妹背結び
侍女に来客を告げられ、待ち望んでいた人が到着したのかと腰を浮かせかけたが、やって来たのは義隆の妻の寿流と嫡男の徳寿丸だった。
寿流は義宣の死から半年後に義隆に嫁いできた佐竹南家の姫だ。義宣が可愛がっていた渋江政光の孫でもある。
十四歳で嫁いできた寿流は幼い少女だったが、今は嫡男を産み、立派な母となっている。義隆との仲も睦まじく、和歌や書道をよくする活発な御台だった。徳寿丸は昨年の初冬に生まれ、年が明けて二歳になった幼子だ。寿流はよく気配りができて、月に一度は中屋敷の琳のもとを訪れてくれている。孫の顔を見せて、徒然を慰めようとしてくれているのだろう。
「義母上、お変わりありませんか?」
「寿流殿、お久しぶりですね。徳寿丸も元気そうで何よりです」
「義母上も。それに、今日は何だかいつもよりも楽しそうに見えますわ」
「分かります? 今日は私にとって大事な客人が来るのです」
「まあ、それでは、わたくしお邪魔でしたかしら」
「いいえ。客人にもあなたと徳寿丸を紹介したいわ。徳寿丸を抱いても?」
「ええ、もちろんです。徳寿丸、おばあさまですよ」
乳母に抱かれていた徳寿丸を抱いた。徳寿丸。琳の産んだ徳寿丸は二歳で死んだ。寿流の徳寿丸も二歳だ。寿流の息子は琳の産んだ徳寿丸とは違い、健康そうに見える。この子は元服まで健やかに育ってほしい。
もし徳寿丸が生きていたら、今頃は不惑を迎えているはずだった。琳が腕に抱いているのも、血の繋がった孫だったかもしれない。
血の繋がりがないから義隆夫婦を子どもと思えないということはないし、徳寿丸も孫だと思っている。だが、年を取るごとに昔のことばかり思い出すようになってしまい、夭折した息子のことが懐かしくなったのだ。
琳は今年で五十六歳になった。年を取ったものだ。目の前にいる十九歳の寿流と比べると、自分がすっかり老いたのだと実感する。
「大寿院様、京からお客様がお見えです」
「待っていました。さあ、はやくこちらに通して」
今度こそ琳の待ち望んでいた客人がやって来た。徳寿丸を乳母の腕にかえすと、気持ちがそわそわとして落ち着かなくなった。寿流はそんな琳を不思議そうに見ている。こんな姿を寿流に見せるのは初めてだから、珍しがっているのだろう。
侍女に連れられて、琳よりも一回り近く年上の尼が姿を現した。懐かしい。互いにすっかり老いてしまったが、すぐに分かる。
「お昌」
「大寿院様、お久しうございます」
「ああ、お昌、大寿院だなんて。昔のように呼んで。ねえ、顔をしっかり見せて。懐かしい。本当にお昌だわ」
平伏する昌の手を握り締め、顔を上げさせた。手にも顔にも深い皺が刻まれている。それは琳も同じことだ。老いて顔つきはどことなく変わっているが、昌が昌であることに変わりはなかった。琳を見つめる目は、昔の昌のままだ。
「義母上、この方は?」
「私にかつて仕えてくれていた侍女。いいえ、私にとって母のような、姉のような、唯一無二の人なのです」
「お琳様」
「お昌、こちらは当主の義隆殿の奥方と嫡男の徳寿丸」
「はじめまして。寿流と申します」
「お初にお目にかかります、御台様。かつては昌と名乗っていた者にございます」
徳寿丸を見る昌の目は温かだったが、どこか悲しそうでもあった。昌もきっと、夭折してしまった徳寿丸のことを思い出しているのだろう。
少し話をして、寿流は上屋敷へ戻って行った。琳が昌の訪れを楽しみにしていたから、気を遣って二人きりにしてくれたに違いない。寿流はそういう気遣いができる女だった。だから、義隆も寿流を気に入っているのかもしれない。
昌と二人きりになって、互いに見つめ合い笑った。話したいことはたくさんあるはずなのに、何から話せばいいのか分からなくて、ただ照れ笑いのような笑みを浮かべることしかできなかった。
「本当に、お琳様にお会いするのはお久しぶりにございます。正直に申し上げまして、今生でお目にかかることは二度となかろうと思っておりました」
「お昌と別れて、三十五年以上経ったのね。その間、文の交換はしても、一度も会ったことはなかった。長旅は体に辛かろうに、無理をさせてごめんなさい」
「いいえ。お琳様にお会いできると思えば、少しの旅などちっとも苦ではありませんでしたよ。お琳様にお会いできて、もう昌はいつ死んでも悔いはありません。それだけでも嬉しいのに、今でもわたくしのことを母のように、姉のように思ってくださっていらっしゃるとは」
昌の目にうっすらと涙が浮かんだ。小袖でそっと目頭を押さえる昌を見ていると、琳も泣きそうになった。三十五年。それだけの間、一度も昌に会っていなかったのだ。伏見の屋敷で別れてから、一度も。その間、琳の昌に対する思いは変わったことはない。寿流に言った通り、昌は琳にとって唯一無二の人なのだ。
先年、琳は病で床に就いた。その時に、死ぬ前にもう一度、昌に会いたいと思った。今生でやり残したことは、昌と会って話をすることだと強く思ったのだ。だから、京にいる昌に江戸まで来てもらった。昌の年齢を考えて、最初は琳が京へ行こうと思っていたのだが、出家しているとは言え、佐竹家の大御台である琳が江戸を離れることは難しかった。古希を迎えた昌には辛い旅だったと思うが、昌が喜んでくれて嬉しいし、何よりも琳が昌に会えて嬉しかった。
「何から話そうかしらね。お昌に話すことはたくさんあると思うのだけど、胸がいっぱいで」
「ええ。それにしても、お琳様はお美しくおなりです」
「何を言っているの? 私は皺だらけのお婆さんよ」
「それを言うなら、昌の方こそ皺くちゃの婆ですよ。何と言いますか、雰囲気が変わられた。だから、お美しく見えるのですよ。わたくしの知っている頃よりも、今の方がずっとお美しい」
昌が琳に対して世辞を言っているわけではないと思うが、昌の知っている二十歳のころの琳よりも今の方が美しいとは、どういうことなのだろう。昌と離れている間に、何が変わったのだろうか。
「お琳様、お屋形様がお亡くなりになって、何年になりました?」
「五年。五年だわ。もう、そんなに経ったのね」
「さようにございますか」
昌がいなくなってから変わったこと。義宣が死んだ。だが、それで琳が美しくなったはずがない。義宣が死んで五年。もうそんなに経っているのだ。この前まで義宣とともに上屋敷にいたような気がするのに、琳は義宣のいない中屋敷にいて、上屋敷には新しい当主の義隆夫婦がいる。
「お屋形様とご夫婦でいらっしゃった長い年月、お幸せでしたか?」
昌の目が一瞬険しくなった。昌は義宣のことを嫌っていた。まさか、今も嫌っているとは思えないが、義宣に対する目は今でも厳しいのだろう。いつでも昌は琳のことを一番に考えてくれていた。だから、琳をないがしろにしていたように見えた義宣が許せなかったのだ。
昌が知っている頃の琳は、義宣に怯えて縮こまっている幼子のようなものだった。昌の目には幸せに見えていなかったのだろう。あの頃は幸せではなかった、と自分でも思う。だが、ともに尼になって余生を過ごそう、という昌の誘いには乗れなかった。その結果、昌が琳のもとを離れてしまっても、それを引きとめることができなかったし、琳はずっと義宣のもとにいた。
琳が昌よりも義宣を選んだ。昌はそう思っているのではないか。昌と離れてから、ずっと思っていた。そんなことはないのだと伝えたかった。昌がいなくなってからも、琳は何とか生きてこられたと伝えたかった。すべて、昌が愛してくれていたおかげだと、一言伝えたかったのだ。
昌も同じ様に琳のことを気にしてくれていたのだ。幸せに生きていたのか。義宣は琳を幸せにしてくれたのか。ずっと案じてくれていたのだろう。
「幸せ。幸せというものが、夫婦というものが、私にはよく分からないけれど、少なくとも昔のようにお屋形様に怯えることはなかったわ」
「そう、ですか」
「私も、お屋形様と幸せな夫婦になりたいと思って、でも幸せな夫婦、夫婦のあるべき姿というのが分からなくて。そもそも、恋とか愛とかそれ自体が私には分からなかった。今でも、幸せも、恋も、愛も、夫婦も分からない。自分でもお屋形様のことをどう思っていたのか、いまだに分からないのだもの」
これは琳の本心だ。夫が義宣だったから、愛も恋も夫婦も分からなかったのではない。本当に、琳には分からないのだ。父はとても恐ろしい人だった。母はそんな父をどう思っていたのか分からなかった。琳の知っている夫婦は両親だ。あれが愛情を通わせた幸せな夫婦だとは思えなかった。
義宣の父が死んだ時、いつもは気が強い佐竹の大御台がすっかり気落ちして、しばらく泣き暮らしているのを見て、これが夫婦の絆なのだと思った。同時に、自分は義宣が死んだ時、泣くのだろうか、とも思ったものだった。
「それでもね、お屋形様が倒れられた時、私どうしていいか分からなくて。お屋形様が亡くなってしまう。そんなことを考えたくもなかった。一方で、私がついていない時にお屋形様が亡くなってしまったらどうしよう、とも思って、ずっと枕元についていた。すぐによくなります、なんて気休めを言ってね。お屋形様が亡くなった時は、悲しかったのか寂しかったのか分からないけれど、涙が溢れて止まらなかった。止められなかったのよ」
「夫婦だったのですね」
「そうかしら。そう、なのかもしれない。私とお屋形様もひとつの夫婦の形だったのかもしれない。お屋形様、お亡くなりになる前に、私に『すまなかったな、ありがとう』とおっしゃったのよ。あの瞬間、ああ本当にお屋形様は亡くなるのだ、と思って悲しかったとは思うのだけれど、同時にそのお言葉をとても嬉しいとも思ったの。だから、あの瞬間だけは今でもはっきりと覚えている」
琳は義宣に対して何もできない妻だった。嫡男を産んでも失ってしまい、新たな子も産むことができなかった。ただ人質として江戸にいて、たまに江戸に滞在する義宣の話を聞いて、ともにいるだけだった。気づいた時には義宣と褥をともにすることはなくなっていた。それを不満にも不安にも思うことはなかった。昔の義宣に怯えていた琳ならば、義宣と褥をともにしないことを、不興を買ったのではないか、と不安に思っただろう。
義宣とともに過ごすうち、義宣に怯えることはなくなった。それは義宣が琳に歩み寄る努力をしてくれたからだと思う。琳の方こそ、義宣に言いたかった。ごめんなさい、ありがとうございます。私が妻でお屋形様はよかったのですか。
これが夫婦だったということなのか。少なくとも琳は義宣に恋をしていなかった。岩瀬の姫と義宣のように愛し合うこともなかった。男と女として愛し合うことはなかったが琳は義宣に、ありがとう、と言いたかった。義宣も、ありがとう、と言ってくれた。これが義宣と琳の夫婦の形だったのだろう。
「やはり、夫婦だったのですよ。その話を聞いて安心いたしました。わたくしがあの時、お琳様のおそばを離れたことは間違いではなかった。離れてよかったのです」
「そんなこと、そんなことないと思う。離れてよかったなんて。私がお屋形様と夫婦になれたのは、確かにお昌が私を愛してくれていたからよ。お昌に恥ずかしくないように生きよう、と思っていた。お昌が愛してくれたから、私頑張れたの。だから、離れてよかったなんて、言わないで」
「ですが、わたくしはお屋形様とお琳様の仲を阻もうと」
「それでも、離れてよかったなんて言わないで。お昌は、私がお昌よりもお屋形様とともにあることを選んだと思っているかもしれないけれど、そんなことはないの。私は、お屋形様ともう少し頑張りたかっただけ。できれば、昌と一緒に。でも、お昌がお屋形様を嫌っていたのは知っているし、もうお昌を私で縛ってはいけないと思った」
「お琳様」
「今日は、それが言いたかったの。お昌、私はお昌が大好き」
「お琳様、昌は幸せです。何と果報者なのでしょう」
昌の目から涙が溢れた。その涙を琳が袖で拭う。昔は逆だった。いつもめそめそと泣いていた琳を、昌が抱きしめて優しく慰めてくれていた。
「お琳様のもとを離れてからも、昌はいつもお琳様のことを考えておりました。時折いただく文で、お元気にお過ごしなのだと知ると嬉しかった。今日、お美しくなられたお琳様にお会いできて、こんなに嬉しいお言葉まで聞けて、嬉しい」
「お昌」
「お琳様がお美しくなられたのは、お屋形様と寄り添うことができたからだったのですね」
義宣と寄り添う。それが義宣と琳にはあっている言葉のような気がした。激しく恋することも愛し合うこともなかったが、だからこそ嫉妬の炎に身悶えることもなく、いつも穏やかな心で義宣に接することができたのだと思う。
「ねえ、お昌は京で親のいない子どもたちを引き取っているのよね?」
「ええ」
「幸せ?」
「そうですね。実を言うと、子どもを引き取りはじめたのは不純な動機からなのですよ。尼として人を救いたいと思ったわけではなかった」
「そうなの?」
「はい。もう一度、やり直してみたかったのです。自分はどこでお琳様への接し方を間違えたのか。何がいけなかったのか。どうして私は、お琳様の目を、耳を塞いでしまっていたのか。幼い子どもたちを育てることで、やり直してみたかった」
「お昌、私は」
「けれど、次第にそんな不純な理由からではなく、まことに子どもたちが愛しく思えてきて、あわれな子どもたちを救いたいと思うようになりました。それに、お琳様のお気持ちをうかがって、昌の心は晴れ晴れとしているのですよ」
「私たち、一番近くにいて、一番互いのことを理解しているつもりだったのに、一番遠回りをしてしまったみたい」
「本当に。三十五年近くかかって、ようやくお琳様と巡り合えた気がします」
その後は、昔の思い出話をずっとした。初めて昌と会った日のこと。下妻で過ごした日々のこと。佐竹家での暮らし。夭折した徳寿丸。どんな些細な話でも、昌との思い出の詰まった話は飽きることがなく、思い出が色鮮やかに蘇った。
日が暮れるまで話し合い、夜は布団を並べて眠った。布団を並べて眠るのは下妻にいたころ以来だったので、懐かしくて嬉しくなった。下妻で父に怯えていた時も、佐竹家で義宣を恐れていた時も、昌がいたから、どんな思い出も懐かしく思えるのだ。
夜が明けて朝食をとり、昌が京に帰る時になった。
「もっとゆっくりしていけばいいのに」
「ええ。けれど、京でわたくしの帰りを待っている子どもたちがおりますから。もっとも、今はほとんどほかの者に任せているのですが」
「そうね。昌には昌の、私には私の生きる場所があるものね」
「はい。昨日お会いした御台様も素敵なお方のようで、よろしうございました」
「あ、思い出したわ。私、寿流殿と義隆殿を見ていて思うことがあったの。聞いてくれる?」
「もちろん」
首を傾げる昌の手を両手でしっかりと握りしめ、琳は笑った。
「私も、お屋形様のことを『旦那様』と呼んでみたかった。寿流殿はそう呼んでいるの。お屋形様がお元気だったころには、そんなこと一度も思わなかったのに不思議ね。『旦那様』の方が夫婦という感じがするわ」
「ふふ。けれど、お琳様とお屋形様は、やはり『お屋形様』がしっくりきますねえ」
「やはりそうね」
昌の乗る籠が中屋敷に到着した。昌は帰ってしまうのだ。これが今生の別れになるかもしれない。そう思うと、握り締めた手をなかなか離せなかった。
「お昌、年が明けて春になったら、今度は私が京へ行くわ。一緒に京の桜を見ましょう」
「それはよいですね。それまで元気でいられますかしら」
「元気でいてもらわないと困る。最近風が冷たくなってきたから、体に気をつけて。もうすぐ冬だから暖かくしてね」
「お琳様も。また病で床に就かれたなどという知らせが届いたら、わたくしまで倒れてしまいそうです」
「お互い年をとったものね」
別れがたくてついつい話し込んでしまったが、もう昌は出立しなければならない。昌が籠に乗るところまで見送り、籠が出てからも、見えなくなるまでずっと籠を見送った。
「義母上」
徳寿丸を連れて、今日も寿流が遊びに来てくれた。琳に手を振る寿流に手を振り返す。客人が帰って寂しい思いをしていると気遣ってくれたのだろう。
幸せとは何なのか分からない、と昌には言ったが、確かに琳は幸せだ。今度会った時に、もう一度昌に伝えよう。
風が吹く。冬を感じさせる風だった。




