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道程  作者: 実川
七 枯れぬ花編
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枯れぬ花編(十三)

 政景に突然告げられた言葉を耳では聞いていたが、祥は理解できなかったし、納得できなかった。須田大蔵とは、須田盛秀の息子で祥の幼なじみにあたる大蔵のことに違いない。大蔵は数年前に妻を亡くしていると聞いてはいるが、なぜ祥が大蔵の妻にならなければならないのだ。なぜ、義宣は祥にそんなことを言うのだ。

「主馬殿、これはどういうことですか。お屋形様は姫様をどうなさるおつもりなのです? 大蔵殿の妻ですって? ふざけないでください」

 鏡田の悲痛な声が祥の耳にようやく届いた。鏡田はすっかり混乱しているようで、政景に掴みかかりそうな勢いだった。祥のために鏡田は怒ってくれているのに、まるで他人事のように祥は感じていた。

「ふざけておりません。岩瀬様、よろしいですか?」

「はい」

 政景に対して返事をしたはずなのだが、自分で声を発している感覚がまるでなかった。

「岩瀬様が殿のご側室に迎えられて十年以上経ちました。しかし、岩瀬様にはお子ができませんでしたから、二階堂家の再興もかないませんでした。殿は、これ以上岩瀬様とともにいたところで、互いに何の得もないとご判断なさったのです」

「得? お屋形様は損得を考えて姫様を大蔵殿の妻になさると?」

「はい。岩瀬様がお屋形さまのそばに侍っていても、佐竹の子も二階堂の子もできない。ならば、殿は新しいご側室をお迎えになり、岩瀬様はほかの殿方の妻となれば、佐竹の子も二階堂の子も生まれるかもしれない。殿はそうお考えになったのです」

「何も姫様を大蔵殿の妻となさらずとも、ずっとお屋形様のおそばに置いてくださればよろしいではありませんか。ねえ、姫様、そうですわよね?」

 鏡田に同意を求められたが、祥は頷くことも首を振ることもできなかった。祥に子ができないから、義宣は祥を遠ざけようとしているのだ。鏡田の言う通り、何もほかの男の妻にせずとも、ずっと義宣の側室のままにしてくれればいいのに、と思う。だが、祥は確かに義宣の子を産むことができなかった。役に立たない女は、側室にしておくのも嫌になったのかもしれない。

「しかし、それでは二階堂家の再興は叶いますまい。岩瀬様は須賀川二階堂家の血筋を引く最後のお方。殿は二階堂家のこともお忘れではないのです」

 政景の言葉が祥の胸に刺さった。二階堂家の血を引く人間は確かに祥ひとりだけだ。父を同じくし、ともに二階堂家の血を引いた妹は相馬家に嫁いでいたが、数年前に他界している。義宣がそのことを考えたと言われれば、それもそうなのかもしれないが、本当にそうなのだろうか。

 祥に子ができずとも、祥が歳を重ねても、義宣の愛は変わることがないと信じていた。それだけの深い愛を祥は感じていたし、祥も義宣を愛していた。二人が別れる時は、死に別れるしかないと思えるほどに、互いに愛し合っていたのだ。死が二人を別つまで、ともにいると誓った言葉もはっきりと覚えている。

 だが、人の心は変わるものだ。祥は三十歳を過ぎ、若さも美しさも失った。それに比べて、新たに二の丸に入った京三人衆は若く美しい。義宣の心が変わってしまったとしても、仕方がないのかもしれない。

 若さや美しさで義宣に愛されているわけではないと思っていた。それは間違いではないと思う。義宣にとってこの世で一番美しい女は亡き八重だ。それでも義宣が愛しているのは祥だった。そんな義宣の心が変わってしまったことが、祥には信じられなかった。

 あまりのことに涙も出ない。ただ茫然と政景を見つめるしかなかった。

「大蔵殿は、すでに岩瀬様を妻として迎えることをご承知なさっています。あとは、岩瀬様が横手に向かわれるだけにございます」

「待ってください、主馬殿。そのようなことを急に申されましても困ります。どうか、姫様にお屋形様とお話しする機会をお与えください。お屋形様から直接お話をお聞きしなければ、わたくしも姫様も納得できませぬ」

 政景は困ったように眉を寄せた。義宣は祥に会いたがっていないのだろうか。顔も見たくないと思われるほど、義宣の心は祥から離れてしまったのか。

 突然、慌ただしい足音が響いた。祥が気づく前から足音は近づいていたのだろうが、耳に入っていなかった。失礼いたします、と言って少年が政景に近づいた。義宣からの使いだろうか。政景は祥と鏡田に頭を下げ、少年の話に耳を傾けている。少年の声は祥には届かなかったが、少年に耳打ちをされた途端、政景の表情がこわばり、険しいものへと変わっていった。何か悪い知らせのようだ。義宣以外の男の妻になるという知らせ以上に、悪い知らせなどあるのだろうか。大蔵には申し訳ないが、大蔵の妻になる気はまったくなかった。

「岩瀬様、落ち着いて私の話を聞いてください」

「はい」

 祥はずっと落ち着いている。あまりにも衝撃が大きすぎて、取り乱すこともできなかったのだ。落ち着いているというよりも、心がすっかり冷たくなっているのかもしれない。

「今の使いで、私はすぐに本丸に戻るようにと殿から命ぜられましたが、このまま本丸へ戻るわけには参りません。岩瀬様に私の話を聞いていただきます」

「何を言っているのですか?」

「状況が変わったのです。そのため、殿は此度の計画を変更せざるを得なくなった。殿からは口止めされているのですが、私の知っていることをお話いたします」

 状況が変わったとはどういうことだろう。分からない。政景は何を言っているのだ。祥にはまったく理解できなかった。義宣の考えとは、祥を大蔵の妻にすることではないのか。それ以外に、何を話すことがある。

「昨日、須田大蔵殿がお亡くなりになりました」

「え?」

「な、何を言い出すのですか、主馬殿。あ、貴方は先ほどお屋形様のご命令で、姫様は大蔵殿の妻になるのだと申したばかりではありませぬか」

「その通りです。ですから、状況が変わったと申し上げた」

 政景が声を荒らげた。冷静さを欠いている。どうしたのだろう。状況が変わったと言い始めてから、政景の言葉は要領を得ない。それに、なぜ突然大蔵が死んでしまったのか分からない。悪い夢を見ているようだ。義宣に別れを告げられて、幼馴染は死んでしまった。

「詳しいことは私にも分かりませんが、大蔵殿は亡くなったのです。つまり、岩瀬様は大蔵殿の妻にはなれなくなったということです」

「それは、言われずとも分かります」

「殿が岩瀬様を大蔵殿の妻になさろうとしたのには理由があります。岩瀬様にお子ができなかったことは、偽りの理由です。まことの理由は別にあるのです」

「まことですか、主馬殿?」

 祥は身を乗り出した。祥に子ができなかったことが理由ではないのならば、何が本当の理由なのだ。もしかしたら、義宣の心は完全に祥から離れたわけではなかったのかもしれないのか。

「幕府です」

「幕府?」

「幕府の重臣が、殿に岩瀬様を離縁なさるよう命じたのです。それ故に、殿はこのような苦渋のご決断を」

「それでは、お屋形さまはわたしのことをお嫌いになったのではないのですか?」

「殿が岩瀬様をお嫌いになるはずがありませんよ。殿はわざと、岩瀬様に嫌われようとなさっているのです」

 頭を振って政景は苦笑を浮かべた。幕府は義宣に祥を離縁するように命じた。だから、義宣はほかに女を迎えて、祥には大蔵の妻になるように命じた。しかし、大蔵が死んでしまったために、義宣の計画に狂いが生じた。政景の話で、祥はようやく義宣の言動に納得することができた。義宣の気持ちだけではどうしようもない理由があったのだ。

 だが、なぜ本当のことを祥に教えてくれなかったのだろう。そのことが胸に引っかかる。大蔵の死の理由も分からないままだ。

「主馬殿、教えてくださってありがとう。しかし、お屋形さまはなぜわたしに何も言ってくれないのでしょう? なぜ大蔵は亡くなったの? あなたは、お屋形さまに口止めされていたはずなのに、なぜわたしに本当のことを教えてくださったの?」

「殿のお気持ちも、大蔵殿の死の理由も、私から申し上げることはできません。ただ、私が貴方に真実をお話したのは、このままお二人が別れてしまってはいけないと思ったからです」

「なぜ?」

「殿は、岩瀬様とのご関係は失われてしまう、すべてなかったことになる、と思っておいでなのです。ですが、私はそうは思いません。たとえ岩瀬様を離縁なさったとしても、殿と岩瀬様の築かれてきたご関係が失われることはないはずです。今ここで、すべてを終わりにさせてはならない。差し出がましい真似をいたしましたが、私は殿にお幸せになっていただきたいのです。殿のお幸せのために必要なのは、岩瀬様ですから」

 確か以前、義宣から政景は昔義宣の寵愛を受けていたと聞いたことがある。政景はその関係が終わった時の自分と今の祥を重ね合わせて同情してくれているのかもしれない。そして何よりも、政景は義宣のことを思っている。義宣が自分のことを大事にする以上に、政景は義宣のことを思っているような気がした。

「ありがとう、主馬殿」

「いえ、ご無礼の数々お許しください。話の続きは、直接殿にお聞きください。本丸までご案内いたします」

「はい」

 義宣に会って話をきかなければ、祥の気は済まなかった。祥の離縁を変えることはできないだろうが、それでも義宣の口から直接告げられたい。

 政景の案内に従って、北の丸から本丸へと足を進めた。本丸の義宣の部屋までたどり着くと、政景は室内にいる義宣に声をかけた。入室の許可をする義宣の声が返って来た。入るようにと政景に目顔で知らされ、祥は部屋の中に入った。

「遅いぞ、主馬。一体何をしていた」

 振り向いた義宣の顔が驚きに固まった。政景がいると思っていたところに祥が現れたのだから、当然だろう。

「祥、どうしてここに?」

「大蔵が亡くなったと聞きました」

 この一言で義宣はすべてを察したようだった。表情は驚きから諦めに変わり、今は後悔しているということがはっきりと分かった。

「主馬に聞いたんだな」

「はい」

「須田大蔵は死んだ。妹婿に殺されたんだ。喧嘩の末に殺され、大蔵を殺した妹婿もその場で自害した。喧嘩の理由は分からない。当事者が二人ともこの世にはいないからな」

「そうだったのですか。大蔵はわたしの大切な幼馴染でした」

 大蔵の冥福を祈り、祥は手を合わせた。大蔵は祥を妻に迎えることに反対していなかったそうだが、実際は何を思っていたのだろう。祥が義宣の側室になる前、大蔵が祥のことを想ってくれていたことはわかっているが、まさか今でも同じ気持ちではなかったはずだ。今となっては、確かめることもできない。大蔵の妻にはなりたくないと思ったことを胸の内で大蔵に詫びた。

 室内に沈黙が流れる。沈黙を破ったのは義宣だった。

「今夜、北の丸の宝鏡院に行く。すべてを話すよ。すまなかった、黙っていて」

「分かりました。お待ちしておりますね」

 本丸までやって来て、交わした言葉はそれだけだった。部屋を出る時、もう一度政景に礼を言った。祥と入れ替わりで政景が室内へ入った。

 宝鏡院に戻ると、義宣が祥を嫌うはずがなかったのだ、と鏡田は何とかして祥を慰めようとしてくれたが、祥はひとりになりたかった。そのことを鏡田に伝えると、鏡田は祥をひとりにしてくれたが、退出する時に鏡田の目には涙が光っていたような気がした。

 ひとりになって、祥も思い切り泣こうかと思った。だが、涙は出て来なかった。今後のことを考えようとも思ったのだが、何も考えられなかった。何もせずにいる間に日は暮れ、夜になっていた。

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