枯れぬ花編(九)
政景がはなと結婚して四年が経った。それは川井事件から四年が経ったということでもあり、家中で川井事件のことを表立って口に出す者はいなくなった。影では何と言っているか分からないが、表面上は譜代家臣と政景たちのような新参者の対立は、以前よりもおとなしいものとなっている。
その様子を見て、義宣はついに政光を家老職につけた。川井事件以降、家老は向宣政ひとりだけとし、政光は家老補佐のような役割を担い続けてきた。ようやく、義宣の当初の望み通りに政光を家老にすることができたのだ。政光は、はじめ家老を辞退しようとしていたらしいが、義宣の強い要望に応えて家老になったと聞いている。
政景は、もう四年も経ったのだと思うが、政光にとってはまだ四年しか経っていないのだろう。
新たに府城として築かれた窪田城は未だに細部の普請を続けているが、義宣や重臣たちが暮らす分には問題がないし、城下町も侍町の内町と町人町の外町、それに寺町の整備が進んでいる。着実に義宣の国づくりは形となってきているのだ。四年も経てばそれだけ町は変わるが、政光の悔恨の情は薄れることがなかったようだ。
義宣は家康の息子である徳川秀忠が将軍宣下を受けるために上洛した際、それに扈従するために江戸へ上った。その時は翌年の夏には秋田に帰国したが、その次の年の冬前にはまた江戸へ上り、そのまま今も江戸に滞在している。義宣が不在の間も秋田ではやらなければならない仕事が山積みで、家老の宣政や政光だけではなく、政景も忙しい日々を送っていた。政景は義宣から、特に院内銀山についての仕事を任されているため、毎日銀山に関することばかり考えている。
屋敷に戻っても文机に向かって仕事ばかりしているため、はなには呆れられているようだった。
「もう、旦那様は寝ても覚めても銀山のことばっかり。わたくしではなくて、院内の銀山とご結婚なさったようですね」
「すまない、おはな。私に付き合って起きていなくていいから、もう寝るといい」
「いいえ。旦那様がお休みになるまで、はなも起きて待っております」
銀山と結婚したようだ、と言っている時はからかうような口調だったのだが、起きて待っている、と言うはなの声は、何か大切な話でもするように真面目なものになっていた。はなは素直で明るい。冗談めかして政景を責めることはあっても、改まった態度を取るのは珍しい。何か余程大切な話があるのだろう、と思い、政景は筆を置いてはなの方を向いた。
「どうかしたのかい? いつもは私に構わず、おはなは先に寝ているのに」
「そんな、いつもではありません。本当は、いつもちゃんと旦那様をお待ちしようとしているのですが、気づくと眠ってしまっていて。あ、今はそんな話がしたいのではなくて、ですね」
「うん。何か、私に話したいことがあるようだ」
「は、はい」
政景が話を促すと、はなは俯いて口ごもってしまった。口を開いては閉ざし、膝の上で拳を握りしめ、政景の様子を窺うように見つめてくる。わずかに頬が赤く染まっているような気がするが、どうしたのだろうか。いつもの快活なはならしくない。
「あの、旦那様っ」
「な、何だ、いきなり大きな声を出して」
「わたくしに、子ができましたっ」
顔を真っ赤にして、叫ぶようにはなは言った。政景がまず思ったのは、そんなに大きな声で言わなくてもいいのに、ということ。はなが何と言ったのか、その意味はじわじわとしみ込むように、ようやく理解できた。
「おはなに、子ができた?」
「はい。旦那様の子です」
政景を見つめるはなの顔は赤く、握りしめられた拳は細かく震えていた。政景も自分の顔に熱が集まるのを感じていた。恐らく、はなと同じくらい赤い顔をしているだろう。
「私の子が。そうか、私が父になるのか」
「はなは母になります」
「うん、そうだな。そうだ。父と母になるのだ。おはな」
「はい」
「ありがとう。とても、嬉しいよ」
「わたくしも、とても嬉しいです。だって、旦那様とわたくしの子なんですもの」
心底嬉しそうに笑うはなを見ていると、もう銀山のことなどどうでもよくなってきた。今夜は、もうどんな数字も頭に入らない。いくら計算をしたところで、必ず間違うに決まっている。膝の上に置かれたままのはなの手を握り、しばらく見つめ合った後、ひしと抱き合った。
そのまま床の用意をして二人で寝ることにしたが、二人とも興奮していて眠ることはできそうになかった。政景に子ができた。父になる。不思議な感覚だ。
「旦那様、男の子が生まれるといいですね。旦那様に似て賢い子だといいな」
「女の子でも私は嬉しい。女の子だったら、兄の子を婿に迎えて跡取りとするのもいいかもしれない」
「もう、気が早すぎますよ。ふふ、意外に旦那様は子煩悩になりそう」
「そうか?」
はなに子ができたことを嬉しいと思う自分が、政景も正直なところ意外だった。梅津家は兄の憲忠が本家なので、政景は自分には子が生まれなくても問題はないと思っていた。はなのことは愛しく思っているが、子ができなくても構わないと思っていたのだ。それに、政景の頭はいつも仕事のことばかりで、子ができても可愛いと思える自信がなかった。
だが、はなに子ができたと分かった途端、その子が生まれることが楽しみなような、自分が父になることが恐ろしいような、不思議な気持ちになった。嬉しくて仕方がないが、不安で堪らなくもある。はなもそんな気持ちでいるため、握り締めた手は細かく震えていたのだろう。
義宣の寵童だった金阿弥が、人の子の父になろうとしている。金阿弥だった頃の自分は、考えもしなかったことだ。はなに子ができたことを喜べるようになってよかった。義宣に捨てられたと思っていた頃の自分に、自分の子が生まれることを嬉しく思う日が来る、と言っても信じないだろう。それほどまでに、金阿弥は義宣のことしか考えていなかった。今はもう、義宣に対してあの時のような思いは抱いていない。政景が生涯仕える、ただひとりの主だというだけだ。
これで、義宣にも世継ぎが生まれるといいのだが。義宣に世継ぎができないのに、政景に子ができるのは義宣に申し訳ないような気がする。
義宣は江戸と秋田の往復で忙しく、江戸の御台とゆっくり過ごすことも、秋田の岩瀬御台と睦まじくすることも最近は難しいようだった。これでは、まるで幕府が義宣に子を作らせないようにしているようなものだ。実際、義宣に子ができないまま義宣が急死するようなことがあれば、佐竹家を取り潰すことができるため幕府にとっては都合がいいだろう。
義宣も岩瀬御台も気の毒だ。二人が互いを愛しく思い、大切にし合っていることは、佐竹家中ならば誰でも分かる。だが、岩瀬御台が義宣の側室に迎えられて間もなく十年が経つというのに、一度も子ができない。岩瀬御台は佐竹の子と二階堂の子を産まなければならない、という重圧に心を痛めているだろう。あんなにも愛し合っているのに子ができないことを不思議なものだと思うし、いくら愛し合っていても子ができなければ肩身の狭い思いをしなければならないことを理不尽だと思う。
江戸にいる御台も、一度世継ぎを産んでいるため、また世継ぎを、と期待されることが気の毒だ。
家を存続させることが何よりも大切なことだというのは分かる。だが、なぜ愛し合っているから一緒にいたい、というだけでは駄目なのだろうか。義宣のいない窪田城の二の丸で、義宣の帰りを待ち続ける岩瀬御台が不憫だった。
義宣は江戸と秋田の往復で忙しい。一度江戸へ上れば、一年近く秋田に帰って来ないこともある。しかも、秋田に帰って来ても留守の間に溜まった政務に励まなければならず、祥とともに過ごす時間はなかなか作れないようだった。それでも、秋田にいる間は、無理をしてでも義宣は祥と褥を共にしてくれた。
義宣が四十五歳、祥が三十五歳になっても世継ぎが生まれなければ、若い女を側室に迎えるという約束を交わしてから三年経った。祥は二十八歳になっている。年が明ければ二十九歳だ。義宣は昨年から江戸へ上っており、帰国は年明けになるらしい。一年以上、祥は義宣に会っていなかった。
江戸へ出立する前も義宣は祥と何度も床を共にしたが、祥が義宣の子を身ごもることはなかった。義宣との約束の年を迎えるまで、まだ六年近く時間はあるが、ひとつ年を重ねるたびに、祥の焦りは増していく。
御台がなかなか身ごもらないため、世継ぎをもうけるために祥は側室として迎えられたのだ。今は、そんな事情とは関係なく、義宣は祥を愛してくれているし、祥も義宣を愛しているが、愛し合っているだけでは駄目だ。義宣が佐竹家の当主で、祥がその側室である以上、子をなせなければいくら愛し合っていても駄目なのだ。
義宣は祥に時間を与えてくれた。三十五歳までにきっと子ができるだろう、というわずかな希望を与えてくれた。自分は石女に違いない、と思いながらも祥はその希望にすがっていた。
三十五歳になっても子ができなければ、義宣は若い女を側室に迎える。それは当然のことだと理解している。若い女に嫉妬するつもりはない。義宣の祥に対する愛情が失われるのではないか、と義宣を疑うつもりもない。
だが、子をなせなかった側室は、その後どう生きていけばいいのだろう、と思う。先が見えない。今はただ、義宣と交わした約束と、義宣の愛にすがるしかなかった。




