那須の女と伊達の女編(七)
政宗に逃げられてしまった義久を、義重は厳しく叱責した。だが、いくら義久を責めたところで、政宗の首を取れるものではない。義久が政宗に逃げられなければ、今頃この戦は終わり、城に戻って祝杯をあげていただろう。佐竹を脅かす伊達という存在がなくなり、佐竹のためにもなっていたはずだ。首を取る、ということは関白の意向に背くかもしれないので、実際は領地割譲の約定を取り付けて伊達へ返すくらいにとどまっただろう。
結局、政宗に逃げられた後、戦いらしい戦いはなく、佐竹も伊達も互いににらみあって陣を動かなかった。いつまでもにらみ合いを続けていても無駄だと、岩城と石川が間に入って話をまとめ始めたので、岩城と石川の調停で政宗は自領へと戻って行き、義宣も義重とともに太田城へ帰陣した。
伊達の兵は討ち取ったが、佐竹の兵も討ち取られ、勝利と言える勝利を収めることができず、しかし敗北らしい敗北もしていない。出陣した兵の数から考えれば、佐竹の敗北とも見えるかもしれない。中途半端な出陣に終わってしまった。
政宗を捕えたということを知っているのは、義宣と義重、一部の重臣だけだが、このことを知っている者の顔には悔しさが浮かんでいた。
城へ戻り、重臣たちと今後の方針について話し合い、今回の戦は終わった。義久は終始申し訳なさそうにうつむいていた。
政宗を捕え、逃げられてしまった義久。まさか、義久は母に命じられて政宗を逃がしたのではないか。出陣前にも感じたことだ。出陣しようとする父を諫め、出陣を思いとどまらせようとしたのは義久だ。三年前のこともある。
三年前、母の命で義久は自分の舅である小野崎を殺したのではないか、と疑った。あれはあまりにも信じがたい話だったので、小野崎の死は偶然だと思うことにしたが、今回のことは三年前を思えば、あり得ない話ではない。
あり得ない話ではない。だが、あり得ないと思いたかった。いくら実家大事の母でも、甥の政宗を息子である義宣、義広よりも大事に思うことはないだろう。
母は義宣の実の母だ。そのようなことはあり得ない。だが、あり得ない、と何度も言い聞かせるように考えるということは、母を信じていないということにはならないだろうか。
真相を確かめるため、義宣は母の部屋へと向かった。真相を確かめるのは怖い。だが、義宣は母を信じているのだ。恐れる必要はない。
母の部屋の前、声をかけようとすると、部屋の中から母と、母の侍女の小大納言の声が聞こえてきた。
「それにしても、ようございましたね。中務殿があそこまでやってくれるとは思いませんでした」
「ああ、政宗殿が此度の戦で討ち取られ、伊達家が滅亡などということになっては堪らないからね。実家がなくなるのは恐ろしいよ」
「わたくしも、伊達家がなくなるのは恐ろしゅうございます」
「できれば、戦そのものを避けたかったのだが、中務もそれは難しかったようだ。それでも、三年前も此度も中務はよくやってくれた」
やはり、母が義久に命じて政宗を助けさせたのだ。義久が戦に反対していたのも、すべて母に頼まれたからだった。胸が締め付けられるように苦しい。心臓を握りつぶされたような感覚だ。どきりとする。震える手で、義宣は母の部屋の障子を開けた。母と小大納言が驚いた顔で義宣を見る。
「義宣、どうかしたのかい?」
何も知らないような顔をして、母が義宣に声をかけてきた。母は義宣が何も知らないと思っているのだろう。腹が立った。
「母上」
「何?」
「政宗を助けたそうですね。中務に命じて」
母の表情が強張った。小大納言は慌てているようだ。事実だからだ。強張った母の顔を見て、暗く冷たい感情がじわじわと胸に広がっていった。
母は政宗を助けた。佐竹よりも政宗を選んだ。政宗を助けるということが、どういうことか分かっているのだろうか。母は伊達家のことばかり考えていて、佐竹のことどころか、義宣の気持ちも考えてはいないのだ。義広のことも考えていないに違いない。
実の息子だというのに。息子よりも母は甥の政宗を選んだのだ。これは、明確な裏切りだった。
母は何か言い訳をしたそうに、口を開いたが、母の言い分けなど聞きたくなかった。どんな言葉を並べられても、母が政宗を助けた事実に変わりはない。母は義宣よりも政宗を選んだのだ。
「失礼します」
もう母の顔を見たくなくて、逃げだすように母の前から去った。
信じていた。母が義宣よりも政宗を選ぶことを信じたくなくて、母の愛を信じていた。だが、本当は愛されてなどいなかったのだ。かすかな愛情を信じて、自分に言い聞かせていたというのに、その小さな希望も消えてしまった。
母は義宣より政宗を愛していた。戦場で敵である政宗を助けるということは、いずれ義宣を窮地へ追い込むようなものだ。義宣のことを愛していないから、母はそんなことができるのだ。
思えば、義宣が家督を継いだ時、母は何と言った。政宗殿のように立派な当主に。いつも母の心は実家の伊達家に向いていたのだ。何故、そのことに気付かなかった。
家臣に主として認められなくても、母だけは義宣を愛してくれると思っていた。母なのだから、息子を愛してくれるものだと信じていた。誰に愛されなくても、母に愛されればそれだけでよかった。
だが、裏切られた。実の母に愛されていなかった。それは、絶望だった。実の母に愛されないのなら、もう誰にも愛されないような気がした。
義久も義久だ。母の頼みを聞いて政宗を助けるなど、宗家への裏切り以外の何物でもない。義宣を当主として軽んじているから、母の頼みを聞くことができるのだ。三年前、義久は義宣の名をかたって偽りの書状を書いたような人間なのだ。一門の義久がこうなのだから、佐竹という名門にしがみつく家臣たちは、もう誰も信じられない。
その後は、どうしたのかよく分からない。胸にぽっかりと穴が開いたような感覚がして、足もとが崩れ落ちるような感覚がした。どこを歩いているのか、城内を歩いているのに全く分からない。気付いたときには、八重の部屋の前に来ていた。
「八重」
「次郎殿、お帰りでしたの」
夫が帰陣しているかどうかも分かっていない妻。分かっていても、このような態度を取るのだろう。それでも、八重は義宣の妻だ。すがりたかった。義宣と八重は夫婦なのだ。誰にも愛されないかもしれない。だが、八重に愛されるのではないか、という思いがまだ胸に残っている。
八重を胸に抱くと、八重はわずかに抵抗した。その時、八重の小袖から書状が落ちた。かな文字で書かれた、八重へ宛てられた書状。義宣が拾うと、八重は血相を変えてその書状を義宣の手から取り返した。
「これは、わたくしのものです。触らないでください」
「那須の、義兄上からのものか」
「ええ、そうよ。わたくしの甥にあたる藤王丸が三歳になったので、そのことなどが書かれていました」
甥の藤王丸。そうだ、分かっていたはずだ。八重も母と同じ、実家が大事な女なのだと。義宣が家督を相続した時、那須の使者の前で見せた笑顔を忘れていない。
抱きしめた八重を突き飛ばして、義宣は立ち上がった。何をするのか、と八重は義宣を睨みつけた。
これが、八重なのだ。今、八重が義宣に向けているこの目が、八重の気持ちを物語っている。
母と同じだ。分かっていただろう。義宣が認めようとしていなかっただけだ。
八重の部屋を出て城内を歩く。目的があるわけではない。何もかもが嫌になって、ただ歩いていた。空を見上げると、月は雲に隠れて見えなかった。
どすん、と何かにぶつかった感覚と、女の小さな悲鳴が聞こえたのは同時だった。視線を声の聞こえたほうへ向けると、女が尻もちをついていた。どうやら、空を見上げながら歩いていて、この女にぶつかってしまったらしい。女は義宣を見ると、慌ててその場に平伏した。
「も、申し訳ありません、お屋形様」
「いや、いい」
この女は奥で働いている女なのだろう。義宣よりいくつか年下といったところか。
「お前、名は何という?」
「はい。小糸と申します」
「そうか」
小糸と名乗った女の手を取り、義宣は再び歩き出した。小糸は、突然のことにただ驚くばかりのようで、おろおろしながら義宣の後ろを歩いている。
誰でもよかった。母にも八重にも見いだせなかったぬくもりを、女の柔らかい体に求めていた。




