数の暴力
じわじわと人が集まっていた。誰が呼んだでもなく、いつのまにか、広がる円。中心に立つのは、ひとりの少女――リリ。
彼女はただ、自転車を押して歩いていた。
今日は正午の蒸気排出がいつもより濃く、霧雨も手伝ってリリの服は肌に張り付いた。
それが“始まり”だった。
普段なら問題なかった。商業街の人間はリリを見守ってくれている。
だが、その時のリリの周りはリグオン反対デモの人間が取り囲んでいた。
手に農具や工具を持ち、自分たちの仕事をアピールしながら。プラカードを掲げ集団で
歩くリグオン反対派のデモ集会が行われていた。
「……おい、見たか?」「あの背中、金属だったぞ」
「リグオンか!?」「いや、ちがうって、あれは……」
「ふざけるな、何が“ちがう”だ!」
一人が怒鳴ると、もう一人が叫んだ。誰かが手にしていたのは、鎌や鍬だった。工具の数々。日常の中にあった彼らの仕事道具が“武器”として、次々と手に握られていく。
「こっちはリグオンに仕事奪われてんだ!」「アイゼンだって壊されたんだろ!?」
「街の中に、何食わぬ顔して化け物が歩いてるってのかよ!」
真実でないものも混じりながら、加熱していく。
リリは、その声に――反応しなかった。
睨み返すことも、逃げることもない。ただ、黙って立っている。その無表情は、まるで“感情がない”かのようだった。
だから――民衆の怒りは、さらに燃え上がった。
「聞いてんのか!?」「おい、無視かよ……人間の言葉、わかんねえのか!?」
「しゃべれよ! せめて、謝るとか、言い訳するとか!」
リリはゆっくりと、顔を上げる。けれど、目を伏せるわけでも、叫び返すわけでもなかった。
「……自分が怪我をするのは、構いません」「けど、他の人が傷つくなら、止めます」
それだけだった。
民衆の一人が、金属製の柄を地面に叩きつけた。「“構いません”だと!? なめてんのか!」
――その瞬間、誰かがリリの背後に回り、彼女の服を引き裂いた。
鋼の脊椎。溶接痕。むき出しの構造体。細かな蒸気配管が、リズミカルに脈動していた。
「やっぱり、機械だ……!」「隠してたんじゃねえか!」「人間のふりしやがって……!」
怒号が雨のように降り注ぐ。
リリは、その中でも反応を変えなかった。ただ、ぐっと拳を握って、自転車のグリップを強く握る。
――周囲が、熱を帯びていく。
(誰かが、手を出す)
(誰かが、止めなきゃならない)
その場に、フェルやスピナがいれば――まだ止められただろう。だが今、そこにいるのはリリひとり。
“人間のふり”をしていたという怒りと、“人間ではない”という恐怖が、混じり合い――
民衆のひとりが、手を振りかぶる。
その時――風を裂くように、ひとつの影が飛び込んだ。
「よろしくないですね」
その声に、民衆が一瞬だけ動きを止めた。 人の波の中を抜けて現れたのは、ナツメだった。
カーディガンの裾が揺れ、髪が風に踊る。 その姿は、人波の中ではあまりに静かで――だが、圧倒的な存在感があった。
「武装してのデモ活動は禁止されるはずですが、なるほど仕事に誇りを持たないわけだ」
ぴたりと場が凍る。誰かが呟いた。
「なんだあの女……」
「いや、見たことあるぞ。あれ、花屋の……」
「目……目が、光って……」
ザワ……と音を立てて空気が動いた。 ナツメの瞳が、赤く光っていた。リリの穏やかな青とはまったく違う、警告の色だった。
「リグオンか……?」「いや、あれは……」「まさか、あいつも化け物……?」
たじろぐ民衆。武器を握る手が、わずかに震える。 けれど怒りは消えない。いや、怯えと怒りは表裏一体。むしろ憎しみを増幅させる。
「機械が二人かよ……なんで俺たちが黙ってなきゃいけないんだ!」
プラカードのひとつが掲げられる――《人間を守れ!》《ノアはノアのものだ!》
ナツメはその文字を一瞥するが、何も言わない。ただ、リリの前に立ちふさがるようにして歩を進める。
「下がってて、リリ」
「……ナツメさん」
リリが呼ぶ。だがナツメは、ゆっくりと振り向きざま、耳元でささやくように言った。
「壊すのは――私です」
その声は囁きのようでいて、鋼のような決意を宿していた。
リリは目を細めた。けれど、否定もしなかった。ただ静かに頷いた。
その背後、群衆の中で――リョウがナツメを見つけた。
ナツメの目が、リョウの目と合った。
一瞬だったが、ナツメははっきりと見た。 リョウの顔に浮かんだ、怯え――それは「ナツメが知らないナツメ」を見たような目だった。
(……ああ)
ナツメの胸の奥が、かすかに軋む。 息が少し詰まりそうになる。
それでも、顔は変えない。言葉は出さない。
「“人間のふり”は、ここまでってこと」
誰にも聞こえないように、ナツメは自分にそう呟いた。
――ガァンッ、ガァンッ……
警告音が街に響き渡っていた。 金属の足音が石畳に響く。蒸気を吹き上げながら、警備用ガーディアンが数体、雑踏をかき分けて進んでくる。
その姿は無機質で、無慈悲で、ただの「秩序の器」だった。
「――これより、強制排除を開始します」
冷たい合成音声。背中のバルブが音を立て、警告ランプが赤く点滅する。 持っていた鎌やパイプを手放す者もいた。恐怖が熱狂を冷ます。
人々が、次第に静かになっていく。
その中で、リョウは呆然と立ち尽くしていた。
目の前に、ナツメが立っていた。
赤く光っていたはずのその瞳は、もうほとんど光を失っていた。 けれど――リョウには、その「光の消えた瞳」のほうが、なぜか余計に怖かった。
「……私も、あれと同じです」
ナツメは、静かに言った。 リョウに向けられたその声には、何の責めもない。ただ、確認するような響きだった。
「だから……もう、近づかない方がいい」
そしてナツメは、何も言わずに背を向けた。
歩き出す。その後ろ姿に、リョウは何も言えなかった。
ただ、涙が止まらなかった。
暴動の後 人目を避けるように路地裏を歩く 蒸気のせいか湿気が高い。
「まだそんな格好で歩くのですね…少し、だけ。話せますか」
背後から声をかけられ、リリは振り返る。ナツメはひとりだった。
「“あなたを回収しろ”という任務が下りました。騒ぎが起こります。……今日よりも過激な連中が、カイヅカに向かいます」
リリは、ナツメの目をまっすぐに見返す。 表情は変わらない。ただ、ほんのわずかに、まばたきが遅れた。
「巻き込みたくないなら一人で来なさい。あの工事中の駅。明日の日没。」
リリは何も言わない。けれど、ナツメの瞳を見つめるそのまなざしが、拒絶でも、敵意でもないことは、ナツメ自身が一番よくわかっていた。
「“壊す”ために行きます。でも、あなたが来るなら……カイヅカは壊さずに済むかもしれない」
ナツメはそれだけを言い残し、静かに路地の影へと消えていった。




