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道程  作者: 実川
八 秋田の国主編
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秋田の国主編(十四)

 目を開けると琳の泣きそうな顔が見えた。義宣と目が合い、はっとして琳は人を呼んだ。

「お屋形様、お加減はいかがですか? 火事の見物をなさっていて、急に倒れられたのですよ」

 そういえばそうだ。義隆に寒風は体に悪いと言われ、部屋に戻ろうとしたことだけは覚えている。その時に倒れたのだろう。

 失礼します、と断りを入れて琳の手が義宣の額に伸ばされた。琳の手は冷たかった。それとも義宣の熱が高いのだろうか。体が重い。熱いのかもしれない。

「熱が少し高いようですね。けれど、医師を呼びにやりましたから、安静にしていればきっとよくなります」

「体が重い。腹も痛む。いつもの寸白か疝気だろうが」

「お話になるのもつらいようでしたら、ゆっくりお休みください。何年も無理をなさっていたのですから」

「そうだな」

 間もなく医師がやってきて、薬を飲まされた。瞼が重くてしかたがない。起きているのが辛い。琳に言われた通りゆっくり休むことにした。

 城が見える。太田城だ。梅が咲いている。太田の梅は見事だった。手を伸ばして触れようとした瞬間、梅の花弁が血に変わった。真っ赤な血が太田城を染め上げる。

 声が聞こえた。何を言っているのかは分からない。だが、義宣への怨嗟の声であることだけは確かだった。血にまみれた武士が義宣に迫っている。義宣が暗殺した男たちだ。梅見の宴を開くと言って太田城へ呼び出し、その場で殺した三十三館主だ。義宣も地獄へ引きずり込もうとしているのか。

 確かに義宣は極楽浄土へはいけないかもしれないが、過去の亡霊に地獄へ連れて行かれるのもご免だった。義宣にむらがる亡霊の手を振り払った瞬間、高い笑いが聞こえた。女の声だ。声のする方を向くと、血まみれの女が立っていた。

 八重。

 八重の手が義宣に伸びる。逃げられない。

「お屋形様」

 はっとして目を開けた。周りを見ると、琳が義宣を心配そうに見つめていた。

「ひどくうなされていらっしゃいましたので、声をかけさせていただきました。悪い夢でもご覧になったのですか?」

「夢。そうか、夢か。そうだな、苦しい夢だった」

 熱のせいであんな夢を見たのだろうか。それとも、本当に地獄から迎えが来ていたのだろうか。どちらも正しい気がする。病と高齢で弱っている体が高熱に耐えられるとは思えない。医師に飲まされた薬も効いている気がしない。その時がやって来たのだ。

 義宣が死んだら八重と蓮の台に乗ることになるのだろうか。八重は嫌がるだろう。義宣が黄泉に行ったら、八重はどこかに逃げ隠れてしまうかもしれない。

 八重。義宣が初めて恋焦がれ、執着した女。初めての妻。そして義宣が殺した同然も女。今でも義宣が思い出すのは氷のように冷たく美しい八重の姿だった。義宣を蔑むような冷たい目。義宣を憎む激しい目。笑顔は思い出せない。一度も、八重は義宣にほほ笑みかけてくれなかった。

 八重が欲しかった。八重のすべてが。その結果、すべて奪ってしまったのだ。

 あの夢は地獄からの迎えかと思ったが、八重が義宣を迎えに来るはずがない。

 労わるように琳の手が義宣の肩を撫でる。気持ちが落ち着いてくると、また瞼が重くなった。

 白い。視界のすべてを埋め尽くす白さだ。これは雪か。秋田の雪に違いない。窪田城に雪が積もっている。義宣が築いた城だ。雪の積もった窪田城は美しい。城下も白く染まり、静謐さを感じさせる。

 雪の中、馬の鼻づらを撫でている義重の姿が見えた。その隣には母が寄り添っている。貞隆も義勝もいる。義久も政光も、憲忠も向宣政もいる。義宣よりも先に隠り世へ行った近しい人間が窪田城下に集っていた。

 懐かしい。楽しげな輪に義宣も入ろうとして、気づいた。祥がいない。そうか、祥には会えないのか。政景もいない。琳もいない。

 まだ、あちらに行くわけにはいかない。言い残したことがある。

 目を開けると琳がうたた寝をしていた。もしかして琳は、義宣が倒れてからずっとつきっきりで看病してくれているのか。手を伸ばして琳の髪に触れた。だいぶ白いものが増えている。

 義宣をひたすら恐れていた可憐な少女だった。実父の重圧に怯え、義宣に怯え、義宣の子を産み、その子を亡くした。琳は義宣の妻となり、幸せだったのだろうか。義宣は琳に何もしてやらなかった。それこそが義宣の罪なのだと、かつての琳の侍女の昌に言われたことがある。

 琳が目を開けた。起こしてしまったようだ。

「お屋形様、申し訳ございません。うたた寝などしてしまって」

「いや。お前も横になった方がいい。顔色があまりよくない」

「いいえ、お屋形さまのお体の方が大事ですから。お薬も効いてきているようですし、お屋形様が落ち着かれましたら私も休みます。もうすぐ休めますね」

 ほほ笑んで琳はそう言うが、かえって義宣は自分の命が終わりを迎えようとしているのだと実感した。ほほ笑んではいたが、琳の口許はひきつっていたし、泣きそうな顔をしている。薬が効いていないことは、自分の体だから自分が一番分かっている。

 琳が義宣のそばを離れないのは、離れた時に義宣が死ぬのを恐れているからだ。徳寿丸が高熱を出した時、琳がそばを離れている間に徳寿丸は死んだ。

「なあ、琳」

「はい」

 俺の妻でよかったか。そう聞きたかったが、聞けなかった。義宣に怯えていた琳が、自分が離れている間に義宣が死ぬことを恐れ、義宣の死に涙を浮かべてくれている。それだけで十分ではないか。

「すまなかったな、ありがとう」

 琳の目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。そのことに琳自身が驚いているようだった。

「琳」

「は、はい」

「今日は気分がいい。義隆と主だった家臣たちを呼んでくれ」

「ええ、承知いたしました」

 義宣の真意が琳にも分かったのだろう。悲しそうな顔をした。遺言を伝えるのだ。

 本当は政景に自分の口で伝えたかった。義宣の死後の佐竹のことを任せられるのは政景だけだ。今まで四十年以上、政景は誰よりも義宣の近くに寄り添い、義宣とともに生きてきた。政景だけが義宣をすべて理解していた。

 会いたい。政景にも祥にも会いたい。祥。今何をしている。横手の冬は辛くないか。横手の暮らしは楽しいか。離縁してもう二十年以上経つのか。

 愛し合いながら離れ離れになったせいか、祥との思い出はすべて美しい。月の夜、祥は義宣を愛すと言ってくれた。それなのに義宣は祥をひどく傷つけた。そして同じく月の夜、祥に自分のすべてをさらけ出し、愛し合うようになった。

 祥。今でも義宣にとって祥だけが愛した女だ。会いたい。

 義隆と家臣たちに遺言を伝えると、また体が重くなり、起きているのが辛くなった。琳が義宣を呼ぶ声が聞こえるが、答えられない。

 道が見えた。整備された街道ではなく、踏み固められてできた道だ。無数の足跡がある。前を向くと、雪に埋もれていて、梅の花が舞っていた。

 そうか、これが義宣の歩いてきた道。生きてきたということなのか。急に体が軽くなった。雪や梅とともに舞えそうな気がした。


 政景のもとに、義宣が危篤だという知らせが江戸の義隆から届いた。つい先日、春には巡検使がやって来るから準備を怠らぬように、という義宣からの命が届いたばかりだというのに。信じられない。

 急いで佐竹家の祈祷寺である宝鏡院と八幡宮に病平癒の祈祷を行わせた。だが、その翌日には義宣の容体がおもわしくない、と義隆からの書状が届いた。宝鏡院と八幡宮だけでは足りなかったのかもしれない。領内のすべての神社、仏寺に義宣の病平癒の祈祷を命じた。

 領内すべての寺社に祈祷をさせたことがよかったのか、祈祷を命じた翌日に届いた義隆の書状には義宣の病状が持ち直したと書かれていた。だが、ほっとしたのもつかの間、今度は江戸にいる重臣たち五人の連名で義宣の遺言が届けられた。

 遺言。義宣に死が迫っている。読みたくなかった。遺言など読みたくない。だが、義宣がわざわざ政景にあてて残してくれたのだ。読まないわけにはいかない。

 近頃は主君が死ぬと追腹を切るのがはやりのようにもてはやされているが、当家では新羅三郎の頃から主君の死に際して追腹を切ったことなどない。それは当家の手柄である。義宣が死んでも家臣たちが追腹を切る必要はない。この命を破った場合、当家の恥辱であると覚えておくように。義宣の通夜は天徳寺で政景のみが行うように。

 そんなことが書かれていた。遺言の最後には、さりげなく岩瀬御台の処遇も書かれていた。

 義宣からの遺言が届いて五日後、江戸から知らせが届いた。

 大殿様廿五亥の刻御他界。

 義宣が死んだ。一月二十五日に死んだ。その日は、政景が領内すべての寺社に義宣の病平癒の祈祷を行わせた日ではないか。その日に義宣は死んでいたのだ。

「ご家老、江戸からは何と?」

「殿がご逝去された」

「お屋形様が」

「ご遺骸を秋田にお迎えする準備、ご葬儀の準備、若殿様の家督相続の手続き。やることは山積みだ」

「はい」

 書状を手の中で握りつぶした。義宣が死んだ。その時が来たら泣き崩れてしまうのではないか、と思っていたが、今は心の中が空になったようだ。やらなければならないことが次々と頭に浮かんで来て、悲しんでいる暇などない。

 義宣は政景に遺言を残した。政景が義宣を見送らなければならないのだ。泣くのは後だ。それに、今は心が空で涙など出ようがない。

 義宣不在の窪田城は悲しみに沈んでいた。領内を埋め尽くす雪の白さも、義宣の死を悼んでいるように見える。

 悲しみを感じられないくらい、政景は忙しかった。領内のことは政景が取り仕切らなければならないし、義宣を迎える準備もある。忙しさに体がついていかないのが悔しかった。持病の咳が悪化し、寝込んでしまった。

 だが、いつまでも寝込んでいるわけにもいかず、無理をして仕事に打ち込んだ。はなも孫の松阿弥も心配してくれたが、これは政景がしなければならないことなのだ。政景でなければならない。

 義宣の霊柩が秋田に到着した。藩主の無言の帰国だ。柩は遺言通り天徳寺に運ばれ、政景ひとりが天徳寺に向かった。

 義宣の柩と向き合う。義宣が政景ひとりで通夜を行うよう命じたのは、政景に別れの時間を与えてくれた配慮だったのだと思う。義宣が死ねば、政景は忙殺され悲しみに浸ることもできない。義宣はそのことを見越して、通夜を命じてくれたに違いない。

「殿」

 声をかけても、義宣から返事が返ってくることはもう二度とない。それでも、政景は義宣が眠る柩に声をかけずにはいられなかった。そっと柩に触れた。柩は冷たい。義宣は、この柩よりも冷たくなっているのだろう、と思った。

 柩を撫でる手の甲に、水滴がぽたぽたと落ちる。ようやく泣くことができた。空になっていた心が、溢れるほどの悲しみでいっぱいになっている。涙が止まらなかった。痛い。辛い。

「殿、殿。義宣様」

 年甲斐もなく咽ぶと、涙だけではなく咳でも喉を詰まらせてしまう。義宣の死を告げられてから、咳病は確実に悪化している。

 政景の咳を聞きつけた寺の者が火鉢を勧めてきたが断った。殉死が許されないのならば、このまま死んでしまいたい気持ちもあった。

「四十年、四十年ですよ。私には、あなたしかいなかった。あなただけだった。本当に、子どもの頃からずっと、ずっとです。私には、義宣様だけだったというのに、あなたは私に死をお許しくださらない。酷いお方だ」

 義宣が殉死を禁じた理由は分かっている。政景を死なせないためだ。義宣の死後も生きて、新たな藩主、義隆を支えさせるためだ。

「言われなくても、死にませんよ。若殿様がいらっしゃいますからね。私は、あなたの骨を拾って、あなたの葬儀を」

 咳のせいで、それ以上は言葉を続けられなかった。涙と咳のせいで、息苦しい。だが、心の痛みに比べれば、息苦しさなどどうでもいい問題だった。明日、義宣の遺体は荼毘に付される。明後日には、骨を拾い、この天徳寺の仏殿に納めなければならない。

 いくら一晩義宣と別れの時を過ごせても、明日にはもう義宣は骨になってしまうのだ。いっそのこと、義宣が荼毘に付される火の中に、政景も飛び込んでしまいたかった。

 もっとも、この体調では、政景が火に焼かれるのもそう遠くはなさそうだが。

「お慕いしていましたよ、義宣様。ずっと、ずっと。今も、これからも、ずっと」

 柩に縋り、ひとしきり涙を流した後、顔を上げると明るくなっていた。朝だ。

 重臣たちとともに義宣が荼毘に付されるのを見ていた。雨が降った。翌日、義宣の遺骨を拾った時も雨が降り、風も吹いた。義宣の死に空も泣いているようだった。

 天徳寺の仏殿に義宣の遺骨を納めた。本当に、義宣は死んだのだ。政景を置いて。

 ひとしきり泣いたはずなのに、また涙が溢れた。

 だが泣いてばかりもいられない。葬儀の準備が残っている。義宣は鷹をこよなく愛していたから、葬儀の行列の後尾には、鷹狩の鷹が続くように手配した。

「旦那様、少しはお休みください。ここ一月、ほとんど眠っていらっしゃらないでしょう? 随分と痩せられましたよ」

「心配をかけたな、おはな。今日はちゃんと休むよ。日記を書いたら」

「松阿弥も心配しているのですからね。どうか、ご自分の体をもっと大事になさって」

 義宣のもとに行きたいと思って無理をしていたわけではない。だが、結果としてはそうなってしまったのかもしれない。もともと悪かった体調が悪化してしまった。政景にも死期が近づいているのが分かる。

 だが義宣の葬儀が終わるまでは死ねない。

 二十年以上毎日書き続けてきた日記を開く。日記にも義宣との思い出ばかり詰まっている。

 義宣は褒めてくれるだろうか。今までの政景の頑張りを、あちらに行ったら褒めてくれるだろうか。昔のように、金阿弥だった子どもの頃のように、よくやった、と言ってくれるだろうか。

 日記の最後に天気を書きこみ、政景は先に休んでいるはなのもとへ向かった。

 朝雨降る、昼より天気よし。

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