岩瀬の姫編(十一)
義宣は、祥に側室にしようとした真相を話してからも、頻繁に祥のもとへ足を運んでいる。それは、義宣が話していたように譜代家臣たちを黙らせるために必要なことなのかもしれないが、ただ利用されているだけの祥にとっては、空しい日々だった。
これならば、義宣の側室ではなく、他のどこかの家に嫁に出された方がよかったかもしれない。できることならば、婿を取らせてもらって、二階堂家を再興したかったのだが、それが過ぎた願いだということは分かっている。
祥に真相を話した義宣は、もう人のいいふりをする必要はないと思ったのか、祥のもとへ来ると、一門衆や譜代家臣に対する愚痴ばかり言うようになった。
譜代連中は俺を当主とは思っていない。一門衆は自分の血筋を鼻にかけている。誰も彼もが佐竹という飾りにしがみついているのだ。
そう言って義宣はため息をついていた。だが、そんな話ばかり聞かされて、ため息をつきたいのは祥の方だ。
「お屋形さまは、どうしてそのような考え方をなさるのですか?」
愚痴ばかり聞かされていても、祥には義宣が何故そのような考えに至るのかが分からなかった。祥が佐竹家について知っていることはわずかでしかないが、義宣は十七歳で家督を継いだと聞いている。初めの頃は、年若いせいで義宣の言葉のとおり、主と思われなかったかもしれないが、祥の見る限りでは、今の家臣たちは義宣を主と思っているように見える。盛秀も大蔵も、須賀川衆は義宣によく使えているはずだ。
「側室を迎えるように家臣たちが勧めたのも、あなたのことを思ってのことではないのですか?」
「違う。連中は、俺のことを思っているのでない。俺に世継ぎが生まれなければ、佐竹家が危うくなるだろう? そうすると、自分の身が危ういから、そう言っているだけだ」
「そうでしょうか?」
「そうだ。一門の奴らも、俺に世継ぎを期待している。俺が養子を迎えることは望んでいないだろうな。佐竹の血が途絶えることを恐れているに決まっている」
「誰かが、そのように言われたのですか?」
「いや、だが言われずともそのくらい分かる」
「そうでしょうか」
「そうだ。特に中務など、そう思っているに違いない。母はそれ以上に、養子を迎えることを嫌がるだろうな」
中務とは佐竹家一門筆頭の東義久のことだ。
「御東殿と大御台さまがどうかなさったのですか?」
「お前には関係ない」
祥の問いに義宣は答えたが、最後の問いにだけは答えなかった。何か、義久と芳に思うところがあるのかもしれないが、義宣の今の話を聞いていても、祥には義宣の考えが、ただの思い込みのようにしか思えなかった。
義宣は誰かに何かを言われたわけではない。ただ、ひとりで勝手にそう思っているのだ。中には、本当に義宣の言うとおりに思っている家臣もいるかもしれない。だが、そうではない家臣のほうが多いと祥は思う。そうでなければ、義宣は今まで十年以上も当主の座に着いていられるだろうか。
家臣たちの言動を、自己保身のために佐竹家を守ろうとしていると捉えるのではなく、本当にお家のことを思ってのものだと思えば、もう少し明るい考えを持てるのではないか。
「では、浪人出身の家臣はいかがですか? あの者たちは、お屋形さまがお取立てになって今があるのでしょう?」
「あいつらとて、同じだ。譜代や一門と違い、何の柵もなく、新たな考えを持った有能な人材ではある。だが、昔からの家臣ではないのだから、俺に何かがあったらすぐに離れていくに違いない。まあ、口うるさい老臣どもよりは、よほど信用できるがな」
「そうですか」
今まで何度も聞かされてきた愚痴と今日聞いた話で、おぼろげではあるが義宣の考え方というものが分かったような気がする。
義宣は、愚痴を言う時いつも卑屈なのではないか、と思うような言い方をする。だが、義宣は自分が取るに足らない人間だと思っているから卑屈になるのではない。その逆だ。義宣は自分が可愛いのだろう。傷つきたくないのだろう。だから、わざと卑屈な物言いをして、そういうものだと思い込んで自分を守ろうとしている。
それで他人が傷ついても、恐らく義宣は気付かないのだろう。他人の痛みに気付けるのなら、祥を側室であって側室ではないような、こんな中途半端なままでいさせるわけがない。家臣たちを黙らせるためだけに祥を側室にしたのだとしても、そのことを祥に言わなければまだ良かったのに。
何という人なのだろう。今までも義宣に愚痴を聞かされて、苛立ちを覚えたことはあったが、今日はいつも以上だ。苛立ちを抑えて、祥は深いため息をついた。
「それにしても、わたしにこのようなお話を色々としてくださるなんて、思ってもみませんでした」
ため息とともに吐き出した言葉に、祥は少しだけ嫌味を混ぜた。いつも義宣の愚痴を聞かされているのだ。このくらいは許されるだろう。
祥の言葉に、義宣は口の端に笑みを浮かべて答えた。その笑みは、祥を見下しているように見えた。
「姫のことは、いつでも離縁ができるからな」
「え?」
「姫を側室に迎えたのは、家臣どもを黙らせるため、ということは以前にも話したな。だが、それだけではない。姫は俺の伯母にあたる養母ともども、佐竹家の庇護のもとで生きている。俺が見限れば、姫たちの命運は尽きる。姫は俺の掌中に収まっているようなものだ。だから、姫は俺に絶対に逆らわない。そんな女を俺は探していたのだ。姫はその条件にふさわしかった」
義宣が祥を側室にしようとした本当の真相を聞かされ、祥は言葉を失った。義宣の声が遠くに聞こえるような気がする。
「姫は俺に逆らえない。何か面倒が起きた時は、姫に子ができなかったことを理由に、離縁すればいい。姫は、その俺の決定に逆らえないだろう?」
義宣は自分勝手だ。自分が酷いことをしているという自覚すらないのだ。今まで義宣の愚痴に苛立ちを覚えてきたが、今の祥の胸を占める感情は、苛立ちという言葉では表現しきれなかった。
「いい加減にしてください」
祥の声に反応して、義宣がこちらを向いた。その瞬間、ぱん、と乾いた音が室内に響いた。
右の掌が熱くなってきた。それで祥は自分が義宣の頬を叩いたのだと自覚した。義宣は呆然としている。
じわじわと痛みを感じ始めた右手と、赤く腫れ始めた義宣の頬を、祥はじっと見つめた。
何ということをしてしまったのだろう、とは思った。側室という立場を考えれば、ここは謝罪をするべきだということも分かっている。だが、祥は義宣に謝るつもりはなかった。突然頬を叩いたのは悪いと思うが、それだけのことを義宣は口にしたのだ。
「あなたは、どうしてそのような考え方しかできないのですか? もしかして、自分は不幸だとでも思っていらっしゃるの?」
祥の問いに義宣は答えなかった。ただ呆然としているだけだった。突然のことに、まだ思考が追いつかないのだろうか。
「あなたが、家臣たちにないがしろにされていると感じて、それを不幸だと嘆いていらっしゃるのだとしたら、それはあなたに問題があるからだわ」
「何だと?」
義宣の目が祥を捉えた。その目は険しかったが、全く恐ろしくなかった。ただ虚勢を張っているようだった。
「俺のどこに問題がある? 連中が、俺を認めないだけだろうが」
立ち上がった義宣は扇を取り出して、その扇で祥の顎を上向かせた。視線が真正面からぶつかる。祥は決して義宣から視線を逸らさなかった。
「違います。あなたが自分以外の人間を認めていないのです」
「生意気な女だ。二階堂の養女だからと少し甘い顔をしてやれば、すぐにつけあがる」
甘い顔。義宣のどこが祥に甘かったというのだろうか。最初から義宣は祥を道具として扱い、利用しているだけではないか。義宣が認めているのは、祥が二階堂家の養女であるという部分だけだ。それ以外は、すべて認めていない。だから、義宣は祥に対してあんな態度が取れるに違いない。
「お前は、俺が自分を不幸だと思っているのか、と聞いたな。俺は自分を不幸だとは思っていない。お前の方こそ、自分の境遇と俺を比較して、自分の方が不幸だと思っているのではないか? だから、俺は不幸ではない。そう思っているのではないのか?」
「いいえ」
確かに、祥を憐れみ、不幸だと言う人はいた。だが、祥は自分を不幸だとは思わない。仮に不幸だと思っているとしても、他人とどちらがより不幸か比べるなど、空しいだけだ。
「そうか。だがな、お前に俺の気持ちなど分かるものか」
義宣が鼻で笑った。祥の否定を信じていないのだろう。本当は不幸だと思っているくせに、と言いたげだった。
「ええ、分かりません。でも、あなたもわたしの気持ちが分かるはずはないわ」
人と自分の境遇を比べているのは義宣の方だ。義宣は自分のことを不幸だと思っているのではないだろうか。
義宣は今まで一度も落城を経験したことがない。肉親を失ってもいない。常陸は義宣が領主として治め、安泰している。当主には当主としての苦しみもあるのだろうが、恵まれているはずの境遇を、義宣はなぜこれほど悲観するのだろうか。なぜ、他人を信じず、認めず、苛立っているのだろうか。
家臣たちに対する愚痴以外、義宣の気持ちなど聞かされたことがない。だから、それ以外のことは分からない。義宣も、祥がどんな思いで側室になったかなど知らないではないか。
祥も阿南も佐竹家の庇護下で生きている。義宣に見限られるわけにはいかない。義宣の言った通りだ。そのような状況にあるから、自分たちの身を守るために、祥は義宣の側室になったのだ。本当は婿を迎えて二階堂家を再興したかった。阿南もそれを望んでいたはずだ。その望みを捨てて、義宣の側室になったのだ。そんな祥の思いを、義宣は考えたことなどないだろう。
「お前は、自分の立場を分かっているのか。俺は佐竹家の当主だぞ」
分かっている。分かっているから、側室になったのではないか。だが、今の祥の言動を考えれば、立場の自覚がないと思われても仕方がないかもしれない。それでも、義宣には言われたくなかった。
ため息をつくと、胸のうちにくすぶっていた怒りも一緒に吐き出されたような気がして、少し落ち着いた。落ち着くと、今の義宣の言葉にはっとした。
「あなたは、寂しい方ですね」
「俺を馬鹿にしているのか?」
「いいえ」
そのようにしか考えられないところも寂しいのだ、と心の中で呟きながら、祥は言葉を続けた。
「あなたは、佐竹という名門にしがみついた家臣たちにうんざりなさっているのでしょう?」
「そうだ。それがどうした。今の話と何が関係している」
「寂しい方」
「まだ言うか」
「だって、あなたは佐竹という名門にしがみつく家臣たちがお嫌いなはずなのに、佐竹という名門が誰よりも何よりも誇りで、それにしがみつかなければ生きていけないのは、家臣たちではなくあなたなのですもの」
だから、義宣は祥を側室に選んだのだ。二階堂の姫ならば文句は言われない、そう思ったのは義宣が自分でも家門を気にしているからだ。かつては鎌倉から続く名門と言われ、血縁もある二階堂家ならば、佐竹家にふさわしいと思ったのだ。新参の家臣を信じられないと言った時、義宣は彼らが古参ではないから信用できないと言った。そして、先ほどの言葉。俺は佐竹家の当主だぞ。この一言に、義宣の意識の全てが集約されている。
「黙れ」
祥の顎を上向かせていた扇が、祥の顎から離れた。扇を握った義宣の手が振り上げられる。叩かれるのかもしれない。いや、ここまで義宣を怒らせ、身の程をわきまえずに無礼を重ねたのだから、殺されてもおかしくないかもしれない。
阿南のことを考えると、今更ながら後悔の念がこみあげてくるが、もうどうにかできるものでもない。
覚悟を決めて祥は目を瞑った。だが、何も起きなかった。そっと目を開けると、義宣は振り上げた扇を畳の上に投げつけた。扇が跳ねて転がった。
「あいつと同じことを、お前も言うのか」
小さく呟いて、義宣は部屋を出て行った。その声は弱々しく、なぜか痛々しいと感じた。
義宣はなぜ怒らなかったのか。確かに怒っていたはずなのに、なぜあの言葉を残して部屋を出て言ったのか。あの言葉の意味は何なのだろう。
義宣に対して怒りを覚えていたはずなのに、義宣の言葉が気にかかり、祥も廊下に出て立ち去った義宣の背中を目で追った。その背中は、なぜか初めて見た時よりも小さく見えた。




