開く花編(九)
義宣と口論をしてから、義宣は一度も祥のもとを訪れようとしなかった。以前、祥が義宣の頬を叩いた時も、義宣は祥のもとへしばらく来なかった。あの時と同じだ。
義宣との口論のことを、祥は阿南にも鏡田にも知られないようにしていたが、義宣の渡りがないことで、義宣との間に何かがあったことは知られてしまっているだろう。なるべく表情や態度に出さないようにはしているつもりだが、祥の様子もおそらくここ数日おかしいのだと思う。阿南も鏡田も、いつも心配そうに祥を見ていた。
「姫様、先日のお屋形様のお渡り以来、お元気がないようですけど、何かあったのですか? わたくし、心配でなりませぬ」
「鏡田、ありがとう。心配をかけてごめんなさい。もしかしたら、わたしはお屋形さまに嫌われてしまったのかもしれないわ」
「お屋形様が姫様をお嫌いになる? そのようなこと、信じられません。そうですよね、後室御前」
「ええ。私もお祥の話に驚きました。義宣殿はお前のために形だけとは言え、祝言まで挙げてくださった。その義宣殿が、どうしたというのでしょう?」
顔を見合わせて首を傾げる二人に、嫌われてしまったかもしれない、などと簡単に言うべきではなかったのだと思った。だが、誰かに行き場のない自分の気持ちを聞いてほしいという思いもあったのだ。阿南と鏡田ならば、祥の話を聞いてくれる。
「わたし、お屋形さまに御台さまのご懐妊を黙っていた理由をお尋ねしました。お屋形さまは、最初忘れていたのだとおっしゃいましたが、わたしが問い詰めたら本当のことをお話しくださった。お屋形さまは、わたしが御台さまのご懐妊を知って、嫉妬をするのが嫌だったのだそうです。泣いてすがろうとしたわたしに、お屋形さまは、だから女は嫌なのだ、と」
思い出して言葉にするうちに、あの時の悲しさと悔しさが蘇ってきた。祥を見る義宣の目には、祥に対するあたたかい愛情のようなものは感じられなかった。面倒なことになった、と思っていることしか伝わってこなかった。
「何と酷いおっしゃりようでしょう。姫様は何も悪くないではありませんか。そもそも、御台様のご懐妊を内密にしようとなさったお屋形様が悪いのです。それなのに、これではまるで姫様が悪いように聞こえます」
「鏡田、ありがとう。けれど、わたしの話はわたしに都合のいいように話しているだけだと思うわ。きっと、お屋形さまのお話を聞いたら、また違うのだと思う」
「そうだとしても、お屋形様のお言葉はあまりにも酷い。姫様、お屋形様のような殿方は、おそらくずっとそのままでございますよ。真剣につきあって、痛い目を見るのは女の方と決まっています。わたくしは、お屋形様にこれ以上深入りなさるのはどうかと思います」
鏡田が祥を心配してくれる気持ちはありがたいし、言いたいことは分かる。義宣のあの性格は、一朝一夕で改善されるものではないだろうし、これ以上深入りして傷つくのは祥だけなのかもしれない。だが、なぜ義宣は祥にあのようなことを言ったのか、何を考えていたのか、今は何を思っているのか、知りたいと思う。義宣が祥のことをどう思って、あの行動と言葉に至ったのか、それを知らなければ、祥は納得できなかった。
「お祥は、どうしたいのですか? 鏡田の言うとおり、義宣殿とは距離を置きたいと思いますか?」
「いいえ」
「まあ、姫様」
「確かに、わたしはお屋形さまのお言葉に傷つきました。もうあの方のことなど知らない、と思わなかったと言えば嘘になります。しかし、わたしはまだ諦めたくないのです」
「諦めたくない、とは?」
「鏡田の言うとおり、これ以上お屋形さまに深入りすれば、わたしは傷つくのかもしれません。嫌な思いもするでしょう。しかし、わたしはまだ何も分からない。お屋形さまご自身のことも、わたしのことをどう思っていらっしゃるのかも。今ここで、わたしがお屋形さまのことを諦めてしまえば、お屋形さまは二度とわたしのもとへはいらっしゃらないと思います。それが、わたしは嫌なのです。自分でも、なぜなのか分かりませんが、わたしはまだ、お屋形さまが愛しい」
泣きたい訳ではなかったのだが、涙があふれてこぼれ落ちた。涙を拭おうとすると、祥の手が届くよりも先に、阿南に涙を拭われていた。
「お祥、相手を愛しいと思う心は、理屈ではありません。自分でどうにかできるものではないのです。お前が義宣殿を愛しいと思う気持ちが少しでもあるならば、諦めるのはお止しなさい。お前は、義宣殿を理解したいのでしょう? ならば、辛くとも話し合わなければなりません。さあ、もう泣かないで。お前が泣くと、私も鏡田も悲しくなります」
「ありがとうございます、お養母さま」
義宣のことを諦めたくないという気持ちは真実だ。だが、実はもう義宣のことなど考えずに、このまま終わりにしてしまおうかという考えが、心の片隅にあったことも否定できない。阿南の言葉で、祥の心は決まった。たとえどんなに傷ついても、納得できる答えを見出すまで、祥は義宣を諦めない。
理由など分からない。自分でも、やめておいた方がいいとも思う。だが、祥は義宣のことが、今でも確かに愛しいのだ。
祥に泣かれてから、義宣は琳のもとへ真相を確かめに行った。祥に琳の懐妊を知られたのは、昌が祥に教えたからだと思ったのだ。だから、琳も義宣が祥に内密にしようとしたことを知って、泣いているのではないかと思った。
だが、琳も昌も特に変わった様子は見られなかった。義宣も、そんな二人に祥に教えたのかと聞くことはできなかった。琳は義宣を恐れているのだから、もし義宣が機嫌を悪くするようなことをしたのならば、必ず態度に現れるはずだ。その琳の様子がおかしくないということは、この二人は何もしていないということなのだろう。
琳の腹は、前に見た時よりも膨らんでいた。腹の中の子は、確実に成長しているのだ。今の琳に負担になるようなことは言うべきではない。祥のことは、何も言わない方がいいはずだ。体を大事にするように告げると、琳はかすかに微笑んで頷いた。
祥の言ったとおり、おそらく自然と耳に入ったのだ。人の口に戸は立てられない。いくら義宣が口止めをしたところで、いずれ知られてしまっていたに違いない。それが、思わぬ形で、予想以上に早く知られてしまっただけのことだ。
だが、祥にはなるべく知られたくなかった。知ってしまったら、祥は琳のもとへ通っていた義宣に対して、怒るに決まっている。昔、手をつけた女たちはそうだった。側室にしてほしいとせがまれたり、ほかの女とも関係を持っていると知ると泣き喚いたりした。だから、女は面倒だと思っているのだ。祥も女である以上、ほかの女たちと同じなのだろうと思っていた。義宣の予想は外れなかった。祥は泣いていた。
祥は、八重とも琳とも違った、優しい女だった。そのことに、もしかしたら祥はほかの女とは違うのではないか、という期待があった。だが、結局は祥も女であることに変わりはなかったのだ。
落胆する気持ちが強いが、義宣は祥の言った、義宣を愛す、という言葉も忘れられなかった。確かに、その言葉通り祥は義宣を愛していたように思う。それが、義宣は心地よかったし、癒されていた。そのことを思い出すと、祥を泣かせてしまったことに対して、罪悪感を覚えもする。
謝った方がいいのだろうか。どうやら、義宣は祥を怒らせて泣かせてしまったらしい。謝って祥の気が済むのならば、謝ろうと思う。やはり、祥がいなければどこか寂しい。
あの夜以来、しばらく祥のもとへは足を運んでいないため、気まずさはあったが、義宣は鏡田に祥のもとへ行くと伝えるように命じた。鏡田の態度は常と変わらなかったが、どこか義宣に対する冷たさを感じた。




