無垢の子ども編(十)
憲忠が佐竹家から姿を消してしばらくすると、一門や譜代も憲忠と真崎孫三の喧嘩沙汰を話題にする者は少なくなっていた。だが、まだ憲忠を呼び戻すことはできない。最低でも、三年ほどは義憲に匿ってもらわなければならないだろう。
だが、金阿弥は兄が生きているだけで嬉しいようで、以前と変わらぬ明るさで義宣に接していたし、義宣に深い恩を感じているようだった。
年の瀬になると、母がしきりに義宣のもとへやって来るようになった。先の御台が死んで一月もしないうちに決められた許嫁の多賀谷の姫が、年が明ければ十三歳になる。母は姫が十三歳になったら正式に義宣と結婚させるつもりらしい。死者が出た悲しい事件を忘れるためには、めでたいことが必要だ、などと言ってくる。
姫は義宣の許嫁と決まってから、伏見屋敷にいる母のもとで暮らしていた。ちょうど今、義宣は秀吉の命で伏見に滞在していて、しばらく国許へ帰る予定はない。年が明けたら吉日を選んで祝言が行われることになった。
新しい妻は、もともと多賀谷家の人質として佐竹家に送られていた姫だ。人質の姫が当主の妻になる。おかしなことのように思えたが、その方がいいのかもしれない。もとが人質の姫ならば、実家を何よりも大事にして手に負えない女ということはないはずだ。
年が明けて、義宣と多賀谷の姫は伏見屋敷で重臣たちに取り囲まれて祝言を行った。その席には、政光も宣政も出席していない。古参の誇りを傷つけないために、義宣は正月の席にも、新参者は決して出席させなかった。いくら能力が優れて、義宣に重用されていても、古参でなければ祝いの席には出席できないのだと見せつけることで、古参の連中を満足させようとしていた。
祝いの席に並んだ古参の重臣たちは、名門佐竹家の嫁が人質だった多賀谷の姫であることが不服のようだった。宴の騒々しさの中、ひそかにかわされる不満が聞こえてきた。
宴が終わり、夜が更け、義宣と姫は褥が整えられた寝所で向かい合った。頭を下げる幼い少女を義宣は黙って見ていた。
やはり十三歳はただの少女だ。金阿弥を初めて抱いたとき、金阿弥も十三歳だったはずだが、少女である分当時の金阿弥よりももっと小さい。
以前、まだ姫が人質だったころ、太田城の人質を集めて置いておく棟で、この姫を見たことがあったはずだが、その時は人質の中の一人としか思っていなかったため、印象など覚えていない。もしかしたら言葉を交わしたこともあるかもしれないが、それも覚えていない。
この幼い妻のことを、何も知らないからこそ義宣は期待していた。ほんの少し、一握りの小さな期待を抱いていた。
金阿弥を側に置くようになって、子供特有の純粋さとひたむきさを知った。金阿弥は一途に義宣を慕ってくる。それは、金阿弥には義宣しかいないからだ。
この姫も、何も知らない子供だ。義宣が妻として側に置いておけば、義宣を一途に慕うようになるかもしれない。もとが人質ならば、頼るべき相手は義宣だけだと思うようになるかもしれない。
それに、もしかしたら、そんなことをしなくても、自然と義宣を慕ってくれるようになるかもしれない。
そんな都合のいいことはない、と八割方思いながらも、心の片隅で、今度こそ、と期待をしていた。この姫は先の御台や母とは違うはずだ。
「姫、顔を上げろ」
「は、はい」
少し腰を曲げて、視線が同じ高さになるようにした。声もなるべく優しくかけたつもりだ。だが、はい、と返事をしたものの、姫はなかなか顔を上げようとしなかった。緊張しているのだろうか。
「姫」
もう一度声をかけると、姫は顔を上げず、逆にますます深く頭を下げた。
「た、多賀谷重経の娘、に、ございます」
たどたどしく、不自然に区切られた言葉で挨拶を述べる姫の声は、かすかに震えていた。その震える声に、義宣は眉をひそめた。
「それは分かっている。姫の名は、何という?」
今もなるべく優しく話しかけているつもりだが、姫は深く下げていた頭をさらに下げた。褥に額がつくのではないだろうか。
「ごめんなさい。多賀谷重経の娘、り、琳、に、ござい、ます」
多賀谷の姫、琳の声は、かすかな震えどころではなく、完全に震えていた。それどころか、涙声にも聞こえる。その声を聞いて、義宣は落胆した。
この状態では、夫婦として初夜を迎えることなど到底できそうにない。琳はこれから行われるはずの行為に怯えているのかもしれない。とりあえず、互いに顔を合わせるくらいはした方がいいだろう、と思い、琳の顔を上げさせようと肩に手をかけると、琳は大げさに肩を震わせた。
「ご、ごめんなさい」
謝った瞬間に顔を上げた琳の目には、涙がいっぱいに溜まっていた。それは、義宣への恐怖と怯えによる涙だった。幼い少女の表情は強張っていて、義宣を恐れているのだとすぐに分かった。
かすかにしか抱いていなかったが、そのかすかな期待が消えうせた。涙を目に浮かべて義宣を怖がる少女に、何かを期待することなどできない。
義宣がため息をつくと、琳はまたびくりと震えた。瞬きをした瞬間、涙がぼろぼろと零れ落ちた。
なぜ、ここまでびくびくと怯えられなければならないのだろうか。十三歳も年上の男が怖いのだろうか。それとも、佐竹義宣が怖いのだろうか。
おそらく、琳は佐竹家が怖いのだろう。人質として佐竹家にいたから、佐竹家が怖い。自分の命は佐竹家に握られている。そして、その佐竹家の当主は義宣だ。つまりは琳の命は義宣の手のうちにあるということだ。だから、義宣が怖い。涙を流して怯えるほどに、義宣を怖がっている。
結局、ここでもまた佐竹家という名が問題になるのか。
「泣くな」
それだけ言って、義宣は琳のいる寝所を出て行った。ごめんなさい、と呟く琳の声が聞こえたような気がしたが、気のせいかもしれない。耳に残っているのだ、琳の声が。ごめんなさい、と言う声が。
結婚はしたものの、琳の義宣に対する怯えは消えないように思えた。もとが人質の妻ならばうまくいくような気がしたが、それは間違いだったようだ。夫をあれほどまでに怖がっている妻と、うまくやっていける自信などなかったし、うまくやっていくつもりもなかった。
やはり義宣には、金阿弥しかいないのだと思った。




