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静かな花の記憶と胸のバッファ

挿絵(By みてみん)


濡れたシートに、手のひらが触れる。冷たい。

けれど、確かにそこにある。


次に、そっと扉を開けた。軋む音が、雨音にかき消される。


誰もいない店内。静まり返った空気の中に、花の香りがまだわずかに残っていた。


カウンターの奥にかけてあった、いつものエプロン。

ナツメはそれに、ゆっくりと手を伸ばす。

布の感触を指先でなぞる。まるで、それが自分だったかのように。


「……ごめんなさい」


誰にも聞こえない声で、ナツメが呟いた。


エプロンを元の場所に戻すと、何もなかったように身を翻し、また、雨の中へと消えていった。

蒸気が、それを包むように流れた。



雨脚が強くなっていた。街を包む蒸気の音さえ、かき消されるほどに。


傘をさす者はいない。誰も通らない。世界が、ナツメのためにだけ、音を失ったようだった。


そんな中――


「……ナツメ」


聞こえた。いや、**聞こえた“気がした”**だけかもしれない。

ナツメは足を止めた。


振り返ることは、できなかった。蒸気が目を覆い、雨が耳を塞いでいた。

それでも、その声は確かに自分の名前を呼んでいた。温度のある、誰かの声。


「ナツメ」


今度ははっきりと――背中のほうから。


ナツメは振り返らない。けれど、胸の中にあった何かが、わずかに揺れた。


呼んだのは、自分かもしれない。


呼ばれたくて、聞こえたような気がしただけかもしれない。


◆◇◇


 夕暮れの街角。 サンドイッチの入った紙袋を片手に、スピナは足を止めた。


 そこに、ナツメがいた。 風に揺れる黒の装束。赤い瞳が、どこか遠くを見ていた。


「ナツメ……戻ってきたのか」


 スピナがぼそりと呟くように言う。 ナツメは返事をせず、ただ視線だけを向ける。


「それ、持って帰るつもりですか?」 ナツメの声は、いつもより少し硬い。


「アイツら、集中すると飯食わねえからな。……お前も、食っとけ」

 スピナが紙袋を軽く持ち上げる。 


 だが、ナツメはわずかに目を伏せて言った。

「いりません。…あなたは知ってるでしょう?私が、食べないこと。

 私はあなたのそういうところが嫌いです」


 沈黙。


 スピナは、それでも立ち止まったままだった。 ナツメは少しだけ声のトーンを落とした。

「あいつは、どうする? ……花屋のナツメに、憧れていた」

 

 それは、自分にも言い聞かせるような、スピナの声だった。


「でも、今は……リリがいるでしょう。あの子は、誰にでも優しいの。あなたにも、あいつにも」


 その声に、ほんの少しだけ、寂しさが滲んだ。


 スピナが眉を寄せ、低く言う。


「……さっきの、“嫌い”っての、本当か?」


 ナツメは、驚いたように一瞬目を開き――そして、小さく笑った。


「……いえ、嘘でした」

「遠慮なく言える相手なんて、たぶん……あなたと、アカネくらいです」


 言い終えると、ナツメはふっと息を吐くように背を向ける。


 歩き出す足取りに、もう迷いはなかった。


「さようなら、スピナ。私を起こしてくれた人」


 風が、黒い裾を揺らす。 蒸気の向こう、ナツメの姿がゆっくりと消えていった。







カイヅカの工房から、かすかに火花がこぼれていた。

鉄を削る音。油と蒸気の匂い。ナツメは、道の影からそっとそれを見つめていた。


そこにいたのは、あの少年――イブキ。かつて、ナツメが金庫番の依頼で、橋渡しをした相手。

少年は今、誰に頼まれることもなく、自分の意志でパーツを削り出している。

火花が散るたびに、その顔が一瞬だけ明るくなり、数年前よりも少しだけ逞しく見えた。


(……ずっと、見ていたかった)


その願いは、もう叶えられない。いや、叶えてはいけないのだ。


そのときだった。リリが工房からふと顔を出した。

蒸気の流れる夜気の中で、すぐに気配を察知したのだろう。

リリの目が、まっすぐにこちらを捉える。


ほんの一瞬。ナツメの胸を、強く、鋭く、何かが刺した。


(――妬ましい)


言葉にすれば、それはあまりに醜い。

だが、その感情は確かに心をよぎった。


リリのように、何も偽らず、自然にあの場所にいられたら――そんな“もし”を思ってしまった自分を、ナツメは強く恥じた。


リリが何かを言おうとしたその一秒前。ナツメは、風に紛れるようにして、その場から姿を消した。

振り向くことはなかった。足音も、残さなかった。ただ、街に、蒸気の余熱だけを残して――。




◆◆◇

ナツメの中で記憶が回り始める。頭なのか胸なのか最近上手く処理ができないようだ。


黒いバイクで、少女は静かに走っていた。蒸気の匂いと金属の冷たさが混ざる、早朝の街路。

エンジンを止め、工房の前に立つ。扉の隙間から、中をそっと覗く。

最近増えた新顔さん。話したことはない。

壊れかけで見かけたあの夜のリグレイン。

でも、彼女がこの工房で居場所を得ていることは、すぐにわかった。

あそこに座る資格が、自分にあるとは思えなかった。

誰も追い出したわけじゃない。誰も拒んだわけでもない。

ただ、世界が少しだけ動いて、その隙間に、別の誰かが自然と収まった。

そういうものなのだと、ナツメは、冷たいグローブの中で指を握りしめた。




配達の途中、ほんの数秒だけ遠回りして、その光景を見るのが、ナツメの密かな楽しみになった。

機械の身を持ち、それを偽って暮らすナツメにとって――誰かと並んで笑う日々は、決して手に入らない“夢”だった。だからこそ、あの場所は、眩しかった。


やがて、三人は二人になり、そしてまた、三人に戻った。

新たに加わったのは、スピナという青年。フェルとイブキより年上に見えたが、肩肘を張ることもなく、自然にその輪の中にいた。


三人はよく笑っていた。時に喧嘩しながら、誰かの道具を直し、バイクを磨く。

ナツメは、その姿を遠くから、何度も、何度も見ていた。


そして――

三人は四人になった。


人ではない、リリという存在。

けれど、誰よりも自然に、あの場所にいた。


ナツメには、それが羨ましかった。心があった。笑顔があった。

自分には、許されないと思っていたもの。


だから――あの小さな工房の明かりは、いつもナツメの胸の奥で、灯るように、痛かった。


まるで、皮膚が剥がれ、装甲が見えてしまうような――

偽りの身体が、少しずつ剥がれていく。

そうなれば、もっと楽なのに。

“心”さえなければ、こんなにも痛くなかったのに。


挿絵(By みてみん)

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