枯れぬ花編(十六)
義宣とともに過ごす最後の夜が明け、祥は横手へと向かう輿の前に立った。この輿に乗った瞬間から、祥は佐竹家の人間ではなくなる。昌寿院という尼として、横手で余生を過ごすのだ。
輿のそばには、義宣が祥を離縁する真相を教えてくれた政景が控えている。横手まで、政景が祥の供をするのだと義宣が言っていた。
「岩瀬様、出立の準備が整いました」
「分かりました」
輿に乗る前に、もう一度義宣の顔が見たかった。振り返ると義宣は苦しそうな顔をしていた。
何か義宣と話をしたかった。だが、何も話すことなどないような気もする。別れの晩に、話すべきことはすべて話したのだ。これ以上言葉を交わしても、ただ別れがたくなるだけだろう。
「お屋形さま」
「何だ?」
祥はもう義宣の側室ではない。以前のように呼び掛けることはできない。今の義宣は祥の夫ではなく、秋田の国主であり、佐竹家の当主なのだ。
「今までお世話になりました。どうぞお健やかにお過ごしください」
「ああ。お前も、体をいとえよ」
「はい」
今生の別れの挨拶は、ずいぶんと簡単なものだった。だが、何も言えなかったのだ。味気ないこれだけの言葉でも精一杯だった。義宣と祥の視線は一瞬だけ交わったが、すぐに逸れた。
義宣に背を向け、祥は輿に乗り込んだ。出立、と声が聞こえた。輿が担がれた感覚があった。輿が進んでいく。一歩進むごとに、窪田から離れていく。
輿を止めて、と叫びたかった。輿から降りて義宣に駆け寄って、もう一度だけ顔を見たかった。声が聞きたかった。離れたくない、と泣いてすがってしまいたかった。
だが、それは許されない。もう祥は岩瀬御台ではなくなった。昌寿院という尼になったのだ。
鏡田の前で散々泣いて、義宣の前でも泣いてしまったのに、まだ涙は枯れていなかったようだ。輿の中で、両手で顔を覆って祥は涙を流した。
窪田から横手へは、早朝に出発すれば日暮れ前には到着することができる。だが、それは男の足で歩いた場合の話だ。祥を乗せた輿は日暮れ前に横手に到着することができないため、途中で宿を取ることになっていた。
宿に到着すると、政景が祥を部屋まで案内した。政景が義宣の真の考えを祥に明かしてくれた時から、祥は一度政景とじっくり話をしてみたいと思っていた。
政景は十歳を超えたばかりの子どものころから、今までずっと義宣のそばにいる。一時は誰よりも義宣の心に近づき、可愛がられていた人物だと義宣から聞いている。今でも義宣は政景を信頼しているからこそ、政景には祥を離縁する真相を話していたのだろうし、祥の供につけたのだと思う。
祥と出会う前の義宣の心に寄り添い、祥が去ってからも義宣のそばにあり続ける。祥よりも何倍も長い年月を義宣と過ごす。それが梅津政景だ。
「それでは岩瀬様、ごゆっくりお休みください」
「主馬殿、少しお時間をいただけますか?」
祥を部屋に案内し、部屋から出ていこうとした政景を呼びとめると、政景は訝しげな顔をした。なぜ祥に呼びとめられたか理由が分からないのだろう。
「あなたとお話をしたいのです」
「承知いたしました。私でよろしければ」
「ありがとう」
政景は祥と部屋で二人きりになることをためらったようだったが、祥はもう出家の身だ。義宣の側室でも女でもない。尼なのだから、義宣の家臣である男と二人きりになっても問題はないはずだ。政景もそう考えたため、部屋に残ったのだろう。
「主馬殿は、お屋形さまと出会って何年になりますか?」
「私が十一の時にお仕えし始めましたから、今年で十九年になりますね」
「そう。わたしは十一年だわ。十一年間、長いような気もしていたのだけれど、人生の中ではずいぶんと短い時間ね」
政景は何も言わなかった。下手な慰めの言葉などかけるべきではない、と思っているのかもしれない。政景が義宣と過ごしてきた時間、これからも続く時間を思えば、祥の十一年間は義宣の人生の中でほんの一瞬のように思えた。
義宣と政景の時はこれからも続く。政景はこれから、義宣にとってなくてはならない人物になるはずだ。少なくとも、政景は家中の誰よりも義宣のことを思っている。義宣の幸せを思って、口止めされていた離縁の真相を祥に教えたくらいなのだから。
「主馬殿、このようなことをあなたにお願いするのは、とてもおこがましいことだとは思うのですが」
「何でしょうか?」
「ずっと、お屋形さまのおそばにいてください。お屋形さまを支えてください。あの方がはかなくなられるその時まで」
「ええ、もちろんそのつもりでおりますよ。殿がお嫌とおっしゃっても、私は決してあの方のおそばを離れません」
「そう。そうでしょうね。あなたとお屋形さまには強い絆があるのでしょうから」
祥の言葉に、政景は小さく笑みを浮かべた。その笑みは苦笑のようにも見えたし、喜びの笑みのようにも見えた。何とも言えない様々な感情の入り混じった、だが穏やかな表情だった。
「岩瀬様、おそらく殿からお聞き及びでしょうが、私はまだ金阿弥と名乗っていた子どもの頃、殿の寵童だったのですよ。私にはあの方だけで、あの方にも私だけだった。暗闇の中、手探りで抱き合っていたようなものです」
「その時のことは、お屋形さまから少しだけ聞いております」
「やはりそうでしたか。そんな私たちの前に、貴方が現れた。貴方は一瞬であの方の心をさらってしまった。正直に申し上げますと、私は貴方に嫉妬しておりました。なぜ、殿は私を捨てて岩瀬様を愛したのか。殿には私だけではなかったのか、殿は私だけの殿ではなかったのか、と」
政景の静かな告白に、祥は何と答えればいいのか分からなかった。ただ黙っているしかない。祥は義宣のことを政景に頼もうとしている。このおこがましい願いを聴き届けてくれる政景という人物が、一体どういう人物なのか、義宣とどのような関係を築いてきたのか、知りたかった。
「それから私には許嫁ができました。今ではそのおなごを妻に迎え、娘も授かっております。そうして月日が流れていくうちに、あの頃の私が殿に抱いていた感情は、所詮執着にすぎなかったのだと思い知りました。互いに、執着していたのです。愛し合っていたわけではなかった。だから、私と殿の関係は破綻した。私の方こそ、僭越ながら申し上げますが、岩瀬様に感謝しております。殿を愛してくださって、殿に幸せをお教えくださって、まことにありがとうございました」
「いいえ、わたしこそ、主馬殿に対して失礼なことを申し上げました」
深々と頭を下げられ、祥も政景に頭を下げていた。離縁された今でも、祥は自分が義宣のことを誰よりも理解し、愛していると思いあがっていたのだ。心の奥底で政景のことを羨ましいとも思っていた。だが、義宣のことを思っているのは祥だけではない。
祥が政景に対して抱いた感情を、祥よりも長い間、政景も祥に対して抱いていたのだ。そして、確かに政景も誰よりも義宣のことを思っている。強い絆、などと簡単な言葉では済まされなかった。
「主馬殿は、お屋形さまを本当に大切に思っているのですね」
「私が殿に対して抱くこの感情に名を与えるとしたら、愛という言葉しかないように思えます。もちろん、妻や娘を愛する気持ちとはまったく違うものです。家族でもない、夫婦でもない、友でもない、ただの主従でもない。兄ようで、弟のようで、頼りがいがあるようで、頼りなく泣いている子どものよう。殿はそんなずるい方ですね」
「何だか、分かるような気がします」
「殿との関係をうまく言い表す言葉が私には見つかりません。安い言葉に聞こえるかもしれませんが、それでも、愛だと今は思えるのです。ですから、どうかご安心ください。私は殿のおそばを離れません。私が生涯お仕えするただひとりの大切な方ですから」
「ありがとう、主馬殿。ありがとうございます」
これで祥は安心して横手へ行ける。義宣のそばには、こんなにも義宣を思っている人がいる。祥がいなくても、義宣は平気だ。祥も義宣がいなくとも、横手で希望を見つけて生きていく。そうして互いがこの秋田で生きているというだけでも、幸せなことなのだ。
宿で一晩過ごし、再び横手へ向けて輿を進めた。横手には昼頃に到着し、祥は横手城で待つ須田盛秀に預けられることになった。
盛秀は祥を乗せた輿が横手城に到着する前から、門の前で待っていたようで、輿が到着するとすぐに駆け寄り、跪いて祥の手を取った。盛秀の顔をこうして近くで見るのは何年ぶりだろう。十年ぶりほどだろうか。盛秀は両目いっぱいに涙をためていた。
「姫様、お懐かしうございますなあ。爺にございますぞ。まさか、姫様のこのようなお姿を拝見する時が来るとは、夢にも思いませんでした」
「爺、久しぶりですね。元気そうでなによりです。大蔵のこと、私も悲しく思います」
「さぞお辛いでしょうに、それがしのことを案じてくださるとは。何とお優しい姫様じゃ」
瞬きをした瞬間、盛秀の目にたまっていた涙がこぼれ落ちた。祥のために泣いてくれる盛秀を見ていると、祥も泣いてしまいそうだった。祥のそばに控える鏡田は、盛秀の涙につられて目頭を袖でそっと押さえていた。
「それでは美濃殿、岩瀬様のことをお頼み申し上げます」
「任されよ。それがしと須賀川衆が岩瀬様をお守り申し上げる」
「それから、岩瀬様」
「はい」
「殿から、岩瀬様に贈られたものがあります。横手城に到着してからお渡しするよう、きつく命じられていたのです」
政景はほかの供のものに何か包みを持って来させ、それを祥に手渡した。細長い包みの中には何が入っているのだろう。
義宣からのものだと思うと、心が急いてしまって包みから中身を取り出すのにも苦労してしまった。
包みの中に入っていたのは、佐竹家の扇紋があしらわれた箱だった。その中には、義宣の和歌が綴られた一枚の短冊が入っていた。
君を思ふ心はなどかあさからむ吾玉の緒のあらんかぎりは。
短冊に綴られた和歌を読んで、祥の目からは涙が溢れていた。義宣の祥に向けられた深い愛情が、一字一字から伝わってくるようだった。
これは祥の希望だ。義宣は祥のことを愛してくれている。この短冊はその証のようなものだ。そう思えば、横手でも新たな希望を見つけ、生きていける。
「主馬殿」
「はい」
「わたしも同じ気持ちでおります。そうお屋形さまにお伝えください」
「承知いたしました。それでは、失礼いたします。どうかご自愛ください」
「主馬殿も、道中お気をつけて」
祥を乗せてきた輿がどんどん遠ざかっていく。政景の背中も遠ざかっていく。政景の後姿が見えなくなるまで、祥は城門の前で見送っていた。ついに祥を連れてきた一行の姿は、まったく見えなくなってしまった。
「姫様、本日は爺が横手をご案内いたしましょう。まずは一度、城にお入りください。須賀川衆が姫様をお待ちしておりますぞ」
「本当? 鏡田、昔の知り合いに会えるかもしれないわよ」
「ええ。そうですわね」
義宣から贈られた短冊を胸に抱き、盛秀に手を引かれて祥は横手城の城門をくぐった。城門の先は見渡す限り須賀川衆とその妻女ばかりだった。祥は須賀川時代の家臣の顔を覚えていなかったが、城門の先に控える男女の視線が須賀川時代を懐かしんでいるように見えたのだ。須賀川衆に間違いない。
祥が目の前を通るたび、お帰りなさいませ、という声が聞こえてきた。須賀川衆は祥を歓迎してくれている。中には涙を流している者もいた。
ここは優しい場所だ。義宣の祥を思う気持ちと、須賀川衆の祥を思う気持ちの入り交じった、祥の終の住処だ。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
義宣と須賀川衆に向けて、祥は何度もありがとう、と呟いた。
義宣を思う心は、祥の命がある限り決して薄れることはない。横手で祥は生きていく。義宣の愛と須賀川衆の優しさに包まれて。
義宣の道はこれからも続く。祥の道も、続いて行く。二人の道は分かれてしまったが、それでもたどり着く場所は同じであると信じている。どうか義宣の歩く道が幸せであるように。それだけを、祈るばかりだ。




