秋田の国主編(三)
急いで秋田に帰国すると、院内銀山奉行に任命した政景が院内まで出迎えに来ていた。義宣と政光が帰国するまでの間、義重の葬儀の準備は政景に任せていたため、進捗状況の報告も兼ねて院内までやって来たのだろう。
「主馬、六郷の様子はどうだ?」
「はい、総出で北城様のご葬儀の準備に取り掛かっております。ご懐妊中の六郷の方様には、いまだ六郷に留まっていただいておりますが、いかがいたしましょう?」
「それで構わない。父の葬儀は窪田の天徳寺で行う故、その時に六郷殿にも窪田に移っていただこう」
義重の葬儀の話をしているのに、なぜか義重が死んだということに現実味がなかった。六郷に到着し、義重の柩を見ても、この中に義重がいるのか、と信じられない思いだった。柩のそばに傷悴しきった女が座っている。義重の側室の六郷殿だろう。六郷殿のやつれた姿を見て、義重の死は急に現実味を帯びてきた。
「あなたが六郷殿ですか」
義宣に声をかけられ、女は驚いて顔を上げた。その驚きように、この女は義重の側室ではなかったのか、と思ったが、どうやら六郷殿というのが自分を指していると分からなかっただけのようで、周りをおどおどと見回してから小さく頷いた。
「は、はい。あなた様は?」
「佐竹侍従様、お屋形様にございます」
義宣の代わりに政景が答えると六郷殿は慌てて平伏しようとした。
「お、お屋形様。これは、ご無礼をお許しください」
六郷殿の肩をそっと押さえ、そのまま座っているようにと促した。六郷殿は落ち着かない様子だったが、腹の子にさわりがあるといけない、と言うと納得したのか座り直して腹を撫でていた。六郷殿の腹はまだ目立つほど膨らんでいるわけではなかったが、確かに懐妊しているようだった。
「父の葬儀は城下の天徳寺で行います。当家の菩提寺です。あなたにも城下に移ってもらいたいのだが、よいだろうか?」
「あの、わたくしは六郷に留まるわけには参りませぬか?」
「ならぬ。あなたは父の子を宿している。その子は佐竹の子だ。私の目の届くところにいてもらわねば。だが、安心してほしい。あなたの父の細谷助兵衛も六郷ではなく窪田城下の勤めに移す。屋敷も用意してある。何も心配はいらない」
「そうですか、承知いたしました」
六郷殿は義重との思い出の詰まった六郷の地で長い余生を送りたいと思っていたのだろう。だが、六郷殿の産む義重の子を、六郷で放置しておくわけにはいかなかった。生まれた子が女であれば、義宣の養女として他家に嫁がせるか、婿を迎えさせてその婿を義宣の養嗣子にするという手がある。男の場合は、家中が義宣派と義重の遺児派に分かれる可能性もあるため、ますます放ってはおけない。義宣の目の届くところで見張っておくべきなのだ。そのための屋敷は、すでに城下に用意してある。
六郷殿の産む子は義重の子であり、義宣の妹か弟だ。だが、義宣を脅かす存在になるかもしれない。六郷殿を見ながら、女が生まれればいい、と義宣は思った。
義重の柩を窪田の城下に移し、佐竹家の菩提寺である天徳寺で盛大に葬儀を行った。義重の柩には、母の打掛をかけている。これで少しは母の気持ちも慰められるといい。葬儀には江戸にいる貞隆以外の弟たちも参列していた。
義重の死によって、佐竹家の中でひとつの時代が終わったような気がした。それは義宣だけではなく、譜代家臣も感じているだろう。むしろ、義重とともに戦場を駆け巡って来た譜代家臣たちの方が、義宣よりも強く時代の終わりを感じているに違いない。
葬儀の後、六郷殿は義宣が用意しておいた屋敷に移り住んだ。今後のことは義宣が責任を持つため安心するように伝え、屋敷を去ろうとすると、六郷殿に呼び止められた。六郷殿は文箱から書状を取り出し、義宣に渡した。
「これは、何ですか?」
「北城様からお預かりしておりました。本当は、わたくしの腹の子が生まれる頃に、お屋形様にお届けするはずのものでした。北城様が書かれた書状です」
「分かりました」
「それから」
「はい」
「北城様は、この子が若子だった場合には、申若丸と名づけたいと仰せでした」
「若子だった場合には、そうしましょう」
「ありがとうございます」
六郷殿の顔がぱっと明るくなった。義重が義宣に残した書状。この書状を書いている時、義重は側室の子が生まれる前に自分が死ぬことになるとは思っていなかっただろう。だから、生まれる子にどんな名をつけるのか、六郷殿と話し合っていたのだ。城に戻り、一通り政務を片づけた後、義宣は義重の書状を開いた。
そこには、六郷殿が産んだ子が男だった場合は義宣の命で殺すように、と書いてあった。家中に無駄な争いの種をまいてはならない。ほかの弟たちは他家に養子に出したが、義宣に世継ぎがいない状態で新たに男が生まれては、よからぬことを考える者もいるかもしれない。その芽を摘むために殺せと父は言っているのだ。
生まれた子が男だった場合、その子の暗殺は義宣も一度は考えたことだった。義重と同じ理由でそう思っていたのだ。だが、義重は本気で生まれる子の死を望んではいない。その証拠に、申若丸という名を考えていた。
義重は義宣のことを思って、この書状を書いたに違いない。最後の最後まで、義重は義宣の父だった。かなわない。不惑を過ぎた息子の心配などしなくていいと思うが、義宣にとって義重がいつまでも父であるように、不惑を過ぎようが義宣は義重にとって守るべき息子だったのだろう。昔はそんな義重の気遣いがわずらわしいと思ったこともあったが、今はただありがたいと思う。
生まれてくる義重の子が女であっても男であっても、手厚く保護して、成人まで義宣が面倒を見よう。それが義重に対してできる最後の孝行のような気がした。
書状の内容はそれだけかと思ったが、まだ続きがあった。続きに目を通して、義宣は愕然とした。思わず手にしていた書状を落としてしまった。
吉野が京の燈明寺にいる。
たった一言だけだったが、義宣の心を揺り動かすには十分だった。吉野とは、八重の侍女だった吉野に違いない。それ以外で、義重と義宣が知っている吉野という人物はいない。吉野は死んだのではなかったか。それも、義重に殺されたのではなかったか。不義密通を働き、出奔を企てた罪で殺された。義宣は義重が切った吉野の遺髪も見た。
そこまで思いだして、はっとした。義宣は義重が切った吉野の遺髪は見たが、吉野の遺体は見ていない。義重が殺したと言うから死んだと思っていただけで、本当は義重がひそかに逃がしていたのか。何のために。しかも、燈明寺は確か義重があつく帰依していた寺だ。その寺で義重が密かに女と会っているという噂もあった。まさか、その女が吉野だったのか。そう思えば噂にも納得がいく。
だが、なぜ吉野は生きているのだ。なぜ義重は燈明寺で吉野と会っていたのだ。吉野は義宣も知らない秘密を知っているのか。八重が原因不明の病で臥せっていると言い張っていたあの時、奥で何があったのか。吉野はそのすべてを知っているに違いない。八重の死の真相も、吉野ならば知っているのかもしれない。
義重がなぜ書状に吉野のことまで書いたのかは分からなかった。義重が書き残していなければ義宣は生涯吉野が生きていることを知らずにいただろう。
すぐに京へ行き、吉野に会いたかった。だが、国許が落ち着けば義宣はまた江戸へ行き、しばらく秋田に戻ることはないし、勝手に京へ行くこともかなわない。いつか、将軍の上洛に扈従して義宣が京へ向かうこともあるだろう。その時に燈明寺を訪ねるしかない。悶々とした思いは胸に残っているが、今はひとまず諦めるしかなかった。
初冬になり、六郷殿は父の子を産んだ。生まれた子は男だった。義宣にとっては四十二歳年の離れた弟だ。義重の希望通り、義宣は生まれた子に申若丸という名をつけ、佐竹北家の預かりとすることにし、江戸へ向かった。
義重の葬儀が終わり、義宣が再び江戸へ向かってから、秋田では領内の総検地が行われた。検地はすべて家老の政光の指示で行われ、順調に進んでいた。政光は秋田に初めて入った時も、秋田は意外に米が取れそうだし、山が豊かな良い国だ、と言って義宣を励ましていた。政光は山や田畑などに関しては家中一の才を持ち、独自の田法を生み出して秋田の検地に生かしている。政光の独自の田法を開墾の奨励によって、秋田は随分と豊かな国になった。
政景が奉行を務める院内銀山でも順調に銀が採掘できている。いまだ幕府から石高についての言及がないため、窪田藩は何万石なのか分からないが、三十万石以上はあるのではないか、と政景はひそかに思っている。幕府ははやく正式に窪田藩の石高を定めてくれないだろうか。秋田に移って十年以上経ったが、佐竹家の石高はいまだに不明のままだった。
院内銀山奉行に就任してから、政景は日課として日記をつけるようになっていた。義宣に命じられて書いているのではない。自分が書きたくて書いているだけの日記だ。その日の出来事と天気を、なるべく感情を省いて簡潔に書いているが、たまに思い浮かんだ和歌を書くこともある。人が読んでもつまらない日記だろうが、いつか何かの役に立つかもしれないし、役に立たずとも書いているだけで楽しいのだから構わない。
娘のまつは六歳になった。大きな怪我も病もなく、健やかに育っていることが政景は嬉しかった。政景と妻のはなの間には、一人娘のまつ以外に子はない。はなはまつを産んでから体調を崩しやすくなっており、これ以上の出産には耐えられないだろう、と医師に言われている。はなはそのことを申し訳なく思っているようだったが、政景は気にしていなかった。まつに婿を迎えればいいだけの話だ。幸い、兄の憲忠には男子が三人いる。そのうちの誰かをまつの婿にもらおうと考えていた。
銀山奉行としての毎日は忙しい日々だったが、秋田での暮らしは平穏だった。岩瀬御台の離縁以来、幕府が佐竹家に何かを言って来たこともない。このまま泰平の世が続くのだろう、と思っていたが、年明けに運上銀を献上するため駿府に向かった際、いやな噂を耳にした。
家康が大坂の豊臣秀頼の存在に不安を抱き、きっかけがあれば戦をして豊臣家を滅ぼすつもりでいる、というものだった。
その噂が真実かどうかは分からなかったが、駿府で政景は初めて本多上野介正純に会った。正純は義宣に岩瀬御台の離縁を進めた人物で、今は何事も正純に相談しなければ大御所である家康には取り次ぎができないと聞いている。家康も正純を信頼していて、家臣である正純を「上野殿」と呼んでいるという噂もあった。
義宣は正純をはじめ幕府の人間の機嫌を損ねないように、と政景に大量の進物を持たせて駿府に向かわせていた。これ以上何か口出しをされては堪らない、と思っているのだろう。正純に会うまでの間、幕府と佐竹家の取り次ぎ役である島田兵部や島田以下の幕府の人間にも付け届けをした。誰もが法度で進物は受け取れない、と最初は言ったが、政景が何度もすすめるうちにしまいには受け取っていた。
正純も付け届けを受け取るだろうと政景は思っていたが、正純は取りつく島もなく進物を断り、何度すすめても決して受け取ることはなかった。そのことが意外でならなかった。かつて妻のいる義宣に徳川家との縁談をすすめたこともあり、更に岩瀬御台を離縁するように迫った正純は、権力を笠に着て、権力者に取り入ることの得意な欲深い人間なのだと思っていた。だからこそ、家康に取り入ることに成功し、幕府で栄華を極めているのだと思っていた。
だが、どうやら違ったらしい。もしかしたら正純は、政光と同じような人間なのかもしれない。政光は秋田に入ったばかりのころ、家老になるという噂が出た時、譜代家臣に憎まれて暗殺を企てられていた。政光は職務に忠実なだけだったのだが、義宣に重用されすぎることが反感を買っていたのだ。正純も同じ様な人間なのだろう。
家康の右腕である正純と話をしていても、駿府で聞いた豊臣家を滅ぼす戦の話は一度も出てこなかった。噂の真相を確かめることができないまま、無事に銀を献上するという大役を果たし、政景は秋田に戻った。
仲秋になってから、家康が秀頼鋳造の方広寺の鐘銘に異議を唱えたという話を聞いた。方広寺の梵鐘銘文の文中に「国家安康」、「君臣豊楽」とあったのを豊臣家の繁栄を願い、家康を呪詛するものだと幕府が言い出したらしい。
これは戦のきっかけになるのではないだろうか。駿府で聞いた噂を政景は思い出していた。
その後、大坂の豊臣秀頼から密書が届いた。義宣が大坂へ駆けつけたならば茨木を与える、というものだった。




