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道程  作者: 実川
七 枯れぬ花編
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枯れぬ花編(八)

 琳が江戸で暮らすようになって、二年が経った。義宣は幕府から屋敷を与えられていないため、琳は大御台とともに正洞院での暮らしを続けている。はじめは、江戸での暮らしをあまりよく思っていなかったら大御台だが、最近ではだいぶ慣れてきたようで、侍女の小大納言と江戸の街へ出かけることもあるようだった。

 伏見で昌に別れを告げられた時、昌がいなければどうすればいいのか分からない、と駄々をこねて琳は昌を困らせた。あの時は本当に、昌がいなければ駄目だと思ったのだ。昌は琳にとって母であり、姉であり、半身のような存在だった。

 だが、この二年の間、昌がいなくても琳は佐竹家の御台としてひとりで何とか奥を取り仕切って来た。大御台に頼ることの方が多かったが、それでも琳はひとりで生きて来られたのだ。この姿を昌に見せたいと思う。昌は喜んでくれるだろうか。立派になったと褒めてくれるだろうか。きっと、この場にいたら喜んでくれただろう。

 冬になる前には江戸へ行くと義宣から知らせがあり、奥の女たちは義宣を迎える準備で忙しい。琳も女たちに指示を与えて、大御台とともに準備に取り掛かっている。そんな忙しい時に、琳を訪ねて客がやって来たと言われた。

 琳を訪ねてくる客など、琳にはまったく心当たりがない。昌が琳に会いに来てくれたのだろうか、と思ったが、永の暇を自ら願い出た昌が、琳のもとへやって来るはずがない。

「私に客とは、一体誰がやって来たのですか?」

「は、はい。それが、おかしなことを申す男でして、何度か追い返しているのですが、しつこくやって来ますので、一度御台様のお耳に入れた方がよろしいかと思ったのですが」

「どんなことを言っているの?」

 昌の代わりに琳の側近くに仕えるようになった侍女は、その男のことを何と言うべきか迷っているようだった。そんなにおかしい男が、何のために琳を訪ねてくるのだ。そもそも、なぜ琳のことを知っているのだろう。

「御台様、どうかお怒りにならずにお聞きください」

「ええ。分かったわ」

「その男は、御台様のお父上だと言い張るのでございます」

「私の父上?」

「はい。しかし、御台様のお父上である多賀谷修理様は行方知れずと聞いておりますし、その男の姿が乞食にしか見えぬのですよ。追い返した方がよろしうございますね?」

 行方知れずのはずの父であると名乗る男。乞食にしか見えない男。まさか、そんな男が父であるとは思いたくないが、多賀谷重経の娘が佐竹家に嫁ぎ、江戸の正洞院にいるということを知っているのだから、ただの乞食ではないはずだ。わざわざ訪ねてきたということは、何か理由があるに違いない。義宣の迷惑になるかもしれない男ならば、妻である琳が一度会って話を聞いてみた方がいいだろう。

「いいえ、お通しして。本当に私の父ならば大変ですもの」

「しかし」

「私も、そんな男が父であるはずがないと思うけれどね」

 人に会うための準備をしに一度部屋に戻り、それから男が待っている部屋へ足を運んだ。部屋に入り、正面から男を見つめる。男は確かに、侍女の言う通り乞食にしか見えなかった。こんな男が、重経であるはずがない。

「久しぶりだな、琳。見ない間に、いい女になった」

 だが、琳を見る男の顔も、琳に話しかける男の声も、確かに琳の記憶に残る重経のものだった。乞食の男が、琳の名を知るはずがない。乞食の男が、琳にこんな下卑たことを言うはずがない。好色でいつも女に溺れていた重経ならば、こんなことも言うかもしれない。

「父上」

 そうだ。重経なのだ。目の前にいる、乞食にしか見えない男は父なのだ。幼いころからずっと、琳が恐れ、怯え続けていた重経だ。

 今更、何をしにここへやって来たのだ。何のために。重経が逃げ出した後の下妻はどうなったか知っているのか。色々と重経に言いたいことはあるはずなのに、何も言葉が出て来なかった。喉が乾いて、声が出せなくなってしまったようだ。

「お前ももう二十二だものな、いい女になるはずだ。嫁いだばかりのころは色気も何もない餓鬼で、義宣殿にもなかなか気に入られなかったかもしれんが、今は違うだろう? 俺が義宣殿ならばお前を放ってはおかぬぞ」

 重経は琳を褒めているつもりなのかもしれないが、自分の娘をそんな目で見ることのできる重経に、琳は呆れてしまった。幼いころから、重経が淫蕩な生活を送っていることは理解していたが、こんなにも重経は卑しい人間だったのか。こんな人間のどこを、琳は恐れていたのだろう。

「立派な御台様になったなあ、琳。下妻にいた頃が懐かしい」

「それで、一体、どのようなご用件で、私のもとに?」

 何とか絞り出した声は震えていた。重経の卑しさに呆れているはずなのに、まだ重経のことが恐ろしいのだろうか。震えてうまく言葉が出て来ないほどに。

「わしを見て、乞食のようだと思っただろう? それもそうだ。事実、わしは昔の知り合いに物乞いをして何とか暮らしている。これからは、彦根に行ったお前の弟のところで厄介になろうかと思っておる」

「はい」

「だが、彦根に行くにも何かと入用じゃ。なあ、分かるだろう?」

「金ですか」

「佐竹家の御台様だ。乞食にやるくらいの金はあるよな、琳。父への恩返しだと思って、金をくれぬか?」

 何を言っているのだろう、重経は。父への恩返し。どんな恩があるというのだ。琳はずっと、重経が恐ろしかった。ずっと重経の影に怯えて生きてきた。今更、金をせびりにやって来ただけの重経に、どんな恩を感じろと言うのだ。恐怖ではなく、呆れて何も言えなかった。

 こんな男に、琳はずっと怯え続けていたのだ。あんなに恐ろしかった重経は、こんな男だったのだ。

「分かりました。しかし、今は佐竹家も新たな国づくりで大変な時期なのです。私が父上に差し上げられるのは、わずかなものでしかありませんが、すぐに用意させましょう」

「そうか。それは助かる。やはり、離れていてもわしの娘だからな、お前は」

 侍女に命じて金の用意をさせ、渡せるだけの金を渡すと、重経はすぐに屋敷を去って行った。ろくに琳に礼を言うこともなく、娘が父に金を渡すのは当然であるかのように、金を持ってどこかへ行ってしまった。

 重経が琳のもとを訪ねてからしばらくして、義宣が江戸へやって来た。義宣の留守中に重経が訪れたことを伝えると、六郷の義重のもとにも重経が行っていたことを義宣に知らされた。琳だけならば、まだ父と娘であるため理解できるが、まさか義宣の父である義重にまで金の無心をしているとは思わなかった。しかも、義重には金の無心だけではなく、越冬のために館に住まわせてもらっていたのだ。何と恥知らずなのだろう。

「お屋形様、父が北城様にまでご迷惑をおかけし、まことに申し訳ありませんでした」

「いや、過ぎたことだ。それに、父も重経殿のおかげでよい娘を側室に迎えることができた、と言っていたし」

「は、はあ」

「いずれ、俺に弟か妹ができるかもしれん。父はあの年で側室を迎えたんだ。まだまだお元気そうで安心した」

「北城様がお元気なことは、何よりだと私も思います」

 義宣は重経が金の無心をしたことを怒っていないのだろうか。琳が義宣を見つめていると、義宣は琳の頭に手を置いて、優しく髪を撫でた。

「辛かっただろう?」

 琳が重経を恐れていたことを義宣は知っている。だから、琳のことを気遣ってくれているのだろう。その優しさが琳は嬉しかった。

「すまない。こんなことを聞くべきではなかった」

「いいえ、お屋形様のお心、嬉しいです。ありがとうございます。私はあのような父の姿を見て、傷ついたとか、落ち込んだとか、そういうわけではないのです」

「琳?」

「父が乞食に身を落として、私にまで金の無心をして、悲しいと思ったのか、辛いと思ったのか、胸のすく思いがしたのか、どう思ったのか自分でも分からなくて」

「そうか」

「ただ、あんなに恐ろしかった父上が、こんな風になってしまうのだな、とそれだけなのです」

 義宣に説明して、ようやく琳は自分が何を思っていたのか分かった。さまざまな思いがあって、何を思っているのか分からなかったのだ。重経に対して怒りもあれば、悲しみもある気がする。自分が何を思っているのか分からない。

 肩を抱き寄せられ、琳は義宣の肩に頭をもたれた。

「お屋形様、私、父の木像をお寺に収めたいと思います」

「重経殿の木像?」

「はい。きっと、父は前世の業があまりにも深く過ぎて、あのような人になってしまったのだと思うのです。だから、少しでも父が報われるよう、木像を多賀谷家の菩提寺に収めたいのです」

「あんなに、重経殿のことが恐ろしかったのにか?」

 そのことは自分でも不思議でならなかった。重経に対して言葉では説明できない感情を抱いているのに、重経の安息のために木像を収めようとしている。なぜだろう。まだ、重経が恐ろしいからだろうか。自分の身に重経の業が及ぶのが恐ろしいからだろうか。そうであるような気もするし、違うような気もする。

「でも、たとえどんなに恐ろしくても、どんな人でも、私の父ですから」

 これだ。どんな人間だろうと、琳の父は多賀谷重経しかいないのだ。それはどうしようもないことなのだ。

「そうか」

「はい」

「琳は強いな」

 そんなことはない。琳が強いはずがない。義宣は何を言っているのだろう。違う、と言いたかったが、せっかく義宣がそう言ってくれたのだから、そのままその言葉を受け取ることにした。

 昌は元気にしているだろうか。昌に文を書きたくなった。

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