岩瀬の姫編(七)
廊下の軋む音が聞こえた。大御台様がいらっしゃいます、という侍女の言葉を聞いて、ようやく阿南の妹である佐竹家の大御台との対面がかなうのだと知った。祥と阿南は、しばらく部屋の中で待たされていたのだ。
すっと襖が開くと、阿南によく似た女性が入ってきた。この人が佐竹家の大御台。祥があわてて頭を下げようとすると、大御台はそれを手で制した。その手は爪の先までぴしっと真っ直ぐで、阿南と似ている顔立ちも、似ているはずなのに、よく見ると冷たい印象を受けた。
二階堂家へ養女に入った時のことを思い出し、祥は緊張で硬くなった。
「阿南姉様、お久しぶりです」
「此度は、義重殿にもお芳にも迷惑をかけることになってしまって、申し訳ありません」
「どうか、お気になさらないでください。夫の義重殿も息子の義宣も、姉様と姫を歓迎しております」
養母と話をしていた芳の視線が祥に移った。目が合った瞬間、どうしていいか分からず、小さく笑みを浮かべると、芳もかすかにほほ笑んでくれた。
「姫、私とそなたの養母上は姉妹。そなたと義宣はいとこ。気兼ねせずともよい」
「ありがとうございます」
「芳、世話になります」
「できれば姉様や姫のために何かしたいのですが、私は義重殿と共に上洛せねばなりません。何でも、今後大名の妻子は京で暮さねばならぬようでして」
「そうですか」
「ご安心ください。姉様と姫には心安くお過ごしいただこうと、下河辺に新たに館を作りました。そこでお暮しください」
新たに館を作ったということは、太田城ではなくそこで、阿南や侍女たちと暮らすということなのだろうか。そうならば、ありがたかった。城の中で暮らすのは、息苦しいような気がしたのだ。城の奥は芳と当主である義宣の御台のもので、そこに側室でも侍女でも何でもない祥は居づらいと思う。
先日まで、姉の鶴千代も佐竹家にいたそうなのだが、夫の義広が関白から江戸崎に知行を与えられ、そちらへ移ったらしい。以前の繁栄とは比べ物にならないほどの小さな所領だが、蘆名家が再興できたことを、鶴千代は泣いて喜んだだろう。鶴千代に会えなかったのは、少し残念だった。
佐竹家の当主は、芳の息子の佐竹義宣だった。祥の従兄にあたる人だ。政宗も常隆も従兄だったが、二人はまったく違っていた。政宗は悪鬼のようだったが、常隆は優しかった。義宣はどのような人なのだろう。これから世話になる身としては、挨拶をするべきだと思ったのだが、義宣は関白に従っていて留守だった。義宣の御台にも挨拶をした方がいいのかと思ったが、御台は病で臥せっているとのことだった。結局、義宣にも御台にも挨拶はできなかった。
その後、隠居している先代当主の義重に挨拶に行った。阿南は、義重に会うなり深々と頭を下げた。祥も阿南にならい慌てて頭を下げた。
「先の須賀川での戦では、援軍を送っていただきまして、ありがとう存じます。しかし、多くの死者を出してしまい、まことに申し訳ありませぬ。その上、娘ともどもお世話になり、ご迷惑ばかりおかけいたしますこと、どうぞお許しください」
「どうか、頭をお上げくだされ。我が妻にとっての姉上ならば、わしにとっても義姉上だ。それに、姫は義宣の従妹でもある。こちらこそ、二階堂勢をお助けできなかったこと、申し訳ない。どうか、下河辺の館にてゆるりとお過ごしなされよ」
「かたじけなく存じます」
「ありがとうございます」
祥も義重に向かって礼の言葉を言うと、義重はにこりと笑った。少し盛秀に似ていると思った。
「姫は、いくつになったのじゃ?」
「十一歳にございます」
「ほう、そうか。わしには姫より一つ下の娘がおるのだが、既に嫁いでおるため城にはおらぬのだ。城におれば、姫のよい遊び相手になったであろうにのう」
何と答えればいいのか思い浮かばなかったため、祥も義重に向かって微笑んだ。義重は、満足げに頷いていた。
「だが、姫にはもっとよい遊び相手がおるぞ」
「まことですか?」
「姫の養母上もお喜びになる者だ」
「私もですか?」
義重の言葉に祥は首を傾げた。阿南も驚いているようだった。義重が、入れ、と声をかけると障子が開いた。障子の向こうで平伏している大柄な男と少年が、顔を上げた。その顔を見て、祥と阿南は息をのんだ。
「お久しゅうございます、後室御前、姫様」
「美濃、大蔵」
祥は驚きのあまり声が出なかった。阿南の声も、絞り出したようにかすれていた。目の前に現れたのは、須田盛秀とその息子の大蔵だった。須賀川城が落城して以来、行方が知れなかった盛秀と大蔵がいる。
阿南の目には涙があふれていた。盛秀も大蔵も涙を浮かべている。祥も泣いていた。
義重は、積もる話もあるだろう、好きなだけ話をするといい、と言い残して去って行った。
「ああ、美濃。まことに、美濃なのですね。よく生きていてくれました。大蔵も」
「はい、美濃にございます、後室御前。姫様、爺ですぞ」
「爺、大蔵」
「姫様、お懐かしゅうございます」
四人は手を取り合い、涙を流した。ひとしきり涙を流した後、祥はようやく気づいた。源一郎がいない。
「爺、源一郎は?」
盛秀と大蔵が目を伏せる。その反応で、答えは分かったようなものだ。源一郎がこの場にいないという時点で、ほぼ分かっていたのだ。
「源一郎は、政宗に殺されました」
「まことですか、美濃?」
「はい。源一郎は政宗に生け捕られ、木に結わえ付けられ、撃ち殺されたのです」
「何と惨いことを」
源一郎の最期を聞いて、阿南は目許を袖で押さえた。祥の目から、新たに涙がこぼれた。源一郎は死んだ。もう、源一郎との約束は果たせないのだ。
「源一郎も男です。出陣前に覚悟はできていたことでしょう。それよりも、それがしは御前と姫様をお守りできなかったことが悔やまれます」
涙をぬぐいつつ、盛秀はこれまでの一年を語り始めた。盛秀は、須賀川落城後に佐竹を頼り、逃げ延びたのだそうだ。今は佐竹家に仕えている。盛秀のほかにも、二階堂旧臣で生き延びた者は佐竹家に仕えているらしい。最後まで政宗と戦うことを主張していた箭田野義正も佐竹家にいる。二階堂旧臣たちは、佐竹家では須賀川衆と呼ばれ、盛秀がまとめているそうだ。
阿南も、盛秀に今までのことを語り始めた。視線を上げると、大蔵は拳をきつく握り締め、祥を見ていた。阿南と盛秀の話に、祥も大蔵も同席していなくてもよさそうだったので、大蔵を誘って庭に出た。盛秀が、目の届く範囲ならば庭に出てもいいと言った。義重に許しをもらってあるらしい。
大蔵は、庭に出ても黙り込んでいた。大蔵の声を、再会の挨拶以外で聞いていない。
「大蔵、せっかく再び会えたのに、どうかしたの?」
「姫様は、兄が亡くなったことを、あまりお悲しみではないのですか? あんなに、一緒に遊んでおいででしたのに」
「どうして、そう思うの? わたしは、源一郎が亡くなって、とても悲しいです」
大蔵は何を言っているのだ。悲しくないはずがない。源一郎の死を聞いて、祥の胸はきりきりと痛んでいる。どうして、大蔵はこんなことを言うのだ。
「姫様は、ご平気そうに見えます。それがしは、まだ兄の死を忘れられません」
大蔵の目に涙が浮かぶ。はっとして、祥は大蔵の握りしめられた拳に手を重ねた。大蔵の視線と祥の視線が重なる。
「大蔵、わたしも源一郎が亡くなって悲しいです。須賀川城が燃えてしまったのも悲しい。蘆名家が滅ぼされたのも。でも、こうして大蔵や爺と再会できたことは、とても嬉しいし、佐竹の皆さんが優しいのも嬉しい。食事も、おいしいものをいただけばおいしいと思います」
「姫様?」
「大蔵、自分の身に起こった不幸を嘆くだけでは、不幸にしかなれないと、わたしは思うのです。だから、わたしは、どんなに悲しいことがあっても、少しでもいいから、楽しいことや幸せなことを探したいと思います。だって、わたしは生きているから」
「生きているから」
「はい。わたしは、養母にそう教わりました。生きているから、また大蔵にも会えたの。それを、わたしは嬉しく思います。でも、もしかしたら、わたしは人よりも鈍感なだけかもしれません。だから、そう思うのかも」
「そんな、そんなことはありません」
大蔵の涙が祥の手に落ちる。祥も、また泣いてしまった。
「姫様、ありがとうございます。それがしも、姫様にお会いできて、嬉しいです。だから、須田家の嫡男として、兄の分も姫様と後室御前をお守りします。今度こそ、必ず」
「ありがとう、大蔵。また、一緒に遊びましょうね」
「はい、必ず」
阿南に呼ばれたので、祥と大蔵は部屋に戻った。大蔵と盛秀に別れを告げ、阿南と鏡田とともに下河辺の館に、佐竹の家臣に送られて行った。
下河辺での暮らしは、平穏だった。必要なものは佐竹家から送られてくる。一度、義宣の御台が亡くなった時に、従妹である祥が継室になるのではないか、という噂が流れた。鏡田は噂が現実になることを望んでいたようだが、義宣の継室は多賀谷の姫に決まった。鏡田はがっかりしていた。
大蔵とは、また一緒に遊ぼうと約束したのだが、佐竹家の家臣となった大蔵は、なかなか下河辺の館にはやって来られなかった。年始の挨拶に、盛秀や須賀川衆とともに来る以外は、滅多に下河辺には来ないのだ。だが、今の大蔵の主は阿南ではなく佐竹家の当主である義宣なのだから、仕方のないことだった。
大蔵が祥のもとにやって来ても、祥は大蔵の笛とともに箏を弾いたことはなかった。祥は、源一郎と箏を弾く約束をした。源一郎との約束が果たせなかったのだから、大蔵と一緒に箏を弾くことはできないのだ。




