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道程  作者: 実川
七 枯れぬ花編
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枯れぬ花編(十一)

 祥に離縁のことを告げられぬまま、月日は流れていく。言わなければならない、と思うのだが、言えるはずがなかった。どう言えばいいのか分からない。どうすればいいのかも分からない。分かっているのは、一年以内に祥を離縁しなければならないということだけだ。

 何も言えないまま、義宣は普段通りに祥に接していた。むしろ、今まで国許にいた時よりも多くの時間を祥と過ごす時間にあてている。一年以内には失うと分かっていても、義宣は祥との逢瀬に溺れた。髪を撫で、肌に触れ、祥のすべてを刻み込むように、何度も体を重ねた。

 睦言に合間に、政景に子どもが生まれ、その子を溺愛しているという話をすると、祥は少し寂しそうに微笑んで、わたしも赤子を抱いてみたい、と呟いた。その一言は義宣の胸に突き刺さった。

 祥は義宣の子をなせなかったことに辛い思いをしているが、義宣の方こそ祥に子を産ませることができなかったのだ。二階堂家の血を引く子を産ませることができなかった。

 世継ぎのことも家のことも、幕府も何もかも関係なく、ただ愛しているという理由だけでともにいられればよかった。だが、義宣が佐竹義宣である限り、そんなことはできない。いくら愛していても、女ひとりのためにすべてを犠牲にするわけにはいかないのだ。たとえ義宣が祥を守るために、国も家も捨てたとしても、祥は悲しむだけだろう。

 分かっている。はやく祥にすべてを伝えるべきなのだ。分かってはいるが、なかなか伝えることができずにいる。義宣が迷っているうちに、幕府から江戸に上るよう命じられた。雪が降り出す前までに江戸に到着しなければならない。今回は正月の挨拶をすることが目的のようなので、春には国許に帰られると、届けられた書状には書いてあった。義宣が江戸から帰国した時が、祥に離縁を言い渡す時だ。それ以上は、引き延ばせない。正純との約束がある。

 こんな状態で秋田を離れたくはなかったが、江戸へ上る前に祥を離縁する準備を整えておかなければならない。もう、目を背けていられないのだ。覚悟を決めるしかない。

 義宣は横手の須田美濃守盛秀に書状を出し、秋田まで来るように命じた。盛秀は二階堂旧臣であり、二階堂家の筆頭家老を務めた男だった。今では佐竹家の重臣となり、横手城の城代を務めている。佐竹家には二階堂旧臣が多く仕えており、須賀川衆と呼んでいた。盛秀はその須賀川衆の筆頭でもある。盛秀が横手城の城代であるため、須賀川衆も横手城下に居を構えている。

 祥にとって盛秀は、頼りがいのある旧臣のはずだ。まだ阿南が生きていた頃、祥も阿南も盛秀が佐竹家の重臣になったことを喜んでいた。祥は盛秀のことを、爺と呼んでいたほど親しい仲だったのだ。盛秀も、旧主の姫が義宣の側室になったことを喜んでいた。

 祥を離縁した後、義宣は祥を盛秀に預けるつもりでいる。その話をするために、盛秀をわざわざ横手から呼び寄せたのだ。事情を知らない盛秀は、横手から呼び出されるとは何事があったのか、と慌てて窪田までやって来た。

 本丸の書院に盛秀を招き入れた。本丸の書院は義宣の気に入りの場所で、小姓たちはそのことを知っているため、義宣が書院にいる時は声をかけないようにしている。内密の話をするにはちょうどいい場所だった。盛秀のほかに、義宣は政景も同席させた。祥を離縁した後、盛秀との取り次ぎを政景に任せるつもりでいるからだ。

「横手から呼び出してすまなかった。道中、辛くはなかったか?」

「これくらい、まったく辛くはありませんな。お屋形様、年寄りと思って見くびられては困りますぞ」

「そうか。元気そうで何よりだ」

 古希をとうに過ぎ、傘寿に近いはずだが、盛秀は年を感じさせない。だが、義宣の話を聞いたら、この元気もなくなってしまうかもしれない。

「ところで、それがしに一体どのようなご用事が?」

「ああ。美濃に来てもらったのは、岩瀬のことでお前に頼みたいことがあったからだ」

「姫様、いえ岩瀬御台様がいかがなさいました?」

 盛秀にとって、祥はいつまでも可愛い姫なのだろう。祥に何かがあったのか、と不安そうな顔をした。そんな盛秀の顔を見ると、ますます離縁のことを言いにくくなる。

「そういえば、お前には岩瀬と年の近い息子がいたな?」

「は、はあ。それがしの嫡男の大蔵は、岩瀬様とは幼馴染と呼べる間柄ではありましたが」

 それがどうした、と口には出さないが、盛秀の顔が訴えている。祥のことで頼みがある、と言っているのだから息子の話などどうでもいい、と思っているに違いない。

「その息子は、数年前に妻を亡くしているはずだ。その後、後妻は迎えたのか?」

「仰せの通り、大蔵は妻を亡くしておりますが、その後は独り身のままにございます。それがしも後妻を迎えることをすすめてはみたのですが、首を縦に振りません」

「娘もいると聞いている」

「はい。いずれは、その孫娘に婿を迎えることになるのやもしれませぬ。大蔵は後妻を娶る気がないようなので」

「では、大蔵は子をなせる男だということだ」

「それはそうでしょう。しかしお屋形様、一体それがしの愚息が岩瀬様と何の関係があるのでしょうか?」

「美濃」

 手に持っていた扇をぱちりと鳴らし、義宣は盛秀を見つめた。盛秀が姿勢を正す。政景も背筋を伸ばした。書院に緊張が満ちる。義宣は、ようやく覚悟を決めた。

「岩瀬を大蔵の妻としてほしい」

 義宣の言葉に、盛秀は絶句していた。義宣もこんなことを言う日が来るとは思わなかった。愛している女を、なぜほかの男の妻にしてほしい、と言わなければならないのだ。だが、胸の内の憤りとは裏腹に、自分でも不思議に思うほど義宣は流暢に言葉を続けた。

「美濃も知っての通り、俺と岩瀬の間には十年間一度も子ができなかった。ほかに側室を迎えれば、もしかしたら俺には子ができるかもしれないが、岩瀬は俺が相手ではもう駄目だろう。岩瀬は二階堂家の後継ぎを産みたいと願っている。俺では、その願いは叶えられそうにないし、岩瀬が俺に佐竹家の世継ぎをもたらすこともないと思う。これ以上、岩瀬を側室にしていても、お互い何の得もないのだ」

「お、お屋形様、お待ちください。それがしには、何が何やら、もうさっぱりでして」

「ふん、年寄りと思って見くびるなと言った舌の根も乾かぬうちに、今度は年寄り面をするのか。まあ、いいから俺の話を聞け。つまり、俺は岩瀬を離縁して新しい側室を迎える。もっと若い女をな。そして、岩瀬は幼馴染の妻になる。大蔵との間に子ができれば、岩瀬も嬉しかろう。二階堂の血と須賀川衆の血を引いた子どもなのだから」

 心にもないことを口にしているせいか、盛秀に対して八つ当たりをしてしまっている。盛秀はおろおろするばかりで、見ていて気の毒になるほどだった。

「お屋形様が岩瀬様を離縁なさることは、既に決められたことなのですな?」

「そうだ。俺の気持ちは変わらない。岩瀬は美濃に預けることに決めた」

「何ということだ。姫様はお幸せにお暮らしだとばかり思っておったのだが」

 盛秀が深いため息をつく。義宣も叫び出したいような気持ちでいる。義宣は祥とともにいて幸せだった。祥のおかげで幸せだったのだ。祥は義宣とともにいて幸せだったのだろうか。最初の数年間は、純粋に幸せだったと思う。だが、二人の間になかなか子ができず、祥は苦しい思いをしていた。そして、義宣は祥を離縁しようとしている。祥は義宣とともにいても、もしかしたら幸せではなかったのかもしれない。そんなことを思ってしまう。

「承知いたしました。倅にはそれがしから話をしておきます。岩瀬様をお迎えすること、大蔵は否とは言いますまい」

「頼んだぞ、美濃。だが、この話はまだ内密にしておいてほしい。岩瀬を離縁するのは俺が江戸から戻ってからだ。俺が留守の間に、主馬とともに準備を整えておけ」

「はっ」

 書院に入って来た時は、年齢を感じさせないと思った盛秀だったが、出ていく時の後姿からは老いを感じた。祥が離縁されることに心を痛め、急に老けこんでしまったのだろう。それだけ、祥は盛秀に愛されているのだ。祥を愛する盛秀と須賀川衆のいる横手ならば、祥は心安く暮らせるに違いない。盛秀の落胆を見て、義宣は少し安心した。

 盛秀が退出し、政景と二人きりになると、政景は信じられないものを見るような目で義宣を見ていた。政景がこんな顔をするとは意外だ。

「どうした、俺が岩瀬を離縁するということが、そんなにおかしいか?」

「はい。殿と岩瀬様のご様子を拝見する限り、今の殿のお言葉は信じられませんね。おかしいとしか思えません」

「岩瀬には子ができなかった。これ以上、ともにいても何の意味もない。それでは納得できないか?」

「ええ、できかねます。殿と岩瀬様の関係と、義宣様と金阿弥の関係は、まったく別のものでした。そんなに簡単に壊れる関係ではないと私は思っております。貴方は確かに、岩瀬様と出会って変わられたのですから」

 政景の言葉が重く心にのしかかる。義宣の身勝手に振り回された政景が言うのだから間違いない。政景はやはり義宣のことをよく分かっている。政景にだけは、本当のことを教えてもいいだろう。義宣もぜめて政景には本心を知っておいてほしかった。

「お前にはかなわない。そうだ、お前の言う通りだ。俺はおかしなことをしようとしている。愛する女を離縁して、わざわざほかの男の妻にさせようとしている。それがなぜか、分かるか?」

「いいえ」

「幕府だよ。本多上野介に離縁を迫られた」

 正純に言われたことを政景にも説明すると、政景は大名家の奥にまで口出しするのはおかしい、と憤りをあらわにした。政景は義宣のために怒っているのだ。義宣のことを思って怒ってくれる人間がいるだけで、少しは救われた気持ちになった。

「こんな理不尽なことが許されるとは。何と惨い。しかし殿、それならば何も美濃殿にあのようなことを言わずとも、本当のことを岩瀬様にも美濃殿にもお話になればよろしいではありませんか。わざわざ岩瀬様に嫌われるようなことをなさらずとも」

「いいんだ、あれで。どうせ俺と岩瀬の関係は終わる。すべて失われてしまう。それならば、いっそ岩瀬が俺に愛想を尽かして、ほかの男と一緒になって幸せになってくれればいい。ただ、岩瀬の新しい相手に美濃の息子を選び、須賀川衆のいる横手を新たな安住の地に選んだのは、最後の悪あがきのようなものなのかもしれないな」

「殿、そのようなことは」

「もう何も言うな、主馬。いくら悪あがきをしたところで、俺が岩瀬を離縁することに変わりはない。岩瀬を傷つけることに変わりはないんだ。だから、これでいいんだよ」

「申し訳ございません。詮無いことを申し上げました」

「いや、ありがとう主馬。お前のおかげで、少し心が軽くなった」

 横手に戻った盛秀から、大蔵が祥を妻に迎えることに頷いたと知らせがあった。たとえ大蔵に異存があったとしても、主の命に逆らうはずがないのだから、当然の結果だ。

 政景と盛秀に離縁の準備を任せ、義宣は江戸へ向けて出立した。次に秋田の地を踏む時が、祥との別れの時だ。秋田が永遠に雪に閉ざされて、江戸から戻ることができなくなればいいのに、春などこなければいいのに、などとどうしようもないことを思ってしまった。

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