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道程  作者: 実川
四 開く花編
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開く花編(六)

 岩瀬の姫には琳の懐妊を知らせぬよう義宣に言われてから、昌は義宣の行動に注意するようになった。義宣が何を考えて、昌にこのことを命じたのか分からない。分からないからこそ、昌は不安だった。

 義宣は、琳の懐妊を確かに喜んでいた。だが、岩瀬の姫のもとへ通うこともやめなかった。岩瀬の姫の部屋から出てくる義宣を、昌は何度も見ている。岩瀬の姫の部屋から出てくる義宣の表情は、琳には見せない穏やかなものだった。その時の義宣の雰囲気から、まだ義宣は岩瀬の姫に琳の懐妊を告げていないように思えた。

 義宣が岩瀬の姫を寵愛していることは、誰の目にも明らかだった。側室に過ぎない姫のために、形だけの祝言を挙げ、三日にあげず通っている。いまだ子ができぬことがおかしいと思えるほどだ。

 義宣は琳が妻になる前、先の御台が存命中の間も側室を置いたことはなかったはずだ。女中に手をつけていたという話は聞いたことがあるが、どの女も正式な側室にはならなかった。家臣たちに側室を迎えることをすすめられたため、岩瀬の姫を側室にしたのかもしれないが、わざわざ祝言まで挙げているのだ。岩瀬の姫は義宣にとって特別なのだろう。側室にすぎないはずなのに、岩瀬の姫は岩瀬御台などと呼ばれている。

 そこまで義宣に寵愛されている岩瀬の姫に琳の懐妊を内密にするということは、義宣に何か考えがあるとしか思えなかった。昌の考えすぎなのかもしれないが、義宣は琳の子を岩瀬の姫の子ということにするつもりなのかもしれない。女中の誰かが産んだ子ということにして、岩瀬の姫の子にしてしまうかもしれない。そして、それを機に琳を側室に格下げし、岩瀬の姫を正室にしようとしたとしても、あり得ない話ではないように思える。

 義宣は、あくまでも正室は琳であり、岩瀬の姫の存在は琳の立場を脅かすものではないと言っているが、どこまで本気で言っているのか分かったものではない。昌は琳には内密で岩瀬の姫のもとへ行くことにした。義宣には口止めされているが、岩瀬の姫に琳の懐妊を告げるつもりだ。義宣が何か行動に移す前に、岩瀬の姫にも琳が義宣の子を身ごもったのだと知らせておけば、琳の立場を守ることに繋がるだろう。考えすぎだとは思うのだが、昌は黙っていられなかった。

 昌が岩瀬の姫のもとを訪れると、姫は快く昌を招き入れた。姫の部屋には、姫の侍女と養母である二階堂後室もいた。琳の懐妊を告げるには、ちょうどいい。

「わたくし、御台様にお仕えする昌というものです。本日は、突然の訪問にも関わらず、お招き入れくださりありがとうございます」

「いいえ。お昌殿には、一度お会いしていますね。御台さまは、お元気ですか?」

「ええ、それはもう」

 岩瀬の姫の言うとおり、昌は一度姫に会ったことがある。姫が側室に迎えられた時、琳のもとへ挨拶に来たのだ。その時以来、久しぶりに見た岩瀬の姫の顔を見たが、岩瀬の姫は特別美しいというわけではなかった。何が義宣を惹きつけるのか、昌には分からない。身びいきだが、琳の方が顔立ちは可愛らしいと思う。

「ところで、本日はどのような用向きでいらっしゃったのでしょう?」

 そばで控えていた岩瀬の姫の侍女が口を開いた。侍女は、昌の突然の訪問を不審に思っているようだった。

「特別、用事があるというわけではないのですよ。ただ、岩瀬の姫様がご存知ないことを、わたくしは知っているようですので、お伝えするべきかと思いまして」

「わたしの知らないこと? 何でしょうか?」

「まあ、岩瀬の姫様は本当にご存知ないのですか?」

「お昌殿、姫様に対して、少々無礼なのではありませんか?」

「鏡田、わたしは気にしていないわ」

 昌の言葉に、鏡田と呼ばれた姫の侍女はかすかに怒りを見せたが、姫はそれを制した。昌の態度よりも、昌が知っていて自分が知らないということの方が気になっているようだ。姫は昌の礼を欠いた物言いにも気を悪くすることはなかったし、昌に笑みを向けている。だが、その円満そうな人柄が、昌はかえって気に障った。

「無礼なのはどちらでしょうか、鏡田殿」

「どういうことですか?」

「岩瀬の姫様は、お屋形様の側室というお立場にも関わらず、家中において岩瀬御台様などと呼ばれていらっしゃいます。これは、御台様に対して、無礼甚だしいではありませんか」

「お昌殿、何をおっしゃるかと思えば」

「姫様がお屋形様の従妹でいらっしゃるからでしょうか? それとも、蘆名家の姫であり、二階堂家の姫でもいらっしゃるから? そんな姫様は、側室であっても御台様と呼ばれて構わないということでしょうか?」

 岩瀬の姫に対して文句を言いに来たわけではなかったのだが、昌はこのことを以前から思っていたのだ。一度言葉にしてしまうと、止まらなかった。鏡田は昌の言葉に怒りをあらわにしているが、岩瀬の姫も二階堂後室も黙って昌を見つめていた。

「御台様は、幼い頃からずっと佐竹のお家の人質でした。先の御台様が亡くなられたあと、まだ十を過ぎたばかりの幼い姫様が、お屋形様の御台様になりました。御台様のご実家は、結城家に従いつつも佐竹家に従っておりました。お父上が背信なされば、妻といえども御台様はきっと斬られましょう。先の御台様はご病死ということになっていますが、実は自害なさったとか、お屋形様が死に追いやったのだとか、そんな噂も御台様はご存知です」

 昌が岩瀬の姫に向かって、琳がいかに佐竹家で心を痛めて暮らしてきたのか説いていると、廊下から足音が聞こえてきた。その足音は、岩瀬の姫の部屋に近づいてきている。急いでいるようだった。

「岩瀬殿、こちらに私の侍女が参ったと伺いました。お部屋に入ってもよろしいですか?」

「まあ、御台様。鏡田、御台様をお通しして」

 足音の主は琳だった。琳にはここへ来ることを告げなかったが、誰かが昌の姿を見て、今までの話も聞いていて、琳を呼びに走ったのだろう。琳は青ざめた顔で、昌の袖を引き、帰ろうと目で訴えたが、昌はまだ肝心なことを言っていない。琳とともに戻るわけにはいかなかった。

「御台様はお屋形様には一切逆らわず、従順でおとなしい妻でいらっしゃいました。それなのに、なぜ貴方様の方がお屋形様には可愛がられるのか」

「お昌、岩瀬殿に何を言っているの。お屋形様がどう思われるか」

「貴方様はお屋形様のご寵愛を受けていらっしゃる。しかし、お屋形様のお子を身ごもられたのは、他の誰でもない御台様です。貴方様ではありません」

「お昌、もうやめましょう」

 琳は昌の袖を握り締め、これ以上岩瀬の姫に対して無礼なことは言わないでほしいと訴えている。義宣の寵愛を受けている岩瀬の姫に無礼を働いて、義宣の機嫌を損ねることを恐れているのだろう。岩瀬の姫は何も言わなかった。昌の無礼に怒っているようには見えなかった。ただ、呆然としている。

「え?」

 一瞬の沈黙の後、岩瀬の姫は小さく呟いた。驚きのあまり表情が固まっている。それは、二階堂後室も鏡田も同じだった。この三人は、義宣から何も告げられていなかったのだから、当然の反応だろう。だが、驚いているのは琳も同じだった。琳は、義宣が琳の懐妊を岩瀬の姫には内密にしようとしていたことを知らなかったのだ。

「あなた、お屋形様から何も聞いていないのですか?」

 琳の声が静かな部屋の中にぽつりと落ちるように響いた。

 岩瀬の姫の沈黙は、何よりも雄弁な沈黙だった。琳は黙り込む岩瀬の姫を見て、悲しそうな顔をしたが、同時にわずかばかりの喜色も浮かんでいるように見えた。

「お昌殿とおっしゃいましたか。貴方が何のためにここへ来たのか、よく分かりました。御台様、娘の分も、私からお祝い申し上げます。後日、娘とともにお祝いのご挨拶に伺わせてくださいませ。お昌殿が教えてくださらなければ、とんだ無礼を働くところでした」

「ありがとうございます、岩瀬のかみ様。こちらこそ、昌の無礼の数々、お許しいただけましたら幸いです」

 丁重に頭を下げる二階堂後室に琳も頭を下げて応えた。昌もわざとらしく平伏した。

「後室御前、よろしいのですか?」

「鏡田、落ち着きなさい。よろしいですね、お祥?」

「え、ええ。御台様、おめでとうございます。お昌殿、教えてくださってありがとう」

 岩瀬の姫は何とかそれだけ言い、頭を下げた。それに琳も目礼を返し、琳と昌は岩瀬の姫のもとを去った。

「お昌、今日のことを、私はお屋形様に言わない。きっと、あの方も言わないと思う。あの方は、そういう方だと思うの」

「昌もそう思います。御台様、差し出た真似をして、申し訳ありませんでした」

「うん。こんなことは、もう二度としないで。けれど、お昌が私のことを思って行動したのだということは、分かっているから」

「申し訳ございません」

「お昌」

「はい」

「私、あの方に、御台様と呼んでほしくなかった。側室なのに、御台様と呼ばれる人に、御台様と呼ばれたところで、私は自分がみじめに思えたわ」

 琳の涙が、静かにこぼれ落ちた。昌は琳の肩をそっと抱いた。琳の肩は細く頼りない。まだ十六歳の少女だというのに、この身には佐竹家のお世継ぎを宿しているのだ。義宣にとって初めての子は、琳の子どもだ。岩瀬の姫の子ではない。

 琳の涙を見て、昌は岩瀬の姫を寵愛し、琳を不安にさせる義宣を恨めしく思った。同時に、琳を脅かすすべてから、琳を守るのだと改めて決意した。

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