秀を見据えていた。家康のそばには本多正純が控えている。
「内府様におかれましては、ご健勝の御事とお慶び申し上げます」
義久と盛秀が頭を下げても、家康は何も答えなかった。ただ、顔を上げるように言われただけだ。
「かつて常陸侍従殿は内府が所望した人質を出されませんでした。内府は真にこれを恨んでおります」
家康の代わりに正純が口を開いた。家康は今まで義宣に対して怒りをあらわにしたことはなかったが、ついに家康の本音が見えてきた。家康が義宣に恨みを抱いていないはずがなかったのだ。上洛した時に義重にも義久にも怒りを見せなかったのは、なぶって遊んでいただけだったのだろうか。
「我が主、義宣が人質を献じなかった理由については、かつて島田利政殿にご説明申し上げた通り。確かに、謂われなきことではございませぬ。しかし、義重も先日申し上げました通り、義宣は内府様に人質を献じたかったのですが、母と妻に勝る人質はおりませぬ故に、内府様に人質を献上できなかったのです。また、秀頼様に献じている人質こそが内府様へ献じた人質と義宣は考えていただけのこと、決して他意はございません。なぜ、そのことを恨みに思われるのでしょうか?」
義久の必死の弁明に正純はちらりと一瞥を投げただけだった。家康はその隣で沈黙したままだ。
「侍従殿は弟御の蘆名盛重殿、岩城貞隆殿は他家の当主故に人質にはできぬとの仰せでした。確か、島田は妹姫でもいい、それが無理ならば一門や家老にしかるべき者はいないか、とまで妥協したはず。何も御母堂と奥方を人質に出せとは強要しておりません。それでも侍従殿は人質を出されませんでしたね。それは、内府へ従う意がなかったからではないのですか? これを恨みに思わずに、何を恨みに思いましょうか。しかし、中務殿は違います。貴殿はご自身で兵を率いて上田へ馳せ参ぜられた。内府も大納言も大いに喜んでおります」
正純は義久の行為についてだけ、家康も秀忠も喜んでいると言った。義久の隣にいる盛秀は、義久にわずかに疑いの眼差しを向けたようだ。正純の狙いは分かっている。義久と義宣の離間を画策しているのだろう。佐竹家の内部から崩壊させるつもりに違いない。主君と力のある家臣を引き離そうとするのは、昔からよくある常套的なやり方だ。
義久は佐竹家の存続だけを考えている。正純の策には引っかからない。
「その厚情に報いるために、内府は中務殿に封国の任を授けることも考えております」
「本多殿、中務に封国の任を授けられるとはまことですか?」
盛秀が思わず驚きの声を上げた。
「内府が考えているということです」
正純の離間策は、まさか義久に国を与えるところまで考えているとは思わなかった。義久にも正純の言葉は信じ難かった。
「上野介殿、私のことはひとまず置いておきましょう。今は義宣の話をしているのです。よろしいか、義宣がもし真に内府様に敵対しようと考えていたのならば、内府様が江戸から上方へ向かわれた際、その背後を襲っていたことでしょう。内府様には神武の勇がおありですが、義宣がそのような行動に出ていたのならば、早々と上洛して此度のご戦勝の運びとなりましたものか」
「では中務殿、侍従殿が内府に味方するつもりだったのならば、なぜ三成を討伐する際、上洛に同道なさらなかったのですか?」
「この中務、内府様のご子息、大納言様より直々に会津の上杉の抑えに回るように命ぜられました。それは義宣も同じこと。故に、国に兵を集め会津へ備えていたのでございます。義宣が会津を抑えていたからこそ、上杉は兵を関東へ出せなかったのです。これが義宣の大功でないというのならば、一体何だというのでしょうか。この功をお認めくださるのなら、以前お約束なさった景勝没収の会津の地を義宣にお与えいただきたく存じます」
頭を下げる義久の隣で、盛秀も慌てて頭を下げたが、盛秀は義久の言葉を内心よく思っていないようだった。おそらく盛秀は、義久の態度が謝罪に来た人間のものではないと思っているのだろう。だが、義久は間違ったことは言っていない。義久の言葉は完璧な事実とは言い難いが、まったくの虚言でもないのだ。義宣の言動を家康にとって都合よく解釈し、知られてはならないことをうまく隠蔽しているだけだ。景勝没収の地を与えると言ったのも、人質を要求しに来た島田だ。
「景勝没収の地を賜りたいとは何という厚顔。加増どころか、内府は侍従殿の国替えも考えているのですよ」
「まあ待て、上野介」
ようやく家康が口を開いた。家康に制止され正純は口を閉ざした。家康の表情からは何も読み取れなかった。
「さすが亡き太閤殿下に才を認められただけのことはあるな、中務殿。上野の申した通り、儂はそなたに宇都宮十五万石を与えたいと思っているのだが、どうだろうか?」
宇都宮十五万石。家康は何を言っている。義久に国を与え、義宣を改易するつもりか。盛秀も息をのんでいる。
「私に功があったとしても、それは全て義宣の命でございます。また、私が内府様に対して功をなそうとするのも全て義宣の為。義宣が父祖伝来の常陸を奪われほかに遷され、私が宇都宮を授かることに何の益もございませぬ」
動揺を見せてはならない。わずかな隙でも家康は見落とすはずがない。顔を上げ、家康と視線を合わせる。義久は家康から視線を逸らさずに、笑みを浮かべてみせた。
「義宣こそ我が主。義宣あっての佐竹家であり、義宣あってこその義久。宇都宮十五万石は固くご辞退いたします」
「なるほど、そなたの言う通りだ。では、中務一代義宣の国替えはなしということにしよう。そうと決まれば、せっかく江戸まで足を運んできた中務殿と須田美濃殿には酒食でも振舞おうかのう」
中務一代とは、義久の命がある限り義宣の国替えはしないということか。家康は正純に命じて饗応の準備に取り掛からせたが、義久はまだ納得できなかった。義久の命がある限りでは意味がないのだ。義久は義宣よりも先に死ぬ。義久の死後、義宣が改易されては困る。
「内府様、常陸は義宣が国、新羅三郎義光公を祖とし五百年守り続けた佐竹の国にございます。義久一代とは何の理でございましょうか。義宣に罪があるのならば、これを糾明くださいますよう」
「中務殿、そなたの目は鬼のようになっておるぞ。世には順序というものがある。考えてもみよ。そなたと儂のどちらが長生きすると思う? 中務一代に何の問題があろうか。のう、上野」
「仰せのとおり。中務殿、内府の厚意を疑う気か?」
「いえ、そのようなことはございませぬ」
家康はとぼけているが、家康はこの酒食の饗応で義久を毒殺することもできるのだ。そうすれば、義久一代という約束はこの場で反故になる。義久は家康よりも義宣よりも先に死ぬ。義久一代ではなく、せめて義宣一代にしてもらいたかった。
だが、これ以上食い下がることはできないだろう。義久と盛秀の前には、膳が運ばれてきた。義久と家康の交渉は終了なのだ。結局義久は、義宣の国替えはしない、という約束を取り付けることができなかった。義宣が国替えされるかどうか、それは家康にしか分からない。
膳に乗った酒に盛秀は手をつけようとしなかった。家康は義久が酒か食事に手をつけるのを待っている。杯に注がれた酒を、義久は一気に飲み干した。家康が笑った。だが、たとえこの酒に毒が入っていたとしても、義久は家康の毒殺には屈しない。毒よりも死に近いものが、義久の体には眠っているのだ。
饗応が終わり、江戸から常陸へ戻る途上、盛秀は険しい顔をしていた。
「上野殿に対しても内府殿に対しても、御東殿の言動には気を揉みましたぞ。あのように強気な態度に出られてよろしかったのか?」
「では美濃殿、貴方は私がひたすら下手に出たところで、結果が変わったと思うのですか? むしろ、下手に出ては内府に侮られると思ったのですが」
「しかしなあ。御東殿一代という約束を取り付けることはできたが、何とも。それにしても、御東殿に宇都宮を与えると内府殿がおっしゃった時は、驚きましたな」
盛秀の声が遠く聞こえた。何を言っているのかよく分からない。息が苦しい。だが、これは毒ではない。二年近く義久の体の中に巣くっているものだ。咳き込むと血が口から溢れだした。六月に上洛した時はここまで酷くなかったはずだ。意識が遠のく。
「御東殿」
盛秀の声で義久ははっとした。一瞬、意識を失っていたようだ。気がつくと盛秀に体を支えられていた。口の端からは、まだ血が流れている。
「御東殿、病だったのか。なぜ言わなかった。お屋形様はご存じなのか」
盛秀の問いに義久は首を振った。義久の病のことは、佐竹家中の誰も知らない。義宣にも伝えていなかった。家運をかけた大事な時期に、病で床に就いてなどいられなかったのだ。死が迫りつつあることは、医師に言われずとも分かっていた。医師に渡された薬を飲んではいたが、気休め程度のものだった。
病で自分は近いうちに死ぬと分かっていたからこそ、義久は強気の行動に出られた。義宣の反対を押し切って独断で上田に兵を率いて向かうことができたし、家康に対しても強気で交渉することができた。すべては佐竹家のためだ。義久の命は佐竹家に捧げるためにあるのだ。
「どうか、お屋形様にはご内密に」
「しかし」
「あと少しなのです。せめて、お屋形様には義久一代国替えはなし、とお伝えし、ご安心いただきたい」
「御東殿がこのような状態では、あのような約束は反故じゃ」
「気休めでも構わぬ。美濃殿、どうか分かってくだされ」
「分かった。御東殿の命をかけた最後のご奉公、美濃もご助勢いたす」
しばしの逡巡の後、盛秀ははっきりと頷いた。義久の視界がぼやけているせいかもしれないが、盛秀の目には涙が浮かんでいるようだった。かたじけない、と言ったつもりだったが、声の代わりに口からは血が流れた。




