フリントとフリズン
ナツメは苛立っていた。宿舎の中が、どうしようもなく――土臭い。
蒸気と油と乾いた金属、それが“普通”だったはずのこの空間に、馴染まない空気が染みついている。干し草、革、汗。獣人たちが持ち込んだ“生き物の匂い”が、部屋の隅にまで染みついている気がした。
嗅覚を遮断しようかと思ったが、やめた。異変に気づけなくなる。痛覚も同様。抑えることはできるが、常時、通常レベルに保っている。故障箇所を早期に察知するためだ。
「おう、お前も飲むか?」
声がして振り返ると、虎がいつのまにかやってきていた。片手にボトル、もう片手に大ぶりなカップを持っている。
「……」
ナツメは横目で見るが、無言。
「相変わらず付き合い悪ぃな。その割にいつも飲んでるな」虎は笑ってボトルを傾けた。
「仕事前に飲むなと、前に言ったはずですが」
「2杯まではバイクに乗れる。ノアでは合法だろ」
「あなたの村の話ですか」
「俺の基準だよ」虎はそう言ってグイッと飲み干し、喉を鳴らした。
牛は部屋の隅で、静かに干し草を噛んでいた。ナツメはその脚元に視線を落とす。
「あのギア、見たことがありません」
「あれ。アイツの嫁が作ったらしい。器用な嫁だよな」虎が代わりに答える。
「踏ん張る力が上がるとか方向移動が楽になるって言ってたな。まぁギアなしでも突進を止められないがな」
「私でも?」
「あんたがギア使わずに立ってるの、逆に不気味だけどな。むしろ全身がギアだろ」
ナツメは答えず、酒を一口だけ口に含む。レイグから渡された“あれ”に比べれば、ただの水みたいなものだ。
「で、話は聞いたよ。工事現場で1時間、リリって子を待つって話」虎が低く言う。
「それで合意したはず」
「したよ。しねーとガーディアンが来て面倒だしな。できれば早く帰りたいんだよな、俺」
「理由でも?」
「娘の誕生日が近い。明後日。明日の夜には出ないと間に合わん」
「……お気楽ですね」
「俺は気楽に見えて、意外とちゃんとやる方なんだわ。早く終わるなら望むところだ」
「そうですか」
外のバイクを虎が見る。大型でサイドカーつきだ。虎が立ち上がり、肩を回す。
「さて。牛、乗るぞー」声をかけると、牛はもそもそと立ち上がり、サイドカーにその巨体を押し込んだ。
「お前そこでは草食うな。娘も乗るんだよ」
牛は無言で乗り込む。狭い座席に器用に収まる。
「嫁への土産買うんだろ?仕事前に買って今日中にでも帰るぞ」
虎はそれでも楽しげに笑って、牛と共に去っていく。
仲間がいて、楽しみがあり
――帰る場所があるのだ。
娘のもとへ。仲間と笑い合える日常へ。
似たような存在に見えても、自分とは決定的に違う。それが、ナツメにはひどく遠く感じられた。
ナツメは扉の前で、ふと足を止めた。背後に残る空間に、もう未練はない。あの生臭い匂いすら、次に嗅ぐことはないだろう。
ポケットから、小瓶を取り出す。レイグに渡された、あの酒。普段なら一口ずつしか摂らない――それを、何のためらいもなく口に運ぶ。
一気に、すべてを飲み干した。
視界が少しだけ歪む。
脈が速くなる。鼓動が金属の奥で跳ねた。
けれどそれも、すぐに静かになった。量は、いつもの二十倍はあった。
だがそれでいい。どうせ、どこにも帰る気などないのだから。
ナツメは瓶を指で弾き、手放した。空の容器が乾いた音を立てて、階段の下に転がっていった。
そして、歩き出す。陽は沈みかけている。夜が来る。
その先に、あの子がいる。




