岩瀬の姫編(十二)
感情に任せて荒々しく襖を閉めると、思っていたより大きな音がしてしまい、部屋の中で控えていた金阿弥がびくりと肩を震わせた。
じっと義宣を見上げる金阿弥の目を見て、深くため息をつきながら、義宣は金阿弥を抱き寄せた。
「金阿」
「今夜は、岩瀬御台様のもとへは行かれないのですか?」
「ああ」
「そうですか」
「嬉しいか?」
「さあ?」
口では色々と言いながらも、義宣の首に回された金阿弥の腕からは、金阿弥の嬉しさが伝わってくるようだった。岩瀬の姫のもとへ足を運んでいる間は、世継ぎを儲けようとしていると見せかけるために琳のもとへは何度か通ったが、金阿弥のことは一度も呼んでいなかったのだ。久々の逢瀬に、金阿弥が喜んでいないはずがない。
じゃれるように抱き合い、口を吸うと、金阿弥がじっと義宣を見つめた。
「義宣様」
「何だ?」
「岩瀬御台様と何かがあったから、私を呼ばれたのでしょう? 顔に書いてありますよ」
金阿弥の口調は義宣をからかっているようだったが、その目は真剣だった。昔から、この目には弱いのだ。義宣の心の奥底まで見透かしそうな、澄んだ黒い目に。
参ったな、とため息をついて、義宣は金阿弥を解放した。金阿弥は心配そうに義宣を見つめている。
「岩瀬の姫に打たれた」
「え?」
既に腫れの引いた頬を指差してみせると、驚いた声を上げた金阿弥が、そっと義宣の頬に触れた。
「何なのだろうな、あの女は。俺に逆らえない女を選んだはずだったのに、生意気な女だ」
岩瀬の姫の言葉を思い出すと、金阿弥に会って和らいだ心に、再び怒りがわき起こった。何なのだ、あの女は。
「あの女、俺に自分を不幸だと思っているのか、と言ったんだぞ? 本当は自分こそが不幸な、悲劇の姫君だとでも思っているくせに」
「それは、怖いもの知らずの姫君ですね」
「佐竹家の当主に向かって、よくもあのような口がきけたものだ」
金阿弥は義宣の言葉に頷きながら話を聞いている。金阿弥といると心が休まる。
岩瀬の姫は、義宣が自分以外の人間を認めていないと言ったが、それは違う。金阿弥との関係は違う。金阿弥は義宣を認めているし、義宣も金阿弥を認めている。
ただ、ほかの人間が義宣を認めていないだけだ。誰も義宣のことなど見ていない。それを岩瀬の姫は、何を言っているのだろうか。あのようなことを義宣に言った人間は初めてだ。しかも、岩瀬の姫はあの女と同じことを言った。
岩瀬の姫のことなど忘れてしまおうと思って金阿弥を呼んだというのに、思い出すのは岩瀬の姫のことばかりだ。
「あの女、次に俺が会いに行った時に、どんな顔をするのか楽しみだ」
「また、岩瀬御台様に会いに行かれるのですか? 離縁なさればよろしいのに」
「離縁はしない。あの女を離縁したら、老臣連中に何を言われるか。俺が世継ぎを儲けようとしていないみたいだろう?」
「お世継ぎを儲けようとなさっていると見せかけたいのなら、御台様のもとへ熱心に通われればよろしいのではありませんか?」
「老臣どもは、御台に期待できないから側室を作れと言ったんだ。御台では、駄目だ」
「そうですか」
老臣どものことを思うと、また腹が立ってきて、義宣は、ふん、と鼻を鳴らした。それを見た金阿弥は、義宣の頬を撫でながら小さくため息をついた。
「どうした?」
「いいえ」
何でもありません、と続けようとした金阿弥の口を塞ぎ、再び金阿弥を抱きしめた。金阿弥はおとなしく義宣の口づけを受け入れ、義宣に全てを委ねている。
やはり、金阿弥だけだ。金阿弥は義宣の全てを受け入れてくれる。義宣には金阿弥だけだ。そして、金阿弥にも義宣だけなのだ。
褥に金阿弥を組み敷き、金阿弥の帯を緩めようとした。だが、そこで手が止まってしまった。それ以上先に進もうという気が起きない。義宣に組み敷かれ、瞑っていた金阿弥の目が開かれ、義宣を見上げている。
「どうなさったのですか?」
「そういう気分じゃなくなった」
緩めようとした帯を直し、金阿弥の隣に横になり、褥の中で金阿弥を抱きしめた。
「今日は、このまま眠りたい」
「はい、義宣様」
金阿弥の体温を腕の中に感じながら、義宣は目を瞑った。なぜか、そういえば岩瀬の姫の名前を自分はまだ知らないのだ、と頭の中に浮かんだ。知る必要などないと思っていたため、一度も聞いたことがなかったのだ。いつまでも、岩瀬の姫、では呼びにくい。いずれ、聞いてみようかと、ぼんやりと思った。
庭を飛び交う鳥のつがいを見ながら、祥はため息をついた。
鳥でも、あのように睦まじくいるというのに、祥は今後義宣と睦まじい関係を築けるとは思えなかった。
側室に迎えられて、相手の頬を叩く女などどこにいるだろうか。これは、近々離縁されるだろう。未だにこうして佐竹屋敷にいられることの方が不思議だ。
だが、後悔はしていない。義宣は卑屈で悲観的で、見ていて腹が立ったことに変わりはない。あれは言うべきことだったのだ。それでも、そのせいで阿南や鏡田も佐竹屋敷を追われ、義宣に仕える須賀川衆も冷遇されるかもしれないと思うと気持ちが沈んだ。
「どうしたのですか、お祥」
「お養母さま」
考え事をしていて、阿南が隣に来ていたことにも気づかなかった。義宣とのことを相談するのは、阿南しかいないだろう。阿南には心配をさせたくなかったのだが、祥は口を開いた。
「お養母さま、わたしお屋形さまと上手くやっていける自信がありません」
「何故?」
「あの方は、他人を認められない方だから。ご自分を不幸だと思って、殻に閉じこもろうとなさるから」
さすがに、義宣の頬を叩いたことは言えなかったが、阿南はこの話を聞いてどう思っただろうか。窺うように見ると、養母は小さく苦笑していた。
「お祥」
「はい」
「人は誰しも、自分の腹が一番痛いものですよ」
「え?」
「ですから、義宣殿は自分の境遇が一番辛いと思っているのです。他人の腹がどれほど痛いのかなど、本人でなければ分かりません。お前も、知らず知らずのうちに自分の腹が一番痛いと思っているのでしょう」
「わたしは、自分が不幸だとは思っていません」
「そうだとしても、どこかに義宣殿を羨んでいるところがあるのです。自分と比べて、義宣殿は恵まれた環境にいるというのに、それを不幸だと義宣殿が思っている。だから、お前は義宣殿に苛立ちを覚えて、上手くやっていけない、と思ったのではないですか?」
やはり、そうなのだろうか。他人と自分の境遇を比べるつもりも、自分を不幸だと思うつもりもなかったが、もしかしたらどこかでいつもそう思っていたのかもしれない。
「お前は、義宣殿のことを何も知りません。まずは、義宣殿と話をするべきです」
義宣は何も言わないのだ。義宣のことを知ることは難しい。それに、祥のしたことを考えれば、今後義宣の渡りがあるとは思えない。
だが、義宣が寝所を出て行く前に残した言葉が、祥の胸の中に引っ掛かっていた。あれは、どのような意味を持つのだろうか。それを思うと、阿南に言われたとおり、義宣と話をしたいと思った。




