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道程  作者: 実川
二 岩瀬の姫編
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岩瀬の姫編(十四)

 寝所にやってきた義宣は、祥のことを怒るかと思ったが、何も言わずに布団に入り、そのままひとりで寝てしまった。

 仕方がないので祥もそのまま寝たが、義宣はわざわざ何をしに来たのだろうか。渡りがあることを、祥に直接伝えようとしていたのに、背中を向けてひとりで寝てしまうとは。

 その後も、三日から五日に一度は義宣の渡りがあった。だが、義宣はいつも何も言わず、何もせず、ただひとりで寝るだけだった。義宣が背を向けてしまうので、祥は何も言えず、ただ義宣の隣で寝るしかなかった。義宣と話がしたいと思っていたが、それは叶わなかった。

 離縁されるわけではなく、自分の身にも阿南の身にも害が及ばないのなら、義宣の好きにすればいい。恐らく、世継ぎを儲けようとしていると見せかけるために、祥のもとへ来るのだろう。だが、自分を叩いた祥のことを許したわけではないから、背を向けて寝ているのだ。

 そうだとしても、祥は心の片隅で、義宣が直接祥に会いに来ようとしていたことが引っ掛かっていた。その時、阿南が芳に言った言葉も忘れていない。

 眠る義宣の背中を見ながら、祥は阿南の言葉を考えていた。阿南は芳に、政宗を助けたのはお前です、と言った。言葉どおりに受け取れば、義宣の母は甥の政宗の命を救ったのだろう。だが、それが何を意味するのか考えなくてはならないのだ。

 芳と顔を合わせた途端、引き返した義宣。政宗を助けた芳。芳を叱った阿南。

 祥の中で、ぼんやりと見えていた糸が繋がった。

 あの時、阿南が怒ったのは当然だった。阿南の言ったとおり、政宗は須賀川城を攻め、二階堂家を滅ぼした。伯母である阿南を攻めた。政宗の命がなくなっていたのなら、須賀川城は政宗によって攻め落とされることはなかったのだ。蘆名家もそうだ。

 蘆名と二階堂が政宗に攻められた時、佐竹は援軍にかけつけてくれていた。その戦で、芳が政宗の命を間接的であっても救ったのだとしたら、それは佐竹に対する裏切りだろう。政宗が助かったことによって蘆名は滅び、二階堂は滅んだ。政宗は佐竹を攻めるために、邪魔になる須賀川城を攻めたのだから、佐竹が政宗によって攻められて、もし敗北していれば、今の佐竹家はなかった。

 芳は、佐竹よりも実家の伊達家が大事なのだろう。だから、阿南と祥に政宗と会わないかと誘ったのだ。恐らく、悪気はないと思うが祥たちへの配慮がないと思った。夫亡き後でも、嫁いだ家を守ろうとした阿南や蘆名の母とは違う。祥は、母や妻というものは、阿南や実母のようなものだと疑ったことはなかった。だが、そうではないのが芳なのだ。

 そのことに思い至ると、悲しいような寂しいような気持ちになって、眠っている義宣を起こさないように、そっと背中に寄り添った。


 義宣の渡りは、途絶えずに半月ほど続いている。今日も侍女から義宣の渡りがあると告げられた。

 夜になり、義宣は寝所にやってきた。いつもと同じように、何も言わずに布団に入ろうとする義宣を引き留めるために、祥は声をかけた。

「お屋形さま」

 義宣は動きを止めて、ちらりと祥を見た。だが、返事はない。

「お話したいことがあります」

 義宣の反応はなかったが、気にせず祥は言葉を続けた。返事はないが、聞いている気配はする。

「あなたのことを、わたしは知りたいのです」

「必要ない」

「大御台さまと養母の話を聞いて、あなたと大御台さまの様子を見て、わたし」

「それがどうした。それがお前に何の関係がある。それ以上、その話はするな」

 祥の言葉を遮って、義宣が祥の方を向いた。義宣の目は怒りに燃えているようだったが、寂しそうな目でもあった。

「何も知らないくせに、分かったようなふりをして、その話をするな。お前には、俺の気持ちなど分からないくせに」

 怒りを込められた低い声は、恐ろしさなど全くなく、ただ寂しさだけが伝わってきた。口では祥を拒みながらも、目が寂しいと訴えているように見える。

「俺のことを何も知らないくせに、俺の母のことも知らないくせに、知ったような口を聞いて、お前は優越感にでも浸っているのか?」

 優越感に浸っているつもりはない。ただ、阿南から義宣と芳の話を聞いて、義宣と芳の様子を見て、義宣のことを知りたいと思ったのだ。阿南に言われたとおり、祥は義宣のことを何も知らない。だから、話をして義宣を知りたい。

「お前は何も知らない。お前に分かるはずがない

「知らないから、分かりたいと思いました」

 義宣の気持ちが分かるはずない、と言われてしまえば確かに分からないのだろう。だが、察することはできるはずだ。

「お前は、以前俺が他人を認めないと言ったな。それは間違いだ。誰も俺を認めなかった。俺は佐竹の当主としての飾りだ。信じていたものには裏切られた。母親に愛されて育ったお前には、この気持ちは分からないだろうな。俺の母親は、お前の母親とは違う。お前の産みの親とも、養い親とも姉妹のはずなのに、全く違う。お前の母親を基準に考えるなよ」

 自分の母親を基準に考えるな、と言われても、祥にとって母親というのは自分の母親たち以外にいないのだから、どうしてもそれが母というものだと思ってしまう。だが、芳はそうではないのだとは思っていたし、この義宣の口ぶりからもそれがうかがえた。

「俺は」

 それ以降の言葉が続かない。恐らく一瞬だったのだろうが、祥には長い沈黙が訪れたような気がしていた。

「母親に愛されなかった」

 沈黙を破った義宣の言葉に、祥は胸が痛んだ。なぜ、義宣は自ら愛されなかった、などと悲しいことを言うのだろうか。芳が政宗を助けたからか。そのことが、義宣を苦しめているのか。

 眉を寄せ、苦しげな顔で、愛されなかったんだ、と義宣は呟いた。愛されなかった、と口にするたびに、義宣は自分の言葉に傷ついているようだった。それはそうだろう。母親に愛されないということは、子どもにとってとても悲しい。祥には想像することすらできない。

「だが、俺は」

 再び沈黙が訪れた。義宣は眉間に深い皺を刻んでいる。

「母上に愛されたかった」

 ぽつり、と呟くように言われた一言が、胸に刺さった。愛されなかった、という言葉よりも深く、生々しく、祥の胸の柔らかい部分を抉るように突き刺さった。

「本当は、ずっと愛されたかった。母上に、愛されたかった」

 絞り出すような義宣の声から、義宣の痛みを痛切に感じた。愛されなかった、と言った時以上の痛みと渇望を感じた。まるで、血を吐くような言葉だった。

 祥にとっては、今まで何の疑問も抱かず、当然のものだと思っていた母親の愛情を渇望して、愛されたい、と願う義宣の姿は、痛々しく、悲しく、寂しかった。

 祥には想像もつかない苦しみと悲しみの中、義宣はずっと愛に飢えていたのか。母親に愛されない苦しみが、祥には分からない。だが、初めて垣間見た義宣の心の内を察するだけで、祥は泣きたくなった。蘆名の母にも、二階堂の阿南にも愛されていなかったら、自分はどうなっていたのだろう。

 俯いて、布団を握りしめる義宣の頭を抱きよせ、胸に抱いた。体勢を崩した義宣の体が祥にもたれかかってくる。その重さを支えるように、きつく義宣の頭を抱きしめた。義宣は祥に抱きしめられて、体を強張らせた。

「お屋形さま」

 義宣を抱く腕の力をゆるめ、義宣の顔をじっと覗きこんだ。拒絶と期待が入り混じったような目が、不安げに揺れている。その目は、幼い子供のようだった。

「わたしがあなたを愛すわ」

 祥の言葉を聞いた瞬間、義宣は目を見開いた。信じられない、と言いたげだった。そして、祥から離れようとする。だが、拒みながらも、すがるように義宣の心が手を伸ばしてきたような気がして、祥は義宣の腕を掴んだ。

 もしかしたら、義宣の言う通りなのかもしれない。優越感に浸っているのかもしれない。義宣は哀れだと、同情しているのかもしれない。だが、愛されたい、と願った義宣の心は純粋で、とても愛しいと思ったから、義宣の腕を掴んだのだ。

「大丈夫、怖がらないで」

 掴んだ腕を撫で、拒もうとする手を握り締める。じっと祥を窺うようにして見つめる義宣に対して、微笑んでみせると、逆に腕を掴まれ、義宣に抱き寄せられた。

 義宣の胸に顔を埋める。愛を求める義宣の心の声が聞こえるような気がした。義宣の背に腕を回して、そっと撫でると、祥を抱きしめる義宣の腕の力が強くなった。

 静寂が訪れる。祥には何も聞こえなかった。ただ、義宣の悲しみと寂しさを、抱きしめられた腕の中で感じていた。まるで、この時だけはこの世に祥と義宣の二人しかいないようだった。

 義宣の涙が、祥の肩を濡らした。

 大人が寂しいから泣くということを、考えたことがなかった。大人の男が泣くということを考えたことがなかった。だが、いくら年を重ねても、寂しさや辛さを感じなくなるわけがないのだから、大人が泣くのも当然だろう。

 そのことを今更感じた自分は、どうしようもない子どもなのだと思った。義宣の胸に顔を埋めて、祥も泣いた。なぜ泣いているのか、そんなことは分からなかった。

 そのまま寄り添いあって眠り、祥が目を覚ました時には、義宣は祥の部屋からいなくなっていた。

 義宣がいなくなってから、出会ってから今まで、義宣に言ったことを思い返していた。義宣に自分を不幸だと思っているのかと言った。自分以外誰も認めていないのだと言った。思い返すと、随分と無神経なことを言って、義宣の心の内側を踏みにじろうとしたものだ。

 義宣の言ったとおりだ。祥は何も分かっていなかった。自分が正しいと思ったことを義宣に押し付けていただけだから笑える。

 境遇を比較していたのは義宣ではなく祥だった。その人が辛いと思ったのならば、それはその人にとって誰よりも辛いことだというのに、そのことに気づかなかった。

 少しだけ義宣の心に触れた今、祥が義宣に言ったことは、義宣を傷つけたのかもしれないと思うようになった。だが、だからと言って義宣の言動の全てを許せるわけではない。それは別の話だ。いくら、母に愛されなかった、愛を知らなかったと言っても、祥を目の前にして道具のように利用するつもりだと言ったことは許せなかったし、卑屈な態度や性格もどうしたものかと思う。

「お祥、また何か悩んでいるようですね」

「お養母さま」

「義宣殿のことでしょう?」

 部屋に入ってきた阿南の言うとおりなのだが、素直に認めるのは恥ずかしく、祥は何も言わなかった。阿南はただ頷いて、祥の隣に座った。

「お養母さま、わたし、あの方のことを理解したいと思います。それはとても難しいことかもしれないけれど、あの方の心を理解したい」

「そうですか。けれど、他人のことを完全に理解することは不可能です。いいえ、できなくていいのです。ただ、完全に理解することはできずとも、思いやることはできますよ」

「人の腹の痛みを察することはできる、ということですね」

「ええ。大事なことは、相手の聞いてほしい話を聞いて、相手の望む言葉をかけること。お前が相手の言葉を聞いて、相手のことを思って、心が感じたことを言葉にすれば、きっとそれは相手の望む言葉になるでしょう」

「はい」

 義宣が聞いてほしい話。義宣がかけてほしい言葉。それは一体何なのだろう。もっと義宣の心に近づきたい。

 それを知って、義宣の心に近づいてどうするのか。自分でも上手く説明できない気がする。愛を求める義宣は愛しいと思ったから。それは義宣に近づきたいと思う理由にならないだろうか。義宣のことを愛しいと思う気持ちと、義宣の言動を許せない気持ちが胸の内で入り混じっている。それでも、義宣の思いに触れて、確かに祥の心は動いた。

 義宣が愛を知らないと言うのなら、愛されたいと願うのなら、祥は義宣の愛になりたかった。


 岩瀬の姫が言った言葉を、そっくりそのまま信じているわけではなかった。

 だが、信じたいという気持ちがあった。初めてだ。他人にあんなことを言われたのは。

 わたしがあなたを愛すわ。

 何度も胸の内で、岩瀬の姫に言われた言葉を繰り返す。正直なところ、嬉しかった。光が差し込んだような気がした。

 義宣は今まで、暗闇の底で膝を抱え込んでいるようなものだった。愛されたいと願いながら、何もしてこなかった。それでも愛されたいと願うことをやめられず、幼い子どもを同じ暗闇に引き込んだ。

 何も見えない暗闇の中、手探りで金阿弥を抱きよせ、腕の中に閉じ込めた。必死にすがった。自分には金阿弥だけだと思っていた。

 金阿弥は義宣が自ら選んで、暗闇の中に連れ込んだ。逃げ出さないように、義宣だけを見るようにしてきた。だから、金阿弥は信じることができた。金阿弥は義宣を愛してくれた。認めてくれた。義宣も金阿弥だけは認めていた。愛していた。そう思っていた。

 だが、岩瀬の姫は違う。側室に選んだのは義宣だが、姫は義宣を拒んだ。おとなしく義宣のものにはならなかった。だが、正面から義宣を見てくれた。金阿弥のように義宣の囲いの中からではなく、外の世界から義宣を見てくれた。そして、きつい言葉で義宣の内面に踏み入ろうとした。義宣の言動に本気で怒っていた。そんな人間は初めてだった。

 だからだろうか、義宣も初めて自分の気持ちを他人にぶつけた。姫はそれを受け止めてくれた。

 わたしがあなたを愛すわ。そう言って、義宣に微笑みかけた。義宣の腕の中で、涙を流した。その涙は、義宣の胸に沁みこむようだった。

 今夜は、姫の所へ行く予定はない。昨日の今日で、どのような顔をして会えばいいのか、何を話していいのか分からなかった。だが、なぜか足が姫の寝所へと向かった。姫と阿南が母と話をしていたところに出くわした時も、侍女に頼めばよかったのに、なぜか足が姫のもとへと向かったのだった。

 知らせも何もなく出向いたところで、姫は寝ているだろう。そのことは分かっているというのに、なぜ自分は姫のもとへ向かっているのだろう。

 姫の寝所の近くまで来て、義宣は足を止めた。驚いた。姫が、寝所の外で空を見上げていた。それを見て、義宣も空を見上げた。今夜は満月か。どうりで明るいはずだ。

「お屋形さま」

 義宣の存在に気づいた姫は、驚いたようだった。姫のもとへ歩いていき、隣に腰を下ろした。姫はまだ驚いているのか、じっと義宣を見つめているようだった。

「眠れないのか」

「ええ。ですから、外へ出てみたら、満月でしょう? とても綺麗でしたので、見ていました」

「そうか」

 義宣が黙ると、姫も黙った。確かに、月は姫の言ったとおり、美しかった。だが、心がざわめいた。波紋が広がるように、静かに。

「姫」

「はい」

 月を見上げたまま、姫を呼んだ。姫が義宣の方を向いた気配がした。

「話したいことがある」

 何を言っているのだろう。何を話すというのだろう。おかしい。姫のもとへ勝手に足が動いた時から、自分ではないようだ。だが、言葉は止まらなかった。自然と口からこぼれていた。

「聞いてくれるか?」

 義宣も、ようやく姫の方を向いた。姫の目と義宣の目が合う。姫は、昨夜と同じように微笑んで頷いた。

「では、お部屋の中で。ここでは、体が冷えてしまいます」

「ああ」

 姫に手を取られ、義宣は寝所の中へ招かれた。姫の姿を月が照らしていた。あたたかい光だと思った。

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