岩瀬の姫編(十三)
義宣の頬を叩いてから、義宣の渡りがない。それならば、離縁されるかと思ったが、その気配もない。
阿南に義宣のことを知るべきだと助言され、祥も少しその気になったのだが、義宣が現れないのならば話にならない。今の立場を考えると、祥の方から義宣に来てほしいと言えるはずもない。それに、どうしても義宣と会って話がしたいというわけでもない。
義宣に対する苛立ちと、義宣への興味が祥の胸の内でせめぎ合っていた。今は、離縁されずにすんでよかった、と思っていればいいだろう。
義宣の渡りがないまま、阿南と平穏な時を過ごしていると、突然、芳が祥と阿南のもとへやってきた。芳の顔はどこか嬉しそうで、このような顔を見るのは初めてだった。芳はいつも、どこか冷たい空気をまとっていた。今日は機嫌がいいらしく、祥にも柔らかな笑みを向けた。
「阿南姉様、政宗殿が上洛するそうですよ」
「それが、どうかしましたか」
嬉々として政宗の名を口にした芳に対して、阿南は感情の見えない声で答えた。政宗の名を聞いた瞬間、祥もどきりとした。
「会いに行きませんか? 甥に会いに行くのですから、義重殿も反対しないでしょう。政宗殿から、懐かしい伊達の話など聞きましょうよ。姫も、従兄に会いたくはないか?」
芳は楽しそうだ。なぜ、楽しげに政宗のことを話すのだろう。政宗は蘆名も二階堂も滅ぼした人間だというのに。その政宗から逃げるように祥たちは岩城家を頼り、続いて佐竹家の世話になることになったというのに。芳から悪気は感じられなかった。本当に、楽しそうなのだ。
「お芳」
楽しげな芳に反して、阿南の声は冷たかった。部屋の中の空気が、冷たく張り詰めたものに変わった。
「お前は、本気で私たちにその提案をしているのですか?」
「姉様?」
「私が政宗と戦ったのは五年以上前のことです。それでも、私は政宗と戦いました。須賀川の城は政宗に攻め落とされました。私は政宗に保護されましたが、それが嫌でお前を頼って佐竹に参ったのです。その私が、どうして政宗に会いましょう。それに、蘆名に嫁いだ妹、お前にとっての姉ですね、あの子は蘆名家が滅亡してすぐに亡くなりました。政宗があの子を死に追いやったのです」
阿南の口から蘆名の実母の話が出た。阿南の話を聞きながら、芳は何も言い返せないようだった。祥も何も言えなかった。ただ、阿南と芳の会話を聞いているしかなかった。聞きながら、阿南の静かで深い怒りが伝わってくる。
「そして、その政宗を助けたのはお前です」
「そんな、阿南姉様は私が蘆名に嫁いだ姉様を死に追いやったとおっしゃるのですか?」
「何もそんなことは言っていません。政宗は憎いけれど、お前のことを憎むつもりはありません。ただ、お芳、お前は愚かな女です」
「愚か?」
「そうです。お前は末娘で、伊達にいる頃から我儘で甘える子でしたが、それは今も変わらないようですね。生家と婚家が戦となった場合、夫とともに戦うことも生家へ帰ることもできるでしょう。私は嫁いだからには二階堂の女として、たとえ敵が生家であっても戦うと決めたまで」
「はい」
「あの子は私と同じ覚悟をして、蘆名を守ろうと必死でした。最期まで、あの子は蘆名の女でした。そして、私は二階堂の女です。今までもこれからも、私は二階堂の女です。それに比べて、お前はどうですか? どちらを選ぶでもなく、戦の最中に政宗を助けるよう計らい、いまものうのうと佐竹の大御台としてここにいる。恥ずかしくはありませんか?」
「確かに、確かに姉様のおっしゃる通り。けれど、阿南姉様も伊達が滅んでしまうのは嫌ではありませんか? 恐ろしくはありませんか? 米沢が恋しくはありませんか? 私は、伊達家が滅んでしまうなんて恐ろしくてたまりませんでした。けれど、佐竹を、いえ、義重殿や息子たちを憎いと思っているわけでもないです」
「だから、お前は愚かな女だと言うのです」
阿南は芳を一喝した。芳は目を見開いた。
「お前はもう少し、義宣殿の気持ちや、蘆名の人間の気持ち、私たち二階堂の人間の気持ちを考えるべきです。私は政宗のもとには行きません。お祥はどうしますか?」
「わたしも、参りません」
突然話を振られて驚いたが、祥もはっきりと政宗には会いたくないと告げた。今でも、落城後に会った政宗の顔を覚えている。幼かった祥には、片目の青年が自分の従兄ではなく、自分たちを苦しめた悪鬼にしか見えなかった。だから、会いたくなどない。
それに、阿南と芳の言葉が気にかかる。何を意味しているのだろう。芳が、戦の最中に政宗を助けた。それは、どういうことだ。
阿南にも祥にも誘いを拒まれた芳は、何か言いたげな顔をしながらも、黙って部屋を出て行った。だが、芳が部屋を出てすぐに、あ、と呟く声が聞こえて、祥は部屋の外の様子を窺った。
そこには、芳の目の前に立つ義宣の姿があった。その義宣と、一瞬目が合ったような気がした。
「義宣」
芳が呟くように名を呼ぶと、義宣は何も言わずに踵を返して、その場から立ち去った。芳も何も言わなかった。
義宣が去り、大御台も去った後、入れ替わるように鏡田がやってきた。
「姫さま、今夜お屋形さまのお渡りがあるそうにございます」
「あら、そうなの?」
「ええ。突然お屋形さまに呼ばれたものですから、わたくしは驚きました。わたくしが姫さまにお伝えすると申し上げたのですが、お屋形さまはご自分で姫さまにお伝えなさるとおっしゃいまして」
「え?」
「ですが、やはりお前が行けと、先ほどわたくしに命じられたのです。まったく、お屋形さまは気まぐれなお方ですのね」
「そう、分かったわ。ありがとう、鏡田」
義宣があそこにいたのは、祥に会いに来たからだったのか。なぜ、わざわざ自分で足を運んだのだろう。義宣は、阿南と芳の話を聞いていたのか。聞いていたならば、どこからどこまで。
助けを求めるように阿南を見ると、阿南は、自分で考えなさい、としか言ってくれなかった。
何も言わずに立ち去る義宣と、何も言わずに立ちつくす芳。政宗を助けたのはお前です。阿南の声が脳裏で響いた。
おぼろげだが、義宣を形作る何かが少しだけ見えた気がした。




