秋田の国主編(十)
祥が横手に移ってから十年以上が経った。義宣と別れて、もう十年以上経つのだ。義宣とともにあった日々は、ずいぶん昔のことのように思える。まだ十年しか経っていないのか、とも思うし、もう十年経ったのか、とも思う。
横手での暮らしは平穏だった。毎日、須賀川衆の子女が祥のもとを訪ねてくれて、懐かしい須賀川の話や、秋田に移ってからの話など、様々な話に付き合ってくれる。だが、祥に気を遣っているのか、一度も義宣の話題になることはなかった。
須賀川衆の子女は義宣の話をしなかったが、須田盛秀は義宣のことや窪田で起こったことなども、話せる範囲で話してくれる。そのおかげで、横手にいながら祥は窪田の様子も詳しく知ることができた。
祥と別れてからの義宣の様子を聞くのは、楽しみでもあったが辛くもあった。はじめのころは話を聞きたいのに、聞くのが辛くてなかなか盛秀から義宣の話を聞くことができなかった。人から自分の知らない義宣の話を聞くことで、自分はもう直接義宣に関わることはできないのだと実感することが嫌だった。
今ではもうほとんど辛さを感じることはない。義宣が健やかに過ごしているのならば、それでよかった。義宣が秋田をよくしようとしてくれているおかげで、祥も横手で平穏に暮らすことができている。
ただ、祥も年を重ねたせいか、体調を崩して床についてしまった。体調がすぐれないだけで、特に病にかかっているわけでもないと思うのだが、鏡田はひどく祥のことを心配して、盛秀にまで祥の不調を知らせてしまった。
「鏡田は心配が過ぎるのよ。鏡田も体調がすぐれないことくらいあるでしょう? 少し頭痛とめまいがしたくらいで大袈裟だわ」
「いいえ、姫様。ただの頭痛と思っていて、大きな病だったら大変ではないですか。美濃殿にお願いして、窪田から名医を呼んでいただくことにしました」
「窪田に知らせたの? それでは、お屋形さまのお耳にも入ってしまうかもしれないではないの」
「いけませんでしたか?」
「もう、鏡田ったら」
少し意地悪そうに鏡田はほほ笑んだ。窪田に知らせて、祥が病だと義宣が思えば、義宣は祥を心配してくれるだろう。窪田で一番の医師を派遣してくれるかもしれない。だが、離縁した祥のために義宣に迷惑をかけたくなかった。
それでも、鏡田の心遣いは嬉しい。鏡田は、少しくらい義宣に心配させてやれ、と思っているのだ。離縁されてから十年、一度も祥は義宣と連絡を取らなかった。二人でそう決めていたからだ。義宣は祥のために、上洛した時など土産に小袖や金子を送ってくれる。その時も、盛秀に礼を伝えてくれるように言うだけで、義宣に直接礼を言うことはなかった。
だから、もし義宣が祥を心配して医者を送ってくれるのなら、それは嬉しいことだ。義宣が祥のことを忘れていないということは、贈り物をされるたびに実感しているが、心配されて嬉しくないはずがない。
翌日、窪田から派遣された医師が祥のもとにやって来た。医師の話では心配いらないとのことだった。祥も年を取ったのだから、体調を崩すこともあるということだ。ほとんど病気をしたことのない鏡田の方が不思議なのだ。鏡田は祥よりも十五歳以上年上のはずなのだが、健康そのものだった。
窪田からやって来たのは、医師だけではなかった。医師が退室した後に顔を見せたのは、義宣の側近の梅津政景だった。
「昌寿院様、お久しぶりにございます」
「まあ、主馬殿。本当に、お久しぶりですね。美濃に何か用事でも?」
「いいえ、殿の命で参ったのですよ。殿は昌寿院様のことをとても心配されておりまして、私に直接様子を見てくるように、と。お元気そうで何よりです」
「そう、お屋形さまが。そうですか」
義宣が祥のことを心配してくれている。想像していたよりも、ずっと嬉しかった。別れてから十年、こんなにも直接的に義宣と関わったのは初めてだ。
「主馬殿も、お元気そうですね。奥方とお子はお健やかですか?」
「妻も娘も息災です。お気遣いありがとうございます。娘は先年、私の兄の次男を婿に迎えたのですよ。この間まで、まだまだ子どもだと思っていたのですが、娘が大人の女になるのは一瞬のことなのですね」
「ふふ、お子のことが可愛くてならないのですね」
「ひとり娘ですから」
ひとり娘が可愛くてならないから、わざわざ信頼できる兄の子を婿に迎えたのだろう。こういう他愛ない話をするのは楽しかった。
「殿も、先年ついにご養子をお迎えになりました」
「美濃から聞いております。確か、お屋形さまの弟御だとか?」
「ええ。今は亡き北城様の遺児でしてね。殿の異母弟です。相国様にもお目見えして、元服もすまされました。彦次郎義直様とおっしゃいます。今は江戸屋敷におられます」
「そうですか、ついにお屋形さまもご養子を迎えられえましたか」
「江戸の宝寿院様は随分とお怒りですよ。伊達の血を引かない子どもが佐竹家の後継ぎになるなど、と。御台様は納得されていますが」
「大御台さまらしいお言葉ですね」
自分の異母弟を養子にすると決めて、多少は義宣の心も穏やかになったのではないだろうか。祥が四十歳を超えたのだから、義宣はもう五十歳を過ぎている。この年で子どもも養子もおらず、もしも義宣が急死するようなことがあれば、佐竹家は後継ぎがいないことを理由に取り潰しとなるかもしれなかったのだ。
それに、何人若い女を侍らせても一向に子ができなければ、義宣も女も心が休まるはずがない。御台も、義宣が養子を迎えて安心しているかもしれない。だから納得したのだ。自分に子ができなかったことを嘆く気持ちも当然あるだろうが。それでも、自分に子ができず、しかも義宣が養子を迎えないとなると、責任を感じて心が休まらない。
だが、大御台の反応は大御台らしいとしか言いようがなかった。祥は大御台のことをよく知っているわけではないが、大御台が伊達家を大事にしていることはよく分かる。義宣がそのために苦しんでいたことも知っている。大御台の反応を義宣はどう思ったのだろう。
政景を見つめると、政景は小さく笑った。
「殿は、大御台様のことを何とおっしゃったと思います?」
「お屋形様は、大御台さまに対してお怒りになったのですか?」
「いいえ。母上にも困ったものだ、と。そして、可愛いものだろう、ともおっしゃいましたよ」
「まあ、それはまことですか?」
「ええ」
「そうですか。それは、とても素敵なことですね」
義宣は変わった。母に愛されたかった、と泣いていた子どもではなくなったのだ。
大御台のことを許したのか、と言うとそういうわけではないのだろう。許すとか、許せないとか、そういう問題ではなかったのだと思う。ただ義宣は、一度は恨めしく思った母のことも愛してみよう、心を開いてみよう、と思ったのだろう。そして、今まで見えなかったものが見えるようになったのだと思うのだ。
昌寿院さま、と子どもの高い声が聞こえた。よく祥の庵に遊びに来る須賀川衆の子どもだろう。鏡田が立ち上がり庭へ向かった。
「よく子どもが遊びに来るのですか?」
「はい。裁縫を教えたり、いろいろな物語をしたり、楽しく遊んでおります」
「そうですか」
「わたしのことを慕ってくれています。楽しいですよ、横手での日々は。穏やかであたたかい。時が過ぎるのもゆっくりしているような気がします」
「姫様、子どもたちが姫様のお体の加減がすぐれないと聞いて、花を摘んで参りましたよ」
鏡田の後ろに、花を手にした子どもたちが隠れている。祥が手を振ってほほ笑むと、子どもたちはぱっと笑顔を浮かべた。だが、客人がいることを認めると、その場に花を置き、手を振って去って行った。
「鏡田、あの子たちにわたしは大丈夫だから、明日は一緒に遊びましょう、と伝えて」
「かしこまりました」
横手の日々は平穏だ。それは子どもたちが遊びに来てくれたり、須賀川衆が来てくれたりして、心穏やかな時を過ごしているからなのだが、男と女の業から離れたことも関係しているだろう。
祥が今も義宣の側室のままだったならば、自分に義宣の子を産むことができず、二階堂家の子を産むこともできずにいることを責めずにはいられない。義宣が養子を迎えたことに対して申し訳ない気持ちになったに違いない。
それだけではない。祥に子ができなければ、京から三人衆を迎えたように、義宣は若い女を次々にそばに置く。いつ義宣の心が自分から離れてしまうのか、不安に思うこともあっただろう。義宣のことを信じていないわけではない。それでも、祥には義宣しかいないのに、義宣には御台もほかの京女もいる。それは恐ろしいことだった。
ともにいるのに、次第に義宣の愛が信じられなくなり、子ができないことで義宣に対して申し訳ない気持ちを抱き続ける。二階堂家の娘としての使命を果たせないことも祥の心を苛む。いずれ、そうなっていたはずだ。
今は違う。離れているからこそ、義宣との美しい思い出を胸に、義宣の愛を信じられる。義宣から贈られた和歌は真実なのだと思うことができる。義宣の子も二階堂の子も産むことができずとも、祥は祥であることに変わりはなく、生きていくことができる。
十年の間にそう思えるようになった。祥の心は穏やかだ。
「それでは、私はそろそろ失礼いたします。あまり長居をして昌寿院様のお体にさわってはいけませんから」
「主馬殿、わざわざありがとうございました」
「いえ。何か、殿にお伝えしましょうか?」
「医師を遣わしてくださったことのお礼をお伝えしてください。それだけで結構です」
礼をして政景は去って行った。政景と入れ違いで鏡田が部屋に戻って来た。
「お屋形様に何もお伝えなさらなくてよろしいのですか?」
「聞いていたの」
「聞こえたのです」
「いいのよ、何も伝えることはない。あの方もわたしも、それぞれの道を歩んでいる。健やかにいてくださるなら、それで十分だわ」
「そうですね」
「それにしても、鏡田は本当に病気ひとつしないわね」
「もちろんです。わたくしは姫様よりも長生きするつもりなのですから」
「わたしが八十歳まで生きたらどうするつもり?」
「それならば、わたくしは百歳を目指します」
「ありがとう、鏡田」
鏡田はずっと祥のそばにいる、と言った約束を果たすつもりでいるのだ。その気持ちが嬉しかった。八十歳を過ぎた自分が、鏡田に「姫様」と呼ばれる姿を想像すると、何だか面白くて、思わず笑ってしまった。




