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道程  作者: 実川
一 無垢の子ども編
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無垢の子ども編(二)

 穿きなれぬ袴の裾に足を取られそうになって、梅津金阿弥うめづきんあみは少しよろめいた。それに気付いたのか藤道が振り向く。恥ずかしくて、何事もなかったように振る舞ったが、藤道は苦笑していた。

 初めて上がる水戸城内は緊張する。藤道の屋敷も立派な屋敷だと思うが、やはり城となると規模が全く違う。歩いている廊下も磨き上げられていて、もしかしたら自分の姿が映るのではないだろうか、と思ってしまう。先導する藤道の背中を追いかけるので精一杯だった。

 数日前までは、自分が城に上がるなど考えたこともなかった。兄の憲忠のりただは城で佐竹家の当主、殿様である義宣の側近くに仕えているが、末っ子の自分はせいぜい出世して藤道の祐筆になれればいい方だと思っていた。金阿弥は藤道に会うことすら滅多にないのだから、まさか城に住むような高貴な人物と会えるとは思ってもみなかったのだ。

 だが、数日前に城から戻った藤道にいきなり呼び出され、お目見えが許されたことを告げられた。何のことか分からず、ぽかんとしていると、殿様にお会いするのだ、と教えられた。

 その日から毎日、城に上がった時の礼儀作法や、義宣にお目見えしたときの振る舞い方などをみっちりと教え込まれた。憲忠にもどうすればいいか聞いた。憲忠は、そう難しく考えることはない、と言ってくれた。父は金阿弥がお目見えを許されたことをとても喜んでくれた。

 今日は朝から譜代の子弟が着るような質の良い小袖と袴を着せられた。さすがにいつも着ているものでは粗末すぎて、殿様の御前には上がれないのだろう。金阿弥を気遣って藤道が用意してくれたのだ。だが、こんな立派な格好をした自分は自分ではないような気がした。それに、似合っていないと思う。不釣り合いなのだ。そう思って、金阿弥は見える範囲で何度も自分の格好を確認した。藤道は似合っていると言ってくれた。それが金阿弥は嬉しかった。

 前を歩く藤道の足が止まり、金阿弥も同時に足を止めた。藤道は振り向いて金阿弥の耳元に口を寄せた。

「良いか、教えたことは覚えているな?」

「はい」

「殿はお前の兄の半右衛門はんえもんの話題も出すだろうが、いつものように『兄上』と呼んではならぬからな」

「分かっております」

 本番で失敗しないように、家でも憲忠のことは通称である半右衛門と呼んで練習してきたのだ。せっかくお目見えの場が与えられたのだから、失敗してはいけない。失敗したら、目をかけてくれた藤道に恥をかかせることになるのだと父にきつく言われてきた。ぎゅっと胸元を握りしめると、藤道が、そうか、と呟いた。

「殿、人見主膳にございます」

「入れ」

 襖越しに聞こえた声に金阿弥の緊張は一気に高まった。今の声が、義宣の声なのだ。大きく息を吸って落ち着こうとしたが、落ち着かない。襖は開かれ、藤道は室内へと入って行く。その後ろについて、金阿弥も室内に足を踏み入れた。

 緊張で足が自分の足ではないようだ。袴が真新しく穿きなれないものだということも重なって、とても歩きにくい。廊下でよろめいたときのようになってはいけない。しゃんと背筋を伸ばし、足を進めた。

 だが、ただ足を進めたはずなのに、金阿弥の視界が揺らいだ。あ、と思わず声が出た。その瞬間には、ぐらりと体が傾き既に転んでしまっていた。

「金阿弥」

 藤道の驚いた声が聞こえる。恥ずかしい。恥ずかしくてたまらなかった。顔に熱が集まる。あんなに練習してきたのに、その成果を発揮する前に転んでしまうなんて、台無しだ。鼻の奥がつんとする。こんなことで泣いてどうするのだ、と思うが涙が滲んだ。

「大丈夫か?」

 藤道の声とは違う声がして、顔を上げると、見知らぬ人が手を差し出してくれていた。恐らく、この人が義宣なのだろうということは分かった。先ほど聞こえた声と同じだ。だが、まさか殿様が手を差し出してくれるとは思えず、じっと見つめてしまった。

 もう一度、大丈夫か、と尋ねられ金阿弥は頷いた。だが、この手を取っていいものか悩む。それが伝わったのか、ほら、と急かされ、金阿弥はようやくおずおずと義宣の手に自分の手を重ねた。その手をいきなり引っ張られ、驚いている間に義宣に抱き上げられていた。

「殿、お止めください」

「別にいいだろう、主膳。かわいそうに、まだ本当に子どもではないか。神童と言っても、せめて十三、四にはなっていると思っていた。泣かなくてもいい。緊張したのか?」

 義宣は金阿弥が転んだことを怒っていないらしい。それどころか、優しい言葉をかけられて嬉しかった。つい気が緩んでしまい、素直に頷くと、藤道の、こら、という声が聞こえた。だが、義宣は静かに、そうか、と言った。

「お前は素直な子どもだな」

「ありがとうございます」

 やっとの思いでそれだけ口にすると、畳の上に下ろされて、ぽんぽんと頭を軽く撫でられた。

「改めて聞こう。名は何という?」

「は、はい、梅津金阿弥です」

 立ったまま頭を下げた後、本当は平伏して、もっと難しい言葉を使わなければならなかったのだと思い出したが、もう遅かった。

「では、半右衛門はお前の兄か?」

「はい」

「いくつになる?」

「十一になりました」

「兄と一緒に働きたいか?」

「兄上と一緒に働いてもよろしいのですか?」

 ぱっと顔を上げた後に、またしても自分の失敗に気づいた。室内に入る前も藤道に注意されたというのに。あまりの失敗続きに、また泣きそうになってしまう。はっとして口を押さえる金阿弥がおかしかったのか、義宣が笑みを漏らした。藤道はため息をついている。

「主膳、金阿弥を俺にくれ」

「殿、よろしいのですか?」

「ああ、気に入った。金阿弥も半右衛門と共に働くことを望んでいるようだ。いいではないか」

 なあ、と話を振られてもどう答えたらいいのだろうか。ただ、兄と一緒に働けると嬉しいことは事実なので、義宣の言葉に頷いた。

「分かりました。殿がそこまでおっしゃられるのなら、明日からでも金阿弥は登城させましょう」

「そうしてくれ。こいつの父親にもお前から話を通しておけ」

「はい」

 金阿弥が黙っている間に、義宣と藤道の間では話がまとまったらしい。金阿弥は藤道ではなく義宣の家臣になったということでいいのだろうか。

「ではな、金阿弥。明日から、お前は俺のものだ」

 先ほど撫でられたときと同じように頭を撫でられる。その手があたたかくて、何だかとても嬉しかった。

「はい、お殿様」

 金阿弥が笑うと、義宣も小さく笑ってくれた。

 藤道に連れられて退室するとき、一度だけ振り返ると、義宣が軽く手をあげてくれた。それに手を振ってこたえると、藤道に怒られてしまった。

 だが、退室してから藤道が、よかったな、と言ってくれて、嬉しかった。

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