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道程  作者: 実川
七 枯れぬ花編
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枯れぬ花編(十五)

 政宗に攻められ須賀川城が炎に包まれようとした時、阿南はこの懐剣を抜いて自害しようとした。あの時、阿南は何を思ったのだろう。敵の手にかかり辱めを受けるくらいならば潔く死を選ぶ、と思ったのだろうか。死後に夫と見えることができると思ったから、懐剣を抜けたのだろうか。

 背後で大きな音がした。振り返ると、せっかく拾った貝をすべて床に落として、顔面を蒼白にした鏡田が祥を見つめていた。

「姫様、何を、何を馬鹿なことをお考えなのですかっ」

 必死の形相で迫る鏡田に手首を掴まれ、握っていた懐剣を放り投げられた。鏡田の顔は青ざめたままで、息切れがしているようだった。

「何を言っているの? わたしは、鏡田の考えているようなことなんて考えていないわ」

 鏡田は祥が自害すると思ったのだろう。だが、祥はただ阿南の言葉を思い出し、阿南が何を思ってかつて懐剣を抜いたのか知りたいと思っただけだ。

「いいえ。わたくしには分かります。今の姫様のお顔は、死を考えられたお顔でした」

「鏡田」

 鏡田の言葉にはっとした。そんな顔をしていたのか。だが、鏡田の言う通りなのかもしれない。一瞬でも死に惹かれたから、祥は懐剣の鞘を払ったのかもしれない。義宣の愛にすがるしかなかった祥が義宣に離縁されて、これからの長い年月をどうやって生きていけばいいのか。このまま生き続けて、一体何がこの先にあるのか。祥の生きてきた三十年間は何だったのか。

 様々な言葉にならない思いが胸に込み上げて来て、再び涙が溢れだした。目の奥が熱い。涙が頬を熱く濡らした。

「わたしは幼いころに、二階堂家の後継ぎを産むためにお養母さまの養女になった。それからずっと、わたしの使命は二階堂の子を産むことだった。義宣さまの側室になってからは、佐竹の子を産むこともね。でもわたしは、子をなすことができなかった」

「姫様」

「二階堂家を存続させるために養女になったのに、子を産むことができなくて、世継ぎを産むために側室になったのに、やはり子ができなくて、一体わたしは何のために生きてきたの。互いに愛しく思っている義宣さまには、理不尽な力のせいで離縁される。果たすべき使命も果たせず、愛も失ってしまう。わたしは何なの。これまでのわたしの人生は。これからのわたしの人生は。わたしは、これからどうすればいいのよ」

 二階堂の女で、阿南の娘であることが誇りだった。二階堂家の後継ぎを産むのだと思っていた。義宣と愛し合って、たとえ子がなせずとも死に別れるまでともに生きるのだと思っていた。二階堂の女であること、義宣の側室であることが祥という人間をつくりあげていたはずだ。

 だが、義宣に離縁されることで、祥はもうそのどちらでもなくなってしまう。義宣に離縁された後に、ほかの男との間に子をなすわけがないのだから、二階堂の子を産むことはできなくなる。二階堂の血は祥で絶える。使命を果たせない祥が、二階堂の女と言えるのだろうか。

 義宣の側室でもなくなって、祥は一体何者になるというのだ。

「どうして。どうして、わたしはこんな思いばかりしなくてはならないの」

 父を家臣に殺され、養女に出され、実家の蘆名家も養家の二階堂家も滅ぼされ、愛した男に離縁される。もう祥には、血縁関係にある人間は、義宣の弟を婿に迎えた蘆名の姉だけだ。だが姉には夫も息子もいる。義宣に離縁されれば、祥にはもう誰もいない。

 羨ましかった。八重も、江戸にいる御台も羨ましかった。八重は非業の死を遂げたが、それ故に死後も義宣の心を惹きつけている。義宣にとって生涯忘れられない女は八重だ。御台は義宣の子を産んだ。そして、これから死を迎えるまで、きっと義宣の妻は江戸にいる御台だけなのだ。

 当たり散らすように鏡田の胸にすがり、大声をあげて泣いた。聞き分けのない子どものように泣くのは、義宣に離縁されると分かってから初めてだった。思えば、今まで生きてきた中で、こんなに泣いたのは初めてかもしれない。両親や阿南が死んだ時も、ここまで涙は溢れてこなかった。

 嗚咽を漏らす祥の背中を鏡田の手が優しく撫で、そのままきつく抱きしめられた。

「姫様、姫様はたったひとりのわたくしの姫様にございます。二階堂の姫でなくとも、お屋形様のご側室でなくとも、姫様はわたくしの大切な大切なお祥様。そのことに、何の変わりもございませんわ」

「鏡田」

「だから、どうか悲しいことをおっしゃらないでくださいませ。お祥様が生きていらっしゃるだけで、わたくしは今までとても嬉しかったし、これからも嬉しいのですよ。お祥様がご自害なさるつもりならば、先にわたくしを殺してください。そのくらいの思いで、わたくしはお祥様にお仕えして参ったのです。そして、これからもずっと」

 鏡田の声も腕の中も優しかったが、深い悲しみが伝わってきた。祥は自分のことばかり考えていて、鏡田の気持ちをまったく考えていなかった。鏡田はこんなにも祥を愛してくれているのだ。祥が自害をしたら、鏡田は本当に死んでしまうだろう。

 それに、過去に八重に自害されたことにずっと苦しんでいた義宣が、どんな思いをすることか。

「ごめんなさい、鏡田。ごめんなさい」

「どうぞ、ご存分にお泣きください。わたくしはずっと姫様のおそばにおります。姫様をひとりにはいたしません」

 泣き続ける祥をあやすように、鏡田は祥が泣きやむまで抱きしめ続けてくれていた。ようやく涙が止まった時には瞼が重くて仕方がなかった。恐らく酷い顔をしているのだろう。鏡田も目が腫れていた。

 それから二人で貝を貝桶に入れ、鏡田に宝鏡院の住持を呼んで来てくれるように頼んだ。祥は覚悟を決めた。義宣と離れ離れになったとしても、二階堂の女ではなくなったとしても、鏡田の言う通り祥が祥であることに変わりはない。

 どんなに辛く悲しいことがあっても、その中にわずかに希望があるのならば、祥はその希望を見つめて生きていく。今までも、そうして生きてきた。これからも、そうして生きていくのだ。

 義宣が祥に与えてくれた十日間は、一瞬で過ぎ去ってしまった。義宣は毎晩時間を作って祥に会いに来てくれた。この十日間、まるで離縁されるのが嘘のように互いを慈しみ合った。鏡田には当たり散らしてしまったが、義宣の前では涙を見せないようにした。最後の時を泣き暮らしたくなかったのだ。

 義宣と迎える最後の晩も、涙は見せたくなかった。向かい合った義宣は、何を言えばいいのか分からないのか、ただ黙って座っている。

 これで義宣とじっくり話をするのも、顔を見るのも最後。明日の朝、輿に乗って横手へ向けて出立した瞬間、祥は義宣の側室ではなくなる。窪田を離れてからは、もう二度と義宣とは会わないと互いに決めた。祥を離縁するように幕府が迫ったのだから、離縁してから会うのは危険だと義宣は判断したのだ。祥もその判断に賛成だった。それに、離縁されてからも顔を合わせることができる方が、かえって辛くなる。

「義宣さま」

「何だ?」

「お願いがあります」

「願いか。何でも言ってくれ。俺にできる範囲ならば、何でも叶えよう」

 そう言ってから、義宣は苦い顔をした。離縁をしないことも、離縁してから会うことができないことも、義宣は苦しく思っているのだろう。きっと、自分にできることが限られているということを痛感しているに違いない。

 祥の願いは、義宣を苦しめるようなものではなかった。とても簡単な願いだ。だが、義宣でなければ意味のないことだった。

「わたしの髪を切ってほしいのです」

「何だと?」

 驚く義宣に、祥は阿南の形見の懐剣を差し出した。

「これは養母がわたしに残した懐剣です。これで、わたしの髪を切ってください。わたしは尼になります」

「尼に? 幕府はそこまでしろとは言っていない。俺も、お前に出家をさせるつもりはないぞ」

「わたしが尼になりたいのです。髪を下ろすということは、もう人の妻になる意志がないということです。わたしの夫は、生涯佐竹義宣さまただおひとり。あなたに離縁されるということは、あなたと死に別れるようなものだと思っています。ですから、わたしは尼になります。もう法名もいただきました。昌寿院(しょうじゅいん)といいます」

 祥が尼になると言い出すとは思わなかったのか、義宣は呆然としている。呆然としている義宣に懐剣を握らせ、その上から包み込むように義宣の手を握った。

「わたしの髪を義宣さまに切っていただくことで、わたしは真に俗世から離れられると思います。そして、わたしの髪を遺髪だと思って、義宣さまに持っていていただけたなら嬉しいわ」

「昌寿院。祥ではないようだ」

「義宣さま、最後の願いなのです。どうか叶えてください」

「そうか。分かった」

 阿南が一度は命を絶とうとし、義宣の迷惑になったのならばこれで自害するようにと言って祥に渡した懐剣で、義宣が祥の髪を切る。義宣に髪を切られて尼になるのだから、阿南に言われた通り、義宣の迷惑になったために懐剣の鞘を払ったことになるだろう。

 懐剣が髪を切る音がする。長い黒髪が畳の上にはらはらと落ちていく。自分の髪ではないようだった。

「切ったぞ、不揃いだろうが」

「ありがとうございます」

 手で触って確かめてみると、長かった髪は肩口で切り揃えられていた。これで本当に、祥は髪を下ろしたのだ。もう俗世の人間ではない。

「義宣さま、今生でお目にかかるのは、これが最後ですね」

「ああ」

 今まで互いに口に出さなかったことを、ついに口にしてしまった。髪を下ろし、口に出してもう二度と会えないと言うと、急に悲しみが込み上げてきた。だが、義宣の前では泣かないと決めた。顔を上げて義宣を見つめ、祥は何とか笑みを浮かべた。

「契あらば後の世にてはかならず生まれあひ奉らん、一つ蓮に、と願いたいところですけれど、義宣さまとともに蓮の台に上られるのはきっとお八重さまか江戸の御台さまなのでしょうね」

「そんなことを言うな。俺が愛した女は祥だけだ。祥は俺の妻だ」

「そうおっしゃっていただけて嬉しいです」

「祥のおかげで、俺は幸せだった。愛している。心からそう言える。祥のおかげだ」

「わたしも幸せでした。そして、これからもあなたの治めるこの地で生きていける。それは、義宣さまの腕の中で生きているようなものだわ。そう思えば、横手も窪田も変わりはないでしょう。ずっと見守っています。あなたの国がどうなっていくのか」

「ああ。見ていてくれ。秋田のどこかで祥が俺を見ていると思えば、ともに生きていると感じることができる」

 義宣が祥の涙を拭った。義宣は泣いていない。義宣も最後に涙を見せたくないと思っているのか、笑みを浮かべていた。だが、口の端が震えていて、無理をしているのだとすぐに分かった。祥の笑みも、きっとひきつってしまっているだろう。

「ありがとう、祥。今までのすべてのことに感謝している。ありがとう。そして、すまなかった」

「わたしの方こそ、ありがとうございました。あなたに出会えて、わたしは幸せだったわ」

 ありがとう、と義宣は何度も繰り返した。その度に、愛している、と言われているような気持ちになった。

 夜が明けなければいい。このまま、朝などこなければいいのに。だが、夜は明けた。出立の朝がやってきた。

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