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道程  作者: 実川
三 那須の女と伊達の女編
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那須の女と伊達の女編(八)

 徳寿丸とくじゅまる様、と自分のことを呼ぶ声が聞こえる。この声は、乳母のおしばだ。今日は昼から、一門の義久、又七郎、三郎と一緒に弓の稽古をすることになっていた。それが終わったら、義久が何かの講義をするとも言っていた。おしばが徳寿丸を呼んでいるのは、それのためだ。

「徳寿丸様、こんなところにいらっしゃったのですね。さあ、一門の皆様がお待ちですよ。ご準備なさってくださいませ」

「分かっている」

 おしばに急かされながら弓の準備をする。三郎も自分が準備をする時に、徳寿丸に声をかけてくれればよかったのに。三郎の父親は、父の弟でもう五年以上前に亡くなっている。父は三郎を哀れに思って、太田城で徳寿丸と一緒に暮らさせていた。年の近い従兄とは、よく城内で一緒に遊んでいた。今日も朝は一緒にいたはずなのに、自分だけ先に準備を整えるのはずるい。顔を見たら文句を言ってやろう。

 はいできました、とおしばに背中を軽く押され、徳寿丸も稽古場に向かった。稽古場にはおしばの言っていた通り、すでに皆がそろっていた。三郎は徳寿丸を見てにやりと笑った。それに少し腹が立ったので、徳寿丸は三郎を無視して又七郎に話しかけた。

「又七郎、すまない、待ったか?」

「いいえ」

「そうか、良かった」

 又七郎は一門の北家の嫡男だ。徳寿丸と同い年で、一門の中では一番徳寿丸と仲が良い。

「徳寿丸様、それでは弓の稽古を始めますが、よろしいですか?」

「ああ、始めよう」

 本当はもう少し又七郎と話がしたかったのだが、義久に遮られた。義久はどうも苦手だ。同い年の又七郎や、年が近い三郎と違って、十六歳も年上だからかもしれない。苦手だから、義久の言うことにはいつも首を縦に振ることしかできなかった。

 弓や槍の稽古を始めると、一番生き生きしているのが三郎だった。三郎は徳寿丸よりも正確に的を射るし、槍も刀も手合わせをすると徳寿丸よりも上手だった。三郎のほうが三歳年上だから仕方がないのかもしれないが、三郎に負けるのはいつも悔しかった。今も、三郎は的のほぼ真ん中を射ることができた。徳寿丸は、真ん中からは外れてしまった。

 だが、又七郎の矢は徳寿丸よりももっと外側を射ていた。又七郎は武芸があまり得意ではないらしく、いつも徳寿丸が又七郎に武芸を教えていた。その現場を三郎に見られると、からかわれるのだ。今日も又七郎に弓の扱い方を教えたかったのだが、義久がいるので徳寿丸の出番はない。

 徳寿丸と又七郎に、的の中心を射るには何に気をつけるべきか口で説明した後に、義久は手本として矢を放った。義久の矢は的のぴったり真ん中に刺さった。

 さすがは御東殿、と三郎が茶化すように手を叩いた。又七郎も目を丸くして義久を見上げている。義久は涼しい顔で、徳寿丸と又七郎に稽古を続けるように告げただけだった。

 その後何度か徳寿丸は矢を的の中心にあてることができた。又七郎は結局、最後まで真ん中にあてることはできなかったが、最初に比べればかなり上達したと思う。

 稽古の後は場所を移して、義久の講義だ。三郎は、武芸は得意だが手習いや講義は苦手なので、あからさまに嫌な顔をした。だが、義久に冷たい目を向けられ、首をすくめて徳寿丸の後ろをついてきた。

 三郎とは正反対に、又七郎は手習いや講義は得意だし好きなので、とても楽しそうだ。又七郎は徳寿丸と一緒に受ける義久の講義のほかに、わざわざ寺に通って和尚から教えを受けているというのだから、学問好きということがよく分かる。

 今日の義久の講義は孟子だった。この前は、確か墨家の話だった。その前は孔子。よく義久の頭の中にはそれだけ多くの知識が詰まっているものだと思う。徳寿丸は義久の話を聞いていても、分からないところが多くある。三郎はもっと分かっていないようで、大きなあくびをしている。又七郎は義久の話を理解しているようで、目を輝かせながら話を聞いている。

「ここまでの話で、分からないところはありますか?」

「よく分からなかったが、孟子の教えでは、謀反を起こしても良いということなのか? 殷の紂王は家臣に討たれたのだろう?」

「いいえ。明では皇帝というものは、天から天命というものを受けて天子となるのです。殷の紂王は天命を失い、天子ではなく一夫になり下がっていた。そのため、周が殷を討伐したことは、謀反にはならないのです」

「では、どうすれば天命を受けたとか、失ったとか、そういうことが分かるんだ? 天命は見えるのか?」

 義久の講義は分かるようで分からない。今日の話は、明の国で皇帝が変わる時は何が原因なのか、という話だった。天命を言われても分からない。殷と周の話を聞いていると、まるで謀反が認められているような気がして、徳寿丸は少し恐ろしくなったのだ。

「徳寿丸様、天命は見えないのです。天の意志は、民が示すのですよ」

「民が?」

「又七郎殿はよくご存じです。御北様も又七郎殿のようなご嫡男がいらっしゃって、ご安心なさっているでしょう」

 珍しく義久に褒められて、又七郎は照れて笑った。義久は滅多に人を褒めないのだ。徳寿丸は褒められた覚えがない。

「あの、『民貴たみたっとしと為す、社稷しゃしょくこれに次ぐ、君軽しと為す』という教えでして、天下に良い政治を行って、天下の民の帰服を得るものが王となるのだそうです」

「又七郎は物知りだな」

「和尚様に教わりましたから」

「これは遠い明の国の話ですが、徳寿丸様のご参考にもなりましょう。皇帝や天子や王を当主に置き換えてお考えください」

「それは、えーと、天命というものは民が示すのだから、つまり、民に好かれる良い当主にならねばならない、ということか?」

「はい。民だけではなく、家臣たちにも好かれるお屋形様におなりください。御父上のように」

「それは、民に恩恵を与える仁政を敷く政道で、王道というものなのだそうです」

 又七郎が義久の教えに付け足すように言った。難しい内容だが少しわかったような気がする。

「王道か。では、俺が王道を実行することができず、父上のような良い当主になれなかったら、殷の紂王のように一夫になり下がって、又七郎に討たれるかもしれないということか?」

「大まかに言えばそういうことです。それに、徳寿丸様には喝食丸かつじきまる様という弟君もいらっしゃいますし、今後新しい弟君がお生まれになるとも限りません。その場合、家督を継がれるのは徳寿丸様には限らないかもしれないということをお忘れなく」

「義久は俺よりも武勇に優れ、学もある。お前がその気になったのならば、佐竹の天命は俺ではなくお前に移りそうだ」

「お戯れを」

 徳寿丸は半ば本気で言ったのだが、義久は子どもの戯れと思ったのか、一瞬目を伏せただけだった。だが、徳寿丸は義久ならば本気を出せば天命を受けることができると思った。もし明の国にある天命というものが、この佐竹にも存在するとしたらの話だが。そう思うと、面白くない。

「義久、孔子だの墨家だの孟子だの、こういう話はもういい。それよりも『孫氏』や『六韜』、『三略』などの兵法を学びたい」

「俺も、兵法がいいなあ。今までの話は難しくてよく分かんなかったし」

「では、次からはそちらの講義をいたしましょう。明の古の教えは参考にしていただければ」

 三郎の言葉に義久は眉をしかめたが、徳寿丸の希望通り次回からは兵法の講義になった。講義の後、義久は表へ戻り、これから寺に行くという又七郎も別れ、三郎は気づいた時にはどこかに行っていた。

 ひとりになった徳寿丸は、おしばのもとへ行った。おしばは、針仕事をしている最中だったので、抱きつくのはやめにした。それに、もし三郎にそんなところを見られたら、からかわれるに決まっている。

「徳寿丸様、御東様の講義は終わりましたか?」

「今終わったところだ」

 針仕事の手を止めたおしばにぴたりと寄り添うように、隣に座った。おしばは徳寿丸の顔を見て、ちゃんと話を聞いてくれている。

「今日は、孟子の勉強をしたんだ。もし俺が良い当主になれなかったら、又七郎や義久に討たれるかもしれないのだそうだ」

「まあ、それは恐ろしい」

「うん。俺も恐ろしいと思った」

「でも、徳寿丸様ならば大丈夫。必ず良いお屋形様になられます」

「そうだろうか。俺は、俺よりも義久のほうがふさわしいと思った。だって、義久は俺よりも武芸もできるし、知略も優れている。俺は、武芸は三郎よりできないし、学は又七郎には及ばないし」

「もう、何を弱気におなりですか。わたくしから見れば、徳寿丸様ほどのお子はいらっしゃいませんのに。御東様は徳寿丸様よりずっとお年が上ですし、三郎様とも又七郎様とも違って良いのですよ」

「本当に?」

「ええ。わたくしにとっては、徳寿丸様が一番のお子なのです」

 そう言っておしばは、徳寿丸を抱きしめてくれた。少し照れくさくはあるのだが、おしばにこうして抱きしめてもらうのは好きだ。安心する。おしばはどんな徳寿丸でも受け止めてくれる。おしばのそばにいる時が、一番心が安らぐのだ。

 おしばの胸に頭を預け、徳寿丸は目を閉じた。あたたかくて、とても気持ちがよかった。


 はっと目を開けると、目の前に広がるのは見慣れた天井だった。

 夢を見ていた。懐かしい夢。もう十年近く前のことだ。今では南義種みなみよしたねと名乗り南家を継いだ三郎、北義憲として父親とともに宗家を支える又七郎。何よりも、今となってはもう会うこともないおしば。

 幼いころ、徳寿丸の周りには一門の三人がいつもいた。今思えば、あれは父が年の近い三郎、又七郎を徳寿丸のそばに置いて、互いに競い合わせようとしていたのだと思う。そして、三人の目標として義久がいた。その思惑通り、徳寿丸は三郎と又七郎と競い、誰よりも義久を意識していた。

 おしばには、元服してからというもの一度も会っていない。元服してからもおしばがそばにいれば、義宣はおしばに甘えてしまう。それを防ぐために、おしばは義宣の前から姿を消したのだ。今は母の侍女のひとりになっている。だが、義宣と顔を合わせたことはない。

 夢に見た幼いころの記憶の中に、母は登場しなかった。それは当然だ。義宣の思い出の中に、母との思い出など存在しないのだから。母親のように愛してくれたのは、おしばだけだった。

 これが武家のならいと言われれば、確かにそのとおりなのかもしれないが、母に愛された記憶は存在しなかった。それで、よく今まで母の愛を信じようと思い続けてきたものだ。笑ってしまう。

 あれは幼いころの夢だが、今でも義宣に変わらず根付いている気持ちがある。武芸は義種にかなわない。知略は義憲にかなわない。すべてが義久には及ばない。幼いころから今までずっと思ってきた。義久にはすべてがかなわない。武芸も知略も、家臣たちの期待も、母の信頼もすべて義久のものだ。佐竹家御一門、東家当主、佐竹義久。幼いころ感じたように、義久が宗家の当主になってもおかしくないかもしれない。

 隣に視線を移すと、小糸と名乗った女が眠っていた。八重の部屋を出て、この小糸とぶつかって、そのまま義宣は小糸を寝所に連れて来ていた。

 名前しか知らない。ただ廊下でぶつかっただけの女を抱いた。誰でもよかった。女の柔らかさとあたたかさを求めていた。

 だが、満たされることなどなかった。女を抱いている時だけは、何も考えずにただ体に溺れることができた。あたたかさも柔らかさも感じた。ただ、それだけだ。

 満たされない心は、ただむなしく乾いていくだけのようだった。

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