那須の女と伊達の女編(十一)
岩城常隆が田村を討つというので、義宣は義重と、弟の蘆名義広とともに常隆に協力すべく、兵を須賀川に進めた。母が義久に政宗を助けさせてから、そろそろ一年が経とうとしている。
この一年の間に、政宗との間に戦はなかったが、またいつ戦があるか分からない。天下を統一しつつある豊臣秀吉は、私的な戦をやめさせようとしているようだが、政宗に攻められた場合、こちらも黙っているわけにはいかない。
佐竹と蘆名は太平城を攻め取ることになったが、守りは固く、そう簡単に攻め落とせるものではなかった。佐竹と蘆名が協力すれば、落とせないものではないだろう、と思っていたのだが、蘆名は城を囲んだまま動こうとしなかった。
そのまま数日が過ぎ、義広は何をしているのか、と義重が怒り始めたころ、ちょうど義広が佐竹の陣へやってきた。義重は義広を怒鳴りつけようとしたようだったが、義広の顔が強張っているのを見てやめていた。
「父上、兄上、申し訳ありません。蘆名の兵は何をしているのだとお思いでしょう。しかし、数日前から、家中に伊達へ通じているものがいるとの噂があり、動けずにいました。先ほど、城から知らせがあり、政宗が我が黒川城へ攻め寄ろうとしているとのことです」
「そうか」
「このままでは、黒川城を落とされてしまうかもしれません。申し訳ありませんが、私は城へ戻り、城を守りたいと考えます」
「それでは仕方がなかろう。急いで帰陣し、守りを固めるべきだ」
「ありがとうございます」
義重は渋い顔をしていたが、蘆名勢の帰陣を認めた。義広は急いで兵をまとめ、黒川城へと戻って行ったが、なぜ父がその許可を出すのだろうか。佐竹としての許可を出すのならば、当主である義宣が出すのが当然ではないのか。
だが、弟の危機にそのような小さいことは言っていられない。この思いは、胸の内で留めておくことにした。
義広が黒川城へ戻ってからも、義宣は父と太平城攻めを続けていた。もう少しで城は落ちるだろう。太平城を抜くことができれば、佐竹が蘆名の助けに向かうこともできるはずだ。
義宣は太平城を抜いた後、義広を助けようと思っていたのだが、義広から届いた知らせに義宣は愕然とした。義重も言葉を失っていたようだった。
義広が黒川城へ帰った時には、すでに蘆名家の族臣である猪苗代盛国が政宗に応じて、義広に背いた後だった。猪苗代盛国は自分の守る猪苗代城へ政宗ら伊達の軍勢を招き入れ、蘆名との闘いに備えていたのだそうだ。
義広はこれを討つべく、その日の夜のうちに摺上原へ兵を進めた。そして、翌日に伊達勢と戦い、四百騎余りで政宗の本陣である八ヶ森へも迫ったそうだが、ついには政宗に敗れてしまった。義広は、かくなるうえは腹を切るしかない、と死のうとしたそうだが、佐竹家から義広に従って蘆名へ行った者たちに止められ、黒川城へ帰陣した。
義宣たちと別れて義広が黒川城へ戻ったのは、確か三日ほど前だったはずだ。わずかここ二、三日の間で、蘆名は伊達に惨敗してしまったというのか。
義宣は義重と相談し、急いで太平城を攻め落としたが、蘆名の救援には間に合わなかった。義広は黒川城を捨て、蘆名を継ぐ前に養子となっていた白川へ出奔したのだそうだ。
義広が政宗に敗れ、黒川城へ戻った段階で、蘆名家の宿老二人とその息子が政宗に内通していた。宿老が政宗に応じてしまった以上、城を保つことはかなわず、義広は城を政宗に明け渡してしまったのだ。
白川から佐竹の陣へたどり着いた義広は、佐竹家から従って行った家臣二人と、白川家にいた頃から世話になっていた家臣二人、それに妻の五人を連れただけだった。ほかの家臣たちは散り散りになっており、再び集まることがかなうかどうかも分からない。
「私の力が至らないせいで、城を保つことすらかなわず、父上にも兄上にもご迷惑ばかりおかけして、申し訳なく思っております」
「今となっては、どうすることもできない。生きていれば、いつかは蘆名家を再興することもできるだろう。今は、佐竹へ戻り、再起の時を待つしかあるまい」
「兄上、私は佐竹へ戻ってもよいのでしょうか?」
「俺はかまわない。父上は、いかがお思いですか?」
「わしも、今は佐竹へ戻るしかないと思う」
「ありがとうございます。妻のためにも、いつか必ず蘆名家を再興したいと思います。その時まで、お世話になります」
義宣と義重の言葉を聞いて、義広は涙を流しながら頭を下げた。義広の妻も、泣きながら頭を下げている。義広の妻は蘆名家の娘だ。蘆名盛隆の嫡女を義広が妻に迎えて、蘆名家を継いだ。義広の妻は、自分の実家が政宗に滅ぼされてしまい、さぞ苦しい思いをしているだろう。義広も、自分が継いだ家を滅亡に追いやってしまい、苦しんでいるに違いない。
そんな弟たちの姿を見ていると、義宣も胸が痛む。だが、同時に母への怒りがこみあげてくる。母が義久に政宗を助けさせなければ、義広がこのような目にあうことはなかったかもしれない。それに、今政宗に家を滅ぼされたのは義広だが、明日は我が身かもしれないのだ。
会津恢復をはかり、しばらく兵を須賀川に留めていたところに、豊臣秀吉と越後の上杉景勝からの書状が届いた。秀吉の書状は義重にあてられたもので、景勝の書状は義宣にあてられたものだった。
秀吉の書状は、景勝から政宗が会津を攻めていることを聞いた、政宗には兵を退くように書状を送ったので、それに背いた場合はこちらが兵を差し向けるつもりでいる、蘆名のことは悪いようにはしない、出陣の場合は景勝とよく相談するように、という内容だった。義広は以前から秀吉と誼を通じていたため、このような書状が送られてきたのだろう。佐竹でも秀吉とは誼を通じている。
景勝の書状も、内容は秀吉と同じようなもので、いざという時には援軍にかけつけるつもりでいる、と書いてあった。
ただ違うのは、秀吉は義重に書状をあて、景勝は義宣に書状をあてているということだ。上杉家とは、先代の謙信の頃から親交がある。そのため、景勝は義宣が家督を継いだことを知っているのだ。だから、義宣にあてて書状を書いた。秀吉は、義宣が家督を継いだことを知らなかったのだろう。いまだに佐竹家の当主は義重と思っているため、義重に書状を出したに違いない。
上方では、いまだに佐竹家の当主は鬼義重、坂東太郎と呼ばれた義重だと思われているのだと思うと、溜め息をつきたくなった。
秀吉と景勝からの書状が届いたことによって、佐竹は兵を退くことにした。これ以上留まっていても、会津を政宗から取り返すことは難しいだろうし、秀吉が出陣の際は景勝と相談するように、と言っている以上、今はおとなしく帰陣するしかない。
太田城へ戻ると、義広が佐竹へ戻ると聞いていたのだろう、母が出迎えに現れた。
「義広、そなたが無事で本当に良かった。慣れぬ会津の地で、どれほど心細い思いをしていたかと、母は心配していたのだよ。これからは、父上や義宣と一緒に、佐竹のために尽くしておくれ」
義広の手を取り、無事で何より、と嬉しそうに繰り返す母を見て、義宣は怒りを抑えるのに必死だった。母は何を考えているのだ。何が、無事で良かった、だ。母が可愛い甥を助けたせいで、わが子は国も城もすべて失ったというのに。そのことを理解していないのだろうか。この場には、義広の妻もいるのだ。義広もその妻も、何と思っていることか。
その後十月になり、政宗は兵を須賀川に進めた。須賀川は、亡き二階堂盛義の妻である阿南が女城主として守っていた。阿南は母の姉にあたる伊達家の長女で、義宣にとっては伯母だった。
義宣としては、出陣して須賀川を助けたかった。須賀川が抜かれれば、政宗が次に攻めるのは佐竹に違いない。だが、秀吉は書状で、出陣の際は景勝と相談するように、と言ってきている。つまりは、出陣するなと言っているようなものだ。
仕方なく、義宣はわずかの兵を援軍として須賀川へ派遣した。だが、須賀川城の城内では、二階堂四天王と呼ばれた重臣や族臣が政宗に内通しており、戦が始まる前から負け戦と決まっているようなものだったらしい。
阿南は宿老の須田盛秀とともに、最後まで政宗に抵抗したが、ついに政宗に捕らわれてしまい、須賀川城は炎に包まれ落城した。二階堂家に最後まで忠節をつくした須田盛秀は、戦の後に佐竹家へやってきたので、義宣が召し抱えた。
母が政宗を助けたせいで、今度は母の姉が憂き目を見た。実家を助けるために、自分の身内がどのような目にあっているのか、母は理解していないのだろう。なぜ、母はこうなのか。考えれば考えるほど、腹の虫がおさまらなかった。




