落月の秋編(一)
秀吉が死んだ。死の間際まで、秀頼のことを頼む、と涙ながらに訴えていた姿が、三成は忘れられなかった。
これが、本当にあの秀吉なのか。いつも明るくひょうきんで、人たらしと呼ばれた秀吉なのか。三成を心酔させた秀吉なのか。秀吉が老いて耄碌していく姿を、三成は誰よりも身近で見ていた。朝鮮出兵などという恐ろしい戦を起こし、一度は世継ぎと決めた甥の秀次を切腹させ、淀の方との間に生まれた子を溺愛した。死の間際も、秀吉の考えていることは自分の死後の秀頼のことばかりだった。それが三成には悲しくてたまらなかった。昔の秀吉との違いを思い知らされた気持ちがする。
痩せて枯れ木のようになった手を必死に伸ばし、家康の大きな手を握り締めた秀吉は、見ていて哀れだった。家康を従えるのだと意気込んでいた昔が遠く感じられた。結局、最後に秀吉が頼ったのは、一番危険視していた家康だったのだ。
秀吉は、秀頼と家康の孫娘に婚姻を結ばせ、家康との絆を深めようとしていたが、そんなことは無意味に決まっている。
秀頼を頼む、という秀吉の訴えを、家康は涙を浮かべて聞いていたが、その涙は偽物だ。家康は人に化けた狸だ。同じ様に涙を浮かべている前田利家とは全く違う。利家の涙は秀吉に迫る死を悲しむ、本物の涙だ。秀吉の痛々しい姿に涙しながらも、三成は家康を最大の敵であると認識し、警戒していた。
この男は、秀吉の死後に黙っているはずがない。豊臣の天下を守るためには、三成が何とかしなければならないのだ。
秀吉は自分の死を隠すように遺言したが、三成は家康に秀吉の死を告げた。その時の家康は、秀吉の死を悼むような顔をしていたが、すぐに息子の秀忠を領地である江戸へ帰している。家康が秀吉の死を悼んでいないことがよく分かった。
秀吉の死後、大老である利家と家康は、朝鮮に使者を送り、朝鮮と明との講和をはかり、出兵している諸将へ速やかに撤兵するように命じた。三成は浅野長政とともに九州博多へ赴き、撤兵事業を統轄した。
「各々方、朝鮮での長きにわたる戦、さぞお疲れでありましょう。年が明け、落ち着きましたら、茶など振舞い、疲れを労いたく存じます」
朝鮮から戻って来た諸将に労いのつもりで三成は言葉をかけたのだが、撤兵してきた加藤清正は三成の言葉を聞くと、仇敵でも見るような目で三成を睨みつけた。
「茶か。朝鮮に渡っていた我らには、茶を用意する余裕などないわ。冷え粥でよければ、馳走してやるがな」
「何を言っておられるのかな」
「殿下のおそばでぬくぬくとしていた者に、我らの苦労など分かるまいよ」
顔を背けて、清正は三成の前を去って行った。労いの言葉をかけたつもりの三成にしてみれば、清正の言葉は心外である。これだから、話の分からない馬鹿は困るのだ。心のうちではそう思ったが、表には出さず撤兵事業は完了した。
年が明け、秀吉の遺命に従い秀頼を大坂城へ移し、前田利家は大坂に居を移した。家康は伏見の屋敷に留まり政事を監督し、三成ら奉行は大坂と伏見を行ったり来たりすることになった。
利家が大坂にいて、秀頼を守っている間は安全だ。だが、利家は秀吉と年が近い。最近はめっきり年を取った印象を受ける。利家も年には勝てないだろう。いつまで秀頼を守っていられるか分からない。それに比べて家康は、憎らしいほどに福々しかった。利家よりも年下といえども、家康も老齢のはずだ。秀吉や利家の生気を吸い取って、この古狸は生き生きとしているのではないか。そう思えるほど、家康は健康そのものであり、気力に満ち溢れているようだった。
秀吉が死に、義宣は遺品として雪の絵を、義久は雲次の刀を与えられた。太閤の形見を賜るとは、義久も偉くなったものだ、と内心義宣は思っていた。義久は秀吉に気に入られていたのだから、仕方がない。それに、義久は佐竹家中の者ではあるが、秀吉から知行を安堵された大名でもあるのだ。秀吉の遺品は屋敷に飾っておくのもどうかと思ったので、丁重にしまいこんでいる。正直なところ、少し扱いにくい。
秀吉の死後、義宣の弟の彦太郎は正式に多賀谷重経の養嗣子となり、琳の妹の婿となった。名も多賀谷左兵衛宣家と改めている。義宣より十四歳年下の弟が、自分の妻の妹の婿になるとは、思いもしなかった。義宣の弟が養嗣子となり、重経は喜んでいるようだった。これで、佐竹家の麾下が増えたのだから、義宣にとっても悪い話ではない。佐竹家の領土は常陸五十四万石だが、蘆名や岩城、多賀谷などの領土もあわせれば八十万石余りになる。
琳とは祥を常陸に帰してから一度会ったきり、会ってはいない。妊娠中の女は穢れの身であるためだ。そろそろ腹のふくらみが目立つようになってきたため、会いに行くのは自重していた。
侍女の昌の話によると、もういつ生まれてもおかしくないらしい。秀吉の喪に服している世だが、佐竹家中は年明け早々良い知らせが聞けそうだった。体を大事にするように、と琳への言伝を昌に頼んだ。琳は病がちというわけではなかったが、十六歳とまだ若く、しかも年の割に体つきがまだ少女のようだった。そんな体で出産に耐えられるのか、と義宣は琳の体を案じていた。琳にとって初めて出産だが、義宣にとっても妻の出産は初めてのことだ。義宣たち兄弟五人を産んだ母は義宣に対して、女の戦いに男は不要、と言っていた。
常陸に帰した祥も、無事に水戸城へ入ったようで、到着を知らせる書状が届いていた。鏡田の機嫌も、水戸城へ入ったら元通りになった、と書き添えてあった。その一文を見た時、義宣は思わず小さく笑ってしまった。
秀吉が死に、大老と奉行が秀頼を支える体制をとってはいるが、秀吉の死後も豊臣の天下が安定しているとは到底言えない。義宣はただ、秀吉の喪に服しながら状況を見守っているだけだ。三成はしきりに家康を警戒するように、と義宣に忠告している。家康は秀頼を守る気などないに違いない、と三成は言うのだ。
確かに隣国の大大名である家康が、秀頼に反して戦を起こそうとしたら、佐竹家は危ない。義宣が三成と昵懇の中であることは、家康も知らないはずがないのだ。もし、今後の世が昔のような乱世になったとしたら、佐竹家にとって最大の敵は江戸の家康になる。それを思うと、義宣も家康を以前よりも警戒するようになっていた。だからといって、特別何かをするわけではない。家康が何もしていないのだから、義宣も家康に対して何もすることはなかった。
義宣が側近の宣政、政光や憲忠、政景兄弟を集めて政務に取り掛かっていると、突然来客が告げられた。誰かと問うと、家康の使者が二人、年始の挨拶をしたいと言って来ているのだそうだ。政光たちは不審がっていたが、断る理由もないので義宣は会うことにした。来ているのは、長谷川左兵衛と本多正純だそうだ。本多正純といえば、家康の側近中の側近である本多正信の息子だ。正純も父と同様に家康に重用されていると聞くが、家康の側近が義宣に何の用だろうか。
「佐竹様、新年のご挨拶を申し上げます」
長谷川左兵衛と本多正純は、義宣の前に出ると平伏した。顔を上げるように言うと、長谷川は人の良さそうな笑みを浮かべていた。正純の方は、義宣を睨むかのような冷たい顔をしている。正信、正純親子は徳川家中で嫌われているという話は聞いていたが、この男の冷たい顔が、他人を見下しているような嫌みな印象を与えるからなのだろう。
「さて、内府殿の家中の方が、私に何の用だろうか?」
「実は、拙者は常陸の生まれにございまして、佐竹様を常々お懐かしく思っておったのです。主から許しを得られましたので、こうしてご挨拶に伺ったまで」
「左様か」
長谷川は常陸の出身だと言っているが、本当にそうなのだろうか。事実だとしても、義宣は長谷川のことなどまったく知らないし、徳川家に仕えている人間に懐かしいと言われたところで白々しいと思うだけだ。しかも、秀吉の死後に初めてやって来たのだから、長谷川の言葉が真意ではないことは分かる。
「長谷川殿が来られた理由は分かった。しかし、本多殿は一体どのような用向きだろうか? 本多殿は内府殿の懐刀と伺っているが」
義宣の問いに対してまったく表情を変えずに、正純はわずかに頭を下げた。その隣で長谷川はまだ笑みを浮かべている。
「私が参りましたのは、佐竹様にわが主の姫をご正室に迎えていただきたいとの主の意向ゆえにございます」
正純の言葉に、義宣は唖然とした。正純は何と言ったのだ。義宣に、家康の娘を娶れと言ったのか。本気で言っているのか疑いたくなったが、正純の表情は変わらず冷たいままで、そこには冗談のかけらも見出せなかった。正純は本気でこの話を義宣に持ちかけているのだ。




