月華 リリとナツメと
蒸気と月と、少女の涙
地面に叩きつけられた感触は、思ったよりも柔らかかった。いや、それは身体ではなく心の問題だったのかもしれない。
ナツメは、倒れたまま、天井のような空を見つめる。
(……バカみたいな投げ技)
怒りも、恥も、不思議と浮かばなかった。代わりに、こみ上げてきたのは戸惑いだった。
(こんな、ふざけた技で……終わるはずがない)
そう思った。
だから数秒後には――そう、ほんの数秒のダウン。お互い起き上がって、再び構え直すつもりだった。だが、できなかった。
胸が重い。顔が濡れていた。
「……なに?」
ナツメの胸の上に、柔らかい何かが乗っている。それは、小さな体。小刻みに震えて、声を殺して泣いている――リョウだった。
(なんで、ここに……)
あの子は、戦いに踏み込まない。誰よりも脆い少女のはずだ。けれど、今。誰よりも迷わず、ナツメの胸の上で泣いている。
「……動けない」
それが、ナツメの本心だった。
吹けば飛ぶようなリョウの体。どかすのは容易いはずだった。だが、その涙はあまりにも真っ直ぐすぎて、ナツメの指先から力を奪っていた。
(数秒……たった数秒の制止時間のはずだった)
そう――この少女は、一瞬でそこに飛び込んできた。
迷いのない一瞬。だからこそ、ナツメは動けなかった。だからこそ、涙が止まらなかった。
その姿を見つめているもう一人がいた。
リリの足元には、フェルの姿があった。彼女もまた、肩を震わせて泣いている。
だが違うのは――リリはすでに立っていた。
立ち上がって、なお追撃をしない。
構えてもいない。ただ静かに、泣き続ける少女たちを見下ろしている。
リリの目も、わずかに濡れていた。
それが蒸気なのか、涙なのか――月明かりでは判別できない。
けれど、リリもまた、終わらせようとしていた。
野次馬はいつの間にか、大きな輪になっていた。
誰もが、その輪の中心を見つめていた。
誰かが声を上げた。
勝者も敗者も分からない空気に、酔いしれる声が飛ぶ。
その輪の外――
ジョグの顔が見えた。
バンビもアカネもいた。
静かにだが確かに、震えるほどの熱気があった。
その中心。
ナツメの黒い衣装が、夜の中に溶けそうになる
地面に叩きつけられ、仰向けになったナツメは、頭上に瞬く星をぼんやりと眺めていた。
「……リグレインは……こんなことのために、作られたんじゃないわよ」
呟く声は、情けないほど弱かった。
けれど、その言葉を拾ったのは――
「では、何のために?」
リリだった。
白いコートをまとい、静かに、まっすぐに立つ。
その瞳には、ただ純粋な、まっすぐな問いだけが宿っていた。
ナツメは答えられなかった。
答えを持っていないのか。答えを知らないふりをしてきたのか。
どちらでもいい。
背中に残る痛みが、妙に心地よかった。
今までの戦いも、仕事も、楽しさなんて一度も感じたことがなかった。
そう、リリがくるまで、ずっと思っていたのに。
この痛みも、疲れも、笑いも、すべてが、どこか愛おしく感じる。
「……壊れた、かも」
ナツメがそう呟いたとき、彼女の胸に顔を伏せていた小さな体――リョウが、そっと身を起こした。
涙の跡を袖でぬぐいながら、リョウは何も言わず立ち上がる。
その手が、ナツメの肩に一瞬だけ触れる。
そして、静かに一歩下がった。
まるで「これ以上は、自分じゃない」と言うように。
それでもリョウの目は、最後までナツメを見つめていた。
フェルもまたリリの背を見つめたまま、一歩も動かない。ただ拳を、強く握りしめていた。
そのとき。
目の前に差し出された、リリの手。
細くて、小さくて、けれど強く伸ばされたその手。
その背後には、夜空に煌々と輝く満月。
まるで、リリ自身が、月の光の中に溶け込んでいるようだった。
「3人が、治してくれますよ」
リリが、まっすぐに言った。
迷いも、躊躇いもなく。
ナツメは、ふっと笑った。
満月が綺麗だから――そう思うことにした。
ナツメは、伸ばされた手を、そっと取った。
指先が触れた瞬間、胸の奥に、小さな灯がともった気がした。
たぶんそれは――
壊れたわけじゃない。何かはすでに「生まれていた」のだ。
それを気がつくことを恐れていた。
満月の夜。ノアの片隅で、二つの歯車が、静かに回り始める。
「……終わったのか?」
距離を取るように立っていたイブキが、ゆっくりとリリに歩み寄る。息を整えながら、どこか安堵した顔で、声をかけた。
「終わりました」
リリは、いつものように無表情で、そう答える。だが――その体から、蒸気が止まらない。
イブキが思わず目を細める。
(違う、これは……)
蒸気ではない。いや、正確には、蒸気“だけ”ではない。
リリの太ももから、うっすらと白い湯気が立ちのぼっている。レザーアーマーの隙間から覗く肌――そこからじんわりと立ち昇る湯気。
それは、放熱だった。
闘いの中で、過剰に稼働した内部構造。蒸気機関の無理な出力、制御しきれなかった熱量。それが、リリの体を内側から焼くように熱している。
その熱が、皮膚を通して空気に触れ、淡い霧となって彼女を包んでいた。
イブキは、思わず声を失う。戦いが終わったのに、リリの身体はまだ戦いの中にあるのだ。
「リリ……お前……」
「問題ありません。……通常の放熱処理です」
淡々と。まるで人間ではない“何か”のように、リリは応じる。
だが、その体の周囲に漂う湯気は、どこか儚く、生々しく――そして、美しかった。
それは機械の排気ではなく、確かに生きていた証。傷ついた命が、まだ燃え続けている証拠。
イブキの胸の中に、得体の知れない感情がこみ上げてくる。
彼はただ一歩、リリの側に歩み寄り、言葉ではなく、その肩に手を添えた。
そしてリリは――少しだけ、ほんのわずかに、蒸気の奥で目を細めた。
まるで、笑いかけるように。