人々の生活と鉄拳とレフリーと
「昨日のこと、理解してるか」
スピナがそう言ったのは、リリがまだアーマーの留め具を手にしたまま立ち尽くしていたときだった。小さな蒸気音が工房の奥から微かに響いている。
「はい。……昨日、街で暴動がありました。中心はリグオン反対派のデモ集団でした」
フェルが手にしていた金具が「ガチャン」と音を立てて作業台に置かれる。
「私は偶然そこに……いえ、自転車で通っていて、包囲されました。ナツメさんが現れて」
「はい。彼女は……民衆の前に立ち、私を庇うように……その……」リリは少し言葉を詰まらせた。
「それだけか?」スピナの声は穏やかだったが、探るような響きがあった。
リリは少しだけ目を伏せて――そして、首を横に振った。
「……あとは、言うべきではありません。まだ、」
沈黙。その間に、フェルが手元の道具箱を勢いよく閉じた。
「リリ。昨日の件、誰かがあんたを傷つけてたら……」
「怪我はありません」
「そういうことじゃない!」フェルが振り向いた。
「リョウ、泣いてたよ。怒ってたし、泣いてた。私も怒ってる。スピナも、イブキも……」
フェルらしくない。取り乱している様子にリリは首を傾げる。
「ナツメのこと。リグレインだって知ってたの?」フェルの声は震えている。
「ごめんなさい。確証はありませんでした」
リリは静かにいう。
イブキとスピナは沈黙。
「あんたが謝ってどうするのさ」
フェルは涙を拭う
「今日、街は静かだ」
スピナが工房の窓を少し開けて、蒸気混じりの空気を確かめるように外を見る。
「でも、工場街の方はまたデモらしい。お前は行くな。フェルから聞いてるな」
「はい。……白い服も、禁止されました」
「当然だ」フェルが腕を組む。
「目立ちすぎるし、何よりあの服でまた突っ込んでったら今度こそ背中まで裂かれるよ」
「……それで、これを」リリは手元のレザーアーマーを見下ろす。
「自転車には向きません」
リリがぼそっと呟くと、フェルは少し口角を上げた。
「今日は乗るな、そして着なさい」
「はい……着ます」リリは静かにアーマーを羽織る。
その動きはぎこちなく、だけど、確かな意志を感じさせるものだった。
「今日は……少し寒いですね」リリがぽつりとつぶやく。
「暖かい日と寒い日が交互に来るんだよ」フェルが窓の外を見ながら答える。
「春が近づいてるんだよ。……いいことばっかじゃないけど、悪いことばっかでもない、ってこと」
街は、平穏を見せていた。路地に差し込む蒸気の陽光。朝の雑踏。
パンを焼く香り。昨日の騒動がまるでなかったかのように、
人々は忙しなく日常を繰り返していた。
リリは歩きながら思う。多くの人たちには、日常がある。
誰かの涙も、誰かの怒りも、ほんの小さな“遠くの話”として消えていく。
あの暴動も、ナツメのあの言葉も。この街の誰にとっても、
“そこまで大きな事件”ではなかったのかもしれない。
「……それが、普通なんですね」リリは誰にともなくつぶやいた。
彼女はレザーアーマーで歩く。革製のコルセットなど街では珍しくないファッションだが、
本当は自転車に乗りたかった。薄い服が風で靡くのが好きだ。
でも、今日は違う。今は“街の空気”に合わせて、歩く。
蒸気の湿気が石畳にこもる朝――街は見た目には平穏で、
昨日の騒ぎが嘘のように人々は店を開け、道を行き交っていた。
リリが通りを歩いていくと、革細工店の前で、ひとりの男が店先を掃いていた。
袖まくりの腕から覗く皮膚は革のように厚く、筋肉の張りは、イブキやスピナでも敵わないと思わせるほどだった。
「……ああ、お嬢ちゃんか。今日はそっち着てくれたんだな」
男――ジョグはほうきを肩にかけ、リリに気づくと顔を綻ばせた。
「嬉しいね。俺が直したもんを、こんな美人が着てくれるなんてな」
「おはようございます」リリは軽く会釈する。
レザーアーマーの前合わせに指を添えながら尋ねる。
「いつもはもっと軽い服着てるから、俺の腕が落ちたかと心配したぜ。よく似合ってる」
「以前……見覚えがあります。あなたは、レフリーなのでは?」
「おお、そっちも知ってるのか!」ジョグは声をあげて笑う。
「嬉しいねぇ。そう、副業だ。いや……あっちが本業だったかもな」
「本業……?」
「ああ。昔はリングで戦ってた。鉄拳のジョグとか呼ばれたものさ、だいぶ前に引退したけどな。だからせめて、リングに立てる場所がほしくてさ。リングってのはいいぞ、お嬢ちゃん」
「でも、私は……リグレインです」
「関係ないさ」ジョグはほうきで地面に突いて言う。
「勝負相手が認めりゃ、誰だってリングに立てる。レフリーならその許可もいらねえ。あそこは、特等席だ」
「……特等席、ですか」
「そうさ。お前さんも、立ってみな。戦ってもいい、飛び膝げりが見事だったって聞いてるぞ」
リリは言葉に詰まる。けれど、それ以上にジョグの声に迷いがなかった。
リグレインも人も区別がない。
しばらく他愛のない世間話が続く。アーマーの縫い目、革の種類、蒸気で縮まない加工のこと。
獣人に考慮して息子が合皮研究をしていること。
だが、ふとジョグの表情が曇る。手元のほうきを見つめながら、ぽつりとこぼす。
「……花屋の嬢ちゃん、さ」
「ナツメさんのことですか?」
「そう、あの子」ジョグは、言葉を選ぶように口をゆっくり開いた。
「この街の、古い人間は知ってるんだ。あの子と、似たようなリグレインのことを。……目立ちすぎて、ある日、 消えた。政府なのか、別の何かかわからんが、忽然といなくなった」
リリは黙って耳を傾ける。
「だから、今回もあまり騒がないようにしてたんだよ。下手に注目を集めると、ああいう子はまた……」しばらく言葉が途切れた。
「……今回は、どうすりゃよかったんだろうな」
それが独白だったのか、リリへの問いだったのか、判断はつかなかった。
けれど、リリは少しだけ微笑んで答える。
「今度は……帰ってきますよ」
ジョグは、少し驚いたように目を見開き、それから、ゆっくりと笑った。
「いいな、それ。口に出したほうが叶いそうだ、お嬢ちゃん」
目尻に一筋のものが光ったが、彼はそれをすぐに拭い去った。
「アーマー以外でも、いろいろ揃えてる。今度また寄ってくれ。サービスするからさ」
そう言って、ジョグは大きく手を振ってみせた。
「忘れてたあっちの嬢ちゃんも連れてきてくれ、あれは胸の部分直さんとダメだ」
リリも軽く頭を下げて、その場を後にする。背中に残るのは、分厚い革のアーマーと、ほんのりあたたかい声の記憶だった。




