那須の女と伊達の女編(二十二)
資晴からもらった懐剣に映る自分の顔をしばし見て、八重は胸に懐剣の切っ先をあてた。
もはや、生きていたところで何の意味もない。那須に帰ることは許されず、帰る家も失った。資晴のもとへ行くことはできない。妹のように思っていた吉野も失った。この身は辱められ、その結果生まれた我が子も死んだ。血なまぐさい城で蟄居、謹慎すら耐えがたいというのに、この上寺に幽閉という屈辱が与えられようとしている。
それに、最近では須賀川からやってきたという幼い姫に館を与え、義宣が厚く遇しているという噂も聞いている。その姫は、姑の姉の娘らしいが、館を与えられるほど手厚く保護されているということは、もしかしたら義宣は、あの姫を後妻に迎えるつもりなのかもしれない。だから、八重を幽閉しようと言うのだ。離縁はしないと言いながら、後妻を迎える用意をしているに違いない。
ならば、八重に残された道はひとつしかない。多くの血で染まった太田城を、八重の血でも染め上げるのだ。佐竹家を名門だと誇りに思っている義宣にとっては、妻の自害は名門に傷をつける醜聞に違いない。妻の実家が改易されたことも、耐えがたいに違いないのだから、八重が自害した時、義宣がどのような顔をするのか、想像すると滑稽で笑いたくなってくる。
義宣は、八重を妻だと言ったが、八重は最初から義宣を夫だとは思っていなかった。八重の心は常に遠く離れた那須にあった。佐竹家に嫁いだのも、義宣におとなしく抱かれていたのも、未だにこの城に留まっているのも、すべては資晴のためだ。資晴に頼まれたから、資晴のために八重は義宣の妻になってやったのだ。そのことを、義宣は分かっていない。
八重は佐竹義宣の妻ではない。那須資晴の妹だ。
那須の女の覚悟と意地を、義宣に思い知らせてやる。八重は自らの力で、那須に帰るのだ。
懐剣を握る手に力をこめ、一気に胸に突き刺した。血が飛び散り、白い婚礼衣装を赤く染めるのを、八重は見た。あれは、婚礼衣装ではない。血染めの死装束だ。
「御台様っ」
朝霧の絶叫が響いた。だが、その声は遠く聞こえる。走り寄って来た朝霧は、涙を流してうろたえているようだった。
「御台様、何ということ。わ、わたし、人を呼んで参ります」
「朝霧」
「は、はい」
「あれを、次郎殿に」
「御台様のご婚礼の時の。お屋形様に、お渡しすればよろしいのですね?」
「あれは、わたくしの死装束よ」
「必ず、お屋形様にお渡しいたします、御台様」
血に染まった婚礼衣装を指差すと、朝霧は八重のその手をとって、何度も頷いた。八重に近寄り、手を取ったせいで朝霧の小袖も八重の血で染まっていた。
「朝霧、懐剣を抜いて、止めを」
「そんな、わたしにはできませぬ。御台様、お医師を呼べば、きっと」
朝霧が涙を流して首を振る間にも、八重の体からは血が流れ、命は徐々に削られていく。朝霧には、八重に止めを刺すことはできなそうだ。苦しみに耐えながら、八重は自ら懐剣を再び握り、胸から抜こうとした。
「佐竹の者ども、那須の女の覚悟を、思い知るがいい。わたくしが、御家の行く末を見届けてくれる」
佐竹の者に与えられた辱めを、八重は決して忘れない。八重の血とともに、八重の思いはこの城に染みつき、佐竹の者を苦しめるだろう。だが、八重の魂は佐竹になど縛られない。遠く懐かしい那須へと帰るのだ。
息は苦しかったが、それだけ言い放ち、八重は胸に刺さっている懐剣を引き抜いた。血が勢いを増して流れ出す。朝霧の悲鳴が聞こえたような気がした。
遠のく意識の中、八重は寿亀山と烏山城、そこに流れる那珂川を見た。幼いころに兄と遊んだ、懐かしい那須の景色だった。
八重が自害したという知らせを、義宣は信じられなかった。だが、太田城にいる義重からの知らせなのだ。義重が、義宣に八重の死を偽るはずがない。
心臓を鷲掴みにされたようだ。心臓が早鐘を打っている。八重の死を聞いた時、一瞬頭の中が真っ白になった。何も考えられず、何も聞こえなかった。時が止まったようだった。
落ち着いてくると、すぐにでも太田城へ行って真相を確かめたい気持ちが浮かんできたが、それと同じくらいに、なぜこのような時に自害などするのか、という憤りもあった。今の義宣は危うい立場にいるのだ。妻が自害したと秀吉に報告したら、何と思われるか分かったものではない。だが、それ以上に信じられないという思いが強かった。
水戸城に義重がやって来た。八重の死について、義宣と話をするためだろう。
「御台は、本当に自害したのでしょうか?」
「そのようだな。わしは、直接自害する瞬間を見たわけではない。だが、部屋の状況から考えるに、あれは自害以外ありえぬ。御台の遺体の側には血に塗れた那須家の家紋付きの懐剣があり、胸に刺し傷があった。御台の部屋は、血で赤く染まり悲惨だったぞ。御台の側にいた侍女は、病死だと言い張るのだが、明らかに胸を突いての自害だ」
「遺書は、あったのでしょうか?」
「いや、見つかっておらぬ。だが、あの侍女が遺言を聞いた可能性はある。決して口を割らぬのだがな。口を割らぬということは、遺言があったとしても、良い遺言ではないということじゃ。聞かぬ方が良い」
「そうですか」
遺書がないのならば、八重の自害は以前から計画していたものではなく、突発的なものだったのだろうか。そうであってほしい。
「御台の顔を、見に行ってはなりませんか?」
「やめておけ。殿下が何と思いになるか分からぬ以上、下手に動かぬことだ」
「はい」
「明日、御台の側におった侍女を連れてこよう。御台の死体のそばで泣いていたのだ。葬儀の手配も、わしが進めておく」
「分かりました。お願いいたします」
頭を下げると、義重は葬儀の準備に取り掛かるため、太田城へと戻って行った。ひとり残された義宣は、呆然と座り込んでいた。考えることは多いはずだ。秀吉や三成にどう報告するのか。葬儀はどうするのか。家臣たちにはどう説明するか。だが、何も考えられない。眠ってしまいたいと思ったが、眠ることもできなかった。
考えが頭の中を巡ってまとまらない。だが、ひとつだけ義宣の頭の中から決して離れない考えがあった。秀吉に何と思われるのか。これから佐竹家はどうなるのか。そのことが何よりも気がかりだった。なぜこのような時に自害をするのだ、と八重に対する憤りを覚える。
八重の死を悼む気持ちがないわけではない。だが、生きている間も義宣は八重が憎かった。死してからも義宣を苦しめるのかと思うと、やはり憎いと思うのだ。
夜が明けるまで、義宣は一睡もできなかった。日が昇り、太田城から八重の侍女がやってきたと知らせを受けた。やってきた侍女は、朝霧だった。手には、血で染まった白い打掛を持っている。その打掛を、義宣は知っていた。八重と結婚した時に、八重が着ていた婚礼衣装だ。
朝霧は平伏して、義宣に打掛を渡した。その打掛を手に取り、血の跡を指でなぞる。朝霧がわざわざこの打掛を持ってきたということは、八重が渡すように命じていたのだろう。血で染まった白い打掛。まるで、切腹した武士の死装束のようだ。
そう思った時、義宣は、はっとした。そうか、八重は自分の意地を通すために自害したのだ。那須の女としての意地を通すために、死を選んだに違いない。以前、八重は言っていたではないか。自分の力で那須に帰る、と。それは、こういうことだったのだ。そして、義宣にこの血に染まった打掛を渡したのは、自分は最初から義宣と結婚したとは思っていなかった、とでも言いたかったからだろう。
何という女だ。どこまで義宣を拒絶し、馬鹿にすれば気が済むのか。この時、義宣は八重の死を悼む気持ち以上に、八重を憎む気持ちが強かった。八重が憎くてたまらなかった。
「御台は、なぜ死んだ?」
どのような答えを期待しているのか自分でもわからない。義重に対して何も話さなかった朝霧が義宣に八重の死の真相を話すとは思えなかったが、聞かずにはいられなかった。
「御台さまは、急な病に侵されまして、ご病死なされました」
義宣の問いに肩を震わせた朝霧は答えた声まで震えていた。
「病死。御台は急に胸でも患ったのか。それで、吐血をして死んだ。そういうことか?」
「仰せのとおりにございます」
「そうか」
白々しい。朝霧は自分の主である八重を庇っているのだろう。義重から聞いた通りの答えだ。朝霧を責めても仕方がないが、八重は自害したに違いない。
「あの、こちらはいかがいたしましょうか?」
恐る恐るといった様子で義宣に尋ねる朝霧はいっそ哀れだった。
「燃やせ」
「え?」
手にしていた打掛を朝霧に投げ返すと、朝霧は慌てて打掛を拾い、驚愕の表情を浮かべた。
「跡形もなくなるように燃やしてしまえ。御台の遺品はすべて燃やせ。御台が急な病で死んだのだ。御台の遺品に、その病のもととなったものがあるかもしれないだろう?」
「ですが、すべてでございますか? 打掛も、小袖も、何もかも」
「俺がそう言っている。御台の遺品はすべて燃やす。そうだな、烏山の方角に向けて燃やしてやれば、御台も喜ぶのではないか」
八重が生きている間、義宣は一度も八重を喜ばせることができなかった。はっ、と自嘲の笑みを漏らすと、朝霧は言いにくそうに、あの、と口を開いた。
「実は、この打掛は御台様が殿様にお届けするようにと遺言されたものです。それでも、燃やさなければならないのですか?」
思った通り八重の遺言だったか。とんだ当てつけだ。
「燃やしたくないのか?」
「あ、いえ、その」
口ごもる朝霧は、否定の言葉を口にしようとしているが、その態度を見れば何を望んでいるかは明らかだ。義宣は立ち上がり、朝霧が胸に抱こうとした打掛をもう一度掴んだ。
「お前が燃やしたくないというのならば、俺が燃やすまでのことだ。御台は俺に受け取ってほしがっていたのだろう? ならば、俺が手ずから灰にしてやる。お前は御台の遺品を燃やせ。畳も襖もすべてだ。御台の血がついているだろうからな」
八重に関するすべてを、燃やして消し去ってしまいたかった。義宣の剣幕が恐ろしかったのか、朝霧は慌てて太田城へと戻って行った。
朝霧が立ち去った後、義宣は小姓たちが止めるのも聞かず、手ずから八重の打掛を火にくべた。打掛が炎に包まれ燃えるのを、目をそらさずに見つめていた。
「どこまでも、那須の女か」
義宣の呟きは、炎にのみこまれて消えた。八重の打掛は灰となり、風に舞って飛んでいったが、八重の死は、打掛に染みついていた血のように、義宣の心の奥底に染みついたようだった。
その後、三成に妻は病死したと報告すると、秀吉はそれを信じたようだった。もう那須家のことで義宣に何か言うことはない、と三成からの書状に書かれており、義宣は安堵した。それと同時に、那須家が資晴の子の藤王丸を当主とし、五千石の大名として返り咲いたとも聞いた。だが、義宣にとってはどうでも良いことだ。妹が死んだと報告する必要もないだろう。那須家と佐竹家の縁は、八重の死の前からとっくに切れている。
家中の者たちには八重は病死したと告げた。八重は原因不明の病のために上洛していない、ということになっていたのだから、誰もが病死に納得していた。
太田城に戻った朝霧は、義宣の命令通り八重に関する物はすべて焼いたようだった。義重が立ち会ったと言っているのだから、間違いない。朝霧の姿は、八重の物を処分した次の日から見えなくなったと聞いている。
八重の死後、義宣の後妻は、母の姉で義宣にとっては伯母にあたる阿南の養女、蘆名家の血を引く二階堂家の姫がふさわしい、という話が出た。だが、多賀谷重経がなかば強引に父に頼みこみ、母とともに上洛している人質の多賀谷家の姫と決まった。
八重の葬儀は、八重を幽閉するはずだった耕山寺で、密かに行った。義宣は一度も、八重の死に顔を見なかった。




