蒸気と花と暗殺者
ノアのみなさーん、今日も蒸気とともに笑っていきましょう!
……って言いたいところだけど、今日はちょっと重ため。
花束を届けたあの子が、裏通りで“刃”になるお話。
タイトルは『蒸気と花の暗殺者』。覚悟、できてる?
ナツメはバイクを走らせる。
人が歩くより少し早い程度。古い石畳がバイクを揺らす。
ゆっくりと街並みを眺めながら進む時間を、彼女は嫌いではなかった。
できれば、仕事とは関係なく見て回りたい――そう思うこともある。
だが、それは叶わない願いだ。
商館が並ぶ通りから少し外れた道に、風に揺れる案内札がある。
錆びた鉄枠に無造作に貼られた札には、
〈空き倉庫・改装済〉〈職人工房・通気良好〉――と手書きの文字が踊っていた。
表向きは〈物件斡旋所〉。
だが知る者は皆、この建物を“金庫番”の根城と呼んでいた。
ナツメは花束を小脇に抱え、バイクを降りる。
額のゴーグルを外し、湿った蒸気を一度、深く吸い込んだ。
取っ手の鈍く光る鉄扉を前に立ち止まる。
中では記録係たちが、彼女に一瞥をくれるが、手を止める者はいない。
扉の奥。
そこに“金庫番”がいる。
「金庫番」と呼ばれる男、レイグ=ノアは、表の肩書きこそ“物件管理人”だが、
実態はこの街の裏を取り仕切るマフィアの幹部にして、
フォージの財の半分を持つとも噂される資産家である。
ただし、“ノア”の名を名乗ることは稀だ。
ノアの名を知らぬ者はこの街にはいない。蒸気都市ノアの創成期を支えた名家。
だが今では、政から外れ、富も地位も地に落ちた没落貴族の象徴となっている。
レイグはその“ノア家の落胤”だった。
とはいえ、彼はその出自を恥じてはいない。
むしろ、“ノア”の名を再び都市に刻もうとする野望を隠しもしない。
家の再建――それは彼の内に燃える火種であり、
フォージの未来を塗り替える野心そのものだった。
事実、没落後に一人で財を成した。
かつてこの区画をまとめていたのは、人々をつなぎ祭りを仕切る存在――オオタという男だった。
レイグはその組織で頭角を現し、やがて後を継ぐようにして、
工場街の飲み屋通りを強引に区画整理し、今の“商業街”へと作り変えた。
やり方は強引で、彼を悪く言う者も少なくない。
だが今、この“フォージ”を統べられるのは彼しかいない――
誰もがそう思いながら、口を閉ざしている。
ナツメは無言で鉄扉を開け、足を踏み入れた。
蒸気とタバコの煙が立ちこめる室内。
その中央、重厚な机に肘をつき、レイグ=ノアが座っていた。
彼の右手には鋼製の鍵。小さな歯車の装飾が刻まれた、
古風なそれを、金庫番は無意識に弄んでいる。
――決して肌身離さないもの。眠るときも、枕元に置かれているという。
何を守る鍵かは、誰も知らない。ただ、その仕草ひとつで
“金庫番”と呼ばれる理由の片鱗が見える。
ナツメはそのことに触れず、ただ一瞬だけ視線をその鍵に向けた。そして何事もなかったように、無言のまま机へと歩みを進めた。
ナツメは机の前に立ち、花束をそっと置いた。
香りは控えめな白花。淡く、儚い香気が蒸気と煙に溶けていく。
「ご苦労だったな、ナツメ」
金庫番は手を止めず、ただ目だけを上げて言う。
鍵を弄ぶ指の動きは止まらない。花束には一瞥もくれない。
どうせ誰かが後で飾るのだろう。
ナツメは軽く頭を下げただけで応じた。
この男が花を注文するときは、決まって“それ以外”の用があるときだ。
「蒸気の中に咲く花はいいものだ」
金庫番の目が細くなる。独り言のような、誰にも聞かせる気のない声。
「だが、花はすぐに枯れる。お前はどうだ?」
問いに、ナツメは答えない。枯れるかどうかを考えるより前に、
彼女にはまだ“咲いている”という自覚さえなかった。
「居場所がなくなったお前を、拾ってやったのは俺だ」
鍵を回す指がぴたりと止まる。声色には、嘲りも憐れみもない。
冷たく、ただ事実だけがそこにある。
「部隊はもうない。だがお前の刃は、必要とされている。そうだろう?」
ナツメは何も言わない。ただ視線を落としたまま、微動だにしない。
金庫番は少し笑い、椅子を軋ませて立ち上がる。鍵は手の中に収めたままだ。
「ま、いいさ。お前には、まだ役目がある」
彼は背後の棚から封筒を一枚抜き、机に置いた。
「安心しろ。綺麗なエプロンのまま戻れる仕事だ。……今回はな」
ナツメは一瞥してそれを受け取る。中身は見ない。
「簡単な探し物だ」
レイグはそれだけ言い、また鍵を弄び始める。
その音だけが、室内に規則的に響いた。
ナツメは何も言わずに踵を返す。
ドアノブを回す瞬間、鍵の音が、まだ続いていた。
ドアが閉まり、湿った蒸気の空気が再びナツメを包む。
彼女はバイクにまたがり、無言でゴーグルを下ろした。
黒いバイクは、またノアの街へと静かに溶け込んでいった。
探し物
昨夜、胸にぽっかりと穴を開けたまま稼働していた異形の個体。
外観はリグオンに酷似していたが、明らかに異質だった。
ナツメは、それを“切るべき枝”と見なした。
止めなければならない――そう判断し、彼女はダガーを手に取る。
左目に眼帯を巻き、裏の顔に切り替わる。
“街のいらない枝葉”を静かに刈り取るのが、彼女の役目。
その存在は、明らかに異物だった。
だが、その頃。駅近くで別のリグオン暴走事故が発生。
優先順位が変わった。
ソレは、放置された。
動けるはずがなかった。
仮に動いたとしても、遠くへは行けない。
――そう、判断していた。
……だが。
ソレは、消えていた。
「枯れない花か」
ナツメはそっと眼帯に触れた。




